第二話
五月の末。雨が降る憂鬱な日の放課後。
「白川さん、ちょっと待ちなさい」
下駄箱で下ろしたてのレインブーツに履き替えて家に帰る気満々だった私を、担任が呼び止めた。
「なんですか先生」
聞こえなかったふりをして帰ろうかとも思ったけど、それは少し心証が悪い。
お説教ではないことを祈り、身構えながら返事をした。
「このプリントを百井さんのお宅へ届けに行ってくれないかしら?」
そう言い、担任はプリントが入っているであろう封筒を私に見せた。今日の配布物は保健だよりしかなかった。
「百井って同じクラスのですか?」
そういえば百井は学校にいなかった。どんな理由で欠席したのだろうか。体調不良かな。それともサボりか。
「ええ。家が近い子に頼んだんだけど、付近で飼われている犬が怖いという理由で断られてね」
「はあ」
「そして丁度いいところにあなたがいたと。部活に入っていないし、暇でしょ?」
担任はニヤリと笑い、私の痛い所を突く。心の内を見透かされているようだ。伊達に大人ではない。
「そうですけど……でも、百井の家の場所は知りませんよ」
「住所は教えます。そこまで遠方ではないから、あとは地図アプリでも使いなさい。お宅にいなかったらポストに入れても構いません」
「……わかりました」
担任は封筒と百井の家の住所が書かれたメモ用紙を私に押し付けて、職員室の方へと足早に去っていった。
正直、雨が強まるかもしれないから、こんな使いっ走りなど断って、真っ直ぐ家に帰りたかった。
しかし、担任が指摘したように私は帰宅部。
水泳に打ち込んでいた中学生の時とは違い、空虚な放課後を過ごしている今の状況に対して後ろめたい気持ちが多少はある。こういった面倒事を請け負うことで、その気持ちが雪がれるのではないかという期待があった。
それに、ここで担任に貸しを作っておけば、今後多少の非行は黙認してもらえるかもしれない。そういった打算の下の承諾。
地図アプリを開き、百井の家の住所を入力する。
それにしても気軽に生徒の住所を教えていいのだろうか……おいおい、徒歩で行ける距離だけど、私の家の方角とほぼ逆ではないか。私の家は学校から東の位置。百井の家は学校から北西の位置にある。やはり断ればよかったな。
百井の家に向かうための準備が整い、傘を差して学校を後にした。
梅雨時期らしい止む気配のない雨の中、時々立ち止まっては地図アプリの案内に従い、普段は通らない道を歩く。
百井の家がある地域には小学生の頃に同年代の子らと遊びに行ったきりで、最近になって立ち寄ったことはない。道の途中にあった市民センターの外観が綺麗になっていたり、以前は砂利道だった道が舗装されていて時の流れを感じた。
雨が強まり、使いっ走りを引き受けたことを少し後悔しつつも、ようやく目的地の百井の家と思わしき家に到着する。新築の家が立ち並ぶ住宅街のその一角、二階建ての綺麗な家が百井の家。付近に狂暴な犬が飼われている様子はなかった。ここに到着するまでに要した時間は約二十五分。日頃の運動不足が祟り、到着予定時間を少々越えてしまった。
手短に用事を済ませようと思い、百井宅(仮)の玄関の
さて、どうしたものか。百井とはこの間のハンカチの件以来、特に会話していない。いざ家を前にすると緊張する。百井と友達だと胸を張れるほどの仲ではない。深く考えていなかったけど、誰が出てくるのかわからない家のチャイムを鳴らすのには勇気がいる。
もうポストに封筒を入れて帰ってしまおうか。いや、ここまで来たのだから手渡しするのが礼儀ではなかろうか。でも他人との関わりを持ちたくないご家庭だった場合はどうしよう。逆に不快な思いをさせてしまうかもしれない。
ごちゃごちゃ考えても埒が明かない。ここは堂々と。
意を決してチャイムを押し、インターホンのカメラに顔を向ける。特に反応はない。つまりお留守なのだと思い、これ幸いと鞄から封筒を取り出し、玄関から離れた位置にあるポストに向かおうとした。
すると、鍵を開ける音がしてドアが開いた。なぜかちょっとだけ。
「あっ、こんにちは。私、白川というもので……」
私は立ち止まり、最低限の文言を言おうとした。
「白川さん……」
「あれ、百井?」
この声は百井だ。
「うん、そう」
百井はなぜか姿を見せない。
「あの私……」
「ちょっとそこで待ってて」
「えっ? あっ」
百井は私の返答を待たずにドアを閉めてしまった。この封筒を受け取ってもらうだけなので大した用はない。
身だしなみでも整えているのだろうか。それならしょうがない。事前にアポイントメントを取ってから訪問したわけではないし、接点がないクラスメイトが急に家に来られたら私も困ってしまう。
もしかしたら今の今まで寝ていて、この世の終わりのような途轍もない寝癖が付いていたのかもしれない。だとすると百井は具合が悪くて学校を休んだということだろうか。寝ているところを叩き起こして悪いことをしたかも……いや、違う。
これは……彼氏だ。恐らく今日は家で彼氏と一緒に学校をサボってて、今から紹介(自慢)するからそこで待ってろってこと? 彼氏いるのか……百井ならいてもおかしくない。まずいぞ。心身ともに疲弊した今の状態で、成就した恋愛の波動をその身で浴びてしまったら、初心な私は気が触れてしまう。
腕時計を確認したところ、もう五分は経っている。他に急ぎの用はないけど、よく知らない地域だから完全に暗くなる前には家に着きたい。
何より真綿で首を締められているこの状況、気が気じゃない。帰りたい。
「ごめん、待たせちゃったね」
ようやくドアが開き、百井が姿を見せた。涼しそうな部屋着を着ている。
彼氏の姿はない。他に見えるものは玄関収納と床に置いてあるキャディバッグ。私の思い過ごしか? 百井の髪を見ると今さっき整えましたって感じがする。
「あれ? 一人?」
「ん? そうだけど、なんで?」
「あっ、別に……あの、これ。先生に頼まれて」
私の不審さに目を細める百井をごまかすために封筒を手渡した。
「ありがとう。なんだろ」
百井はそう言い、封筒を興味無さげに下駄箱の上へ置いた。
「風邪でも引いたの?」
「ううん、今日はサボっただけ。白川さんってこの辺に住んでるの?」
「いや」
「え、じゃあなんで」
「暇してるからって」
「それは……災難だったね」
「そうでもないよ。じゃあ、私はこれで」
「あっ、ちょっと待って」
「え?」
百井はまた私を呼び止める。
「はい、こんな雨の中お疲れ様」
百井からよく冷えた瓶の栄養ドリンクを手渡された。
「ありがと……」
「じゃあね」
「うん、じゃあね」
私はそう言い、百井の家から離れた。
ここから自宅までの長い道のりを思うとげっそりしてしまう。
なので、英気を養うために、早速栄養ドリンクを飲むことにした。こういうのは常用していないけど、たまには頼ろう。
住宅街から少し離れた街灯のある場所に移動して、栄養ドリンクに口を付けた。五臓六腑に染み渡る、元気が出るような味がした。
一息入れて、片づけた使いっ走りについて考える。
費やした時間と労力の割に合っていないのではないかと思う。予想以上に体が疲労に支配されている。それにこの程度の使いっ走りの対価として、非行の免罪符を得られるのか疑問が残る。
でも幼少期の記憶を回顧する体験は出来たわけで、骨折り損だったとは一概には言えない。百井からの労いの言葉もあったからかな。
おまけに百井の部屋着姿を見てしまった。百井の制服姿と体操服姿しか見たことがないから物珍しい体験。
滅多に見ることのできないものには価値がある。百井の部屋着姿はツチノコ並みの珍しさだろう。友達でもないクラスメイトの部屋着姿を見るということは、それくらいあり得ないことだと思う。猪なら見たことあるんだけど。
栄養ドリンクを飲み切り、家で捨てるために鞄に入れた。
そして車のヘッドライトが眩しく乱反射する雨の中を再び歩き、くたびれながらも自宅に辿り着いた。
その日の夜は久し振りにとてもよく眠れた。
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