第三話

 六月の中旬。私は体力テストに参加するために体育館へ向かっていた。

 前を歩く生徒の集団の話を聞く限り、真面目に取り組もうとする人や、適当に済まそうとしている人がいる。私はどちらかというと後者の人間になる。

 運動は嫌いではないけど、この時期の湿った体育館で項目をこなすのは少し億劫に感じる。廊下の窓から見える濃い灰色の雲が私のやる気をさらに下げる。この時期はいつもそうだ。嫌でもこの湿気と向き合わなければならない。

「白川さん、少しいい?」

 げんなりしながら歩いていたところに体操服姿の百井が後方から現れ、右隣に並ぶ。

 百井は髪をまとめていたり、タオルや筆記用具を持っていて、やる気十分といった感じ。やはり私よりほんの少し身長が高い。

「何か用?」

 百井は私のクラスメイトだけど、普段から会話するような仲ではない。何か厄介なことに巻き込まれるのではないかと頭の片隅で考える。

「今日のテスト一緒にやらない?」

「一緒にやるって、どういうこと?」

 百井の問いかけの意味がわからず首を傾げる。とりあえずカツアゲではなくてよかった。それはともかく体力テストは数人でやるものなのかという謎が生まれる。

「ほら、反復横跳びの数を数えたり、腹筋の補助が必要だから二人組でやるんだよ」

「あぁ、言われてみればそうだね」

 百井が説明してくれたので要領を得た。思えば中学生の頃の体力テストで他の人に数を数えてもらった記憶がある。

「もしかしてもう組む人決まってたりした?」

「いや、二人組でやることに今気付いたんだよね。私からもお願いしたい」

 百井からの誘いを受けるむねを伝える。

「そう。よかった」

 百井はどこか嬉しそうに言った。


 体育館に到着。想像通りに、人の多さと湿り気によって、独特な熱気を含んだ不愉快な空間が出来上がっていた。

 もう体力テストを終わらせたのか、隅に集まって談笑している生徒がいる。移動中に気付いたけど、クラス合同だったようで、これなら二人組の相手を探すのに苦労はしなかったと思う。とは言え、百井との即席タッグを解消して新しいタッグパートナーを探すという身勝手この上無いことはできない。

 今は百井と共に体力テストを程々にこなすことが先決。先ほどから続く取り留めのない会話も、百井に気を遣わせている気がして何とも落ち着かない。

「少し休憩しない?」

「いいけど」

 いくつかの項目を程々にこなし、反復横跳びの測定を終わらせたところで少し休憩することになった。

 急いで終わらせてこの場を離れたい気持ちはある。項目を終わらせたら残りの時間は教室で自習らしい。しかし、せわしなく動いて汗だくになるのは本末転倒。


 体育館の入り口付近の風通しの良い場所に移動して一息入れる。

 百井と何を喋ればいいのか思いつかないので、周囲を見渡してしまう。他の生徒の真摯な向き合い方を見ていると、もう少し真面目に取り組んでもいいかもしれないという気持ちが僅かに芽生えてくる。運動能力の平均値を下げていることに対しては申し訳ない気持ちで一杯。

 ふと、遠くの長座体前屈のコーナーにいた他のクラスの知り合いが目に入った。向こうも私に気付いたのか手を振ってきたので私も手を振り返す。

「知り合い?」

 百井は記入用紙を挟んでいるクリップボードをうちわのように使いながら言った。

「うん」

「白川さん友達いるんだ」

 百井は棘のあることを言った。

「そりゃあ、いるよ……少しは」

 数少ない友人を誇るために私は言った。

 適当なところで休憩を切り上げ、残りの項目を測定した。

 最後の項目の上体起こしの測定を終え、ようやく熱気が籠った空間から離れられる大義名分を得る。

「じゃあ戻ろうか」

「そうだね」

 記入用紙を体育教師に提出して、百井と一緒に体育館を離れた。

 百井が誘ってくれたおかげで諸々の手間は省けた。

 それはそれとして、なぜ百井は私を誘ったのだろう。

 百井はカースト上位という権威ある派閥に属しているのだから誘える友達がいないようには見えない。それこそいつも一緒にいる他の三人を誘えばいい。

 尤も、今までの学校生活を通して受けた百井と他の三人の派閥の印象は、まさしく百井とその取り巻きといった感じで、連中が百井の後ろにくっ付いているのをよく見かける。

 クラスに懇意な友達がいない私には得難い苦労があるということだろうか。そのおかげで補助してもらう人を探す手間が省けたから願ったり叶ったりだった。

 とは言え、二人組になる必要があったのは補助が必要な項目だけで、それを先に終わらせてしまえば、ここまで行動を共にする必要はなかった。


 その日の放課後。私は遠くの音楽室から聞こえる吹奏楽部の練習に耳を傾けながら、別棟にある図書室に向かっていた。

 帰宅部なのだからさっさと家に帰ればいいのだけど、それでは味気ない。何か気付きがあるかもしれない。

「おっ、白川。今日も読書かい?」

 図書室に入ると、同級生の女の子、樋渡ひわたしが貸し出しカウンターに鎮座していた。付近のコンセントで携帯電話の充電をしながら、貸し出されている雑誌を読んでくつろいでいる。

 樋渡は漆黒のショートヘアで、私より身長が少し低く、制服を着崩していない。性格は飄々としていて、上手な人生の立ち回りをしていそうな雰囲気がある。

 私と樋渡はそれぞれ別の中学校に通っていたけど、同じく水泳部で練習場所が同じだったから見知った仲。

「そんなところ」

「ちょうどよかった。お尻で椅子を磨くのに飽きてきたところだよ」

「ちゃんと作業しなよ」

 読み進めている途中だった文庫版の三国志を手に取り、貸し出しカウンターに近い席に座る。

「お尻で椅子を磨くのも図書委員としての立派な仕事。偉い人と同じ。つまり私は偉い」

「ただ座ってるだけじゃん……というか、それって盗電じゃないの?」

「おやおや、白川ちゃんは真面目ちゃんだねぇ。こんないい場所にあるコンセントは使わなきゃ損だよ。ほら、もう八十パーセント」

 樋渡はそう言い、携帯電話の画面を見せてきた。

「いや、司書の先生にバレたらまずいでしょ。私まで巻き込まれそうだし」

 この学校に義理立てをする気は全くないけど、誰かが目の前で叱られる様を見るのは忍びない。

「怒られる時って複数人だと怒りの矛先が分散するから好都合なんだけど」

「痛い目見ても知らないからね」

「わかったよ……」

 樋渡は面倒そうにコンセントから充電器を引っこ抜いた。

「素直でよろしい」

「学級委員長かよ、まったく。ねえ、白川の星座は何座?」

「てんびん座だけど、なんで?」

「この雑誌に占い載ってんの、信憑性皆無のやつ。てんびん座はね……超微妙」

「見せて」

 私も貸し出しカウンターの方に移動し、樋渡が広げている雑誌に目をやる。てんびん座は本当に微妙。

「白川は敵が多そうだから、こういうのを参考にして自己防衛に努めるべき」

「敵なんかいないって」

「いーや、白川は知らぬ間に恨みを買ってるタイプだよ」

「はいはい。樋渡は何座なの?」

「何座だと思う? 当てたら十ポイントあげよう」

「うーん、おうし座」

 私は雑誌のページを見て適当に言った。

「なんでわかった……」

 どうやら当たっていたらしい。

「わからなかったから一番良い内容の星座を挙げただけ。仕事運良いね」

「どうでもいいわ」

「おうし座ってことは樋渡の方が年上なんだね」

「ふふふ、敬ってくれてもいいのよ」

 樋渡と中身の無い話をしていると、司書の先生がやって来たので。おとなしく席に戻り読書を再開した。


「じゃあ、先に帰る」

 頃合いを見て帰ることにした。利用者も増えてきたし。三国志を読み終わるのはまだ先になりそう。

「白川さぁ、部活入らないの?」

「うーん。忙しくて」

「嘘つけ。芸能人でもあるまいし、暇つぶしでここに来てるくせに」

「バレてたか」

「勿体ないなぁ。あっ、ちなみにバド部は常に部員を募集しているから。一緒に青春の汗を流してみないかい?」

 樋渡はちょっと癪に障る顔をした。

「バドミントンは遊びとしてならやってもいいんだけど、もう反射神経がおばあちゃんだからさ。体力も落ちてるし。まあ気が向いたらね」

「絶対気が向かないやつだ」

 貸し出しカウンターで作業するふりを続ける樋渡に別れを告げて、私は図書室を離れた。


 その日の夜。自室のベッドで横になって土日の予定を考える。

 少し力を入れて気分転換をしてみようと思う。

 力を入れて息抜きすることは変かも知れないけど、趣味や遊びに本気で取り組んでいる人は輝いて見える。

 そういった方々の前向きな姿勢を参考にすれば、今の私を矯正できるかもしれないので悪くないと思う。最近の休日は家でゴロゴロしてばかりであっという間に終わってしまう。この愚行も食傷気味なので改善したい。

 ふと右手で弄んでいた髪の毛先が目についた。私は考えごとをしていると髪の毛を触る癖がある。そして毛先が痛んでいることに気付き、落ち込んだ。

 とりあえず明日は買い物に行くことにして、そのまま眠りについた。

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