第一章 白川の夜明け

第一話 春の導き

 五月の中旬。ゴールデンウィーク明け。高校一年生の私は、気だるい体に鞭を打って真面目に学校へと向かっていた。入学前にミルクティーグレージュに染めた髪は具合がいい。

 私は春が嫌いだ。新生活の陽気な雰囲気に浮かれた人々が目障りだから……というわけではない。

 この季節は過ごしやすい気候の反面、毛虫やバッタが我が物顔で道を闊歩するから非常に危険である。桜の木の下は特に危ない。

 道端にうごめく毛虫におののきながら歩いていると、数人の小学生が私の横を騒ぎながら走り抜けていった。そのばたばたと走っていく元気な姿を見て、少し羨ましい気分になってしまった。

 私もついこの間まで小学生だったはずなのに、中学生生活は一瞬で過ぎ、いつの間にか高校一年生になっていた。

 ここまで来てしまうと、今後の人生に嫌でも目を向けなければならなくなる。その日の給食や遊ぶことしか考えていなかった気楽な時代に戻りたい。

 そんなノスタルジックな気分は、学校に近づくにつれて目に入る私と同じ制服を着た生徒たちの存在がかき消す。

 連休明けなのに腐らず学校に通う彼らに恥じぬよう、私も高校生の責務を果たさなければ。


 連休明け早々賑やかな教室に入ると、列の一番後ろの私の席の近くに何かが落ちていた。遠目からでもそれがハンカチかハンドタオルの類であることはわかった。私が何もせず席に着けば、それは椅子の下にくる。

 放っておいてもいいけど、クラスメイトからは椅子の下に物が落ちていることに気付かない間抜け扱いされるかもしれない。それは私の自尊心が許さない。

 故にとりあえず拾った。

 これでも私は学校の清潔を保つ美化委員会に所属する身。これは委員会活動の一環と言える。

 それにこのハンカチを放置したら、人の行き来によって教室の隅へと追いやられ、ぼろ雑巾のような見るも無残な姿になってしまう。蹴っ飛ばす粗暴な人もいるかもしれない。このクラスはそこまで世紀末なクラスではないけど、そうなったとしても落とした人の責任である。

 しかし、落とした人にも止むに止まれぬ事情があったはず。他のことに気を取られていたから物を落としたことに気付かなかったとか。何より落し物は変わり果てた状態で見つかるより、元のままの状態で見つかったほうがいいだろう。

 一応付近のクラスメイトに持ち主かどうか尋ねてみたけど違うらしい。早速困ったな。


 持ち主の情報を得るために、少し失敬してハンカチを広げた。

 デザインは白黒の幾何学模様で、感触は真新しく、使い始めてまだ日が浅い印象を受ける。そこら辺に放り出すような汚れは見当たらない。持ち主の名前も刺繍されていない。この模様なんて言ったかな、ドズル迷彩だっけ。

 私は入学に合わせて日用品を新調した。このハンカチの持ち主もそうなのだろうか。そこにはちょっとしたシンパシーを感じた。

 ハンカチを調べても有益な情報は得られなかった。

 余計なことはせず、教卓の上に置いておけば担任が対処するだろう。晒し者にされるかもしれないけど勘弁してほしい。

 私が教卓に向かおうとしたところ、四人のグループが黒板側の入り口から談笑しながら教室に入ってきた。

 クラスメイトと交流が少ない私でも、あの連中が私のクラスのカーストで上の方に位置する方々であることを認識していた。ぼんやりとした認識だからそれぞれの名前は危うい。

 このまま教卓に向かうと連中と鉢合わせてしまう。何か因縁を付けられるかもしれない。なので一度自分の席に戻った。

 黒板付近で屯している連中の様子を窺っていると、その内の一人の女子生徒が何かを探しているのか、キョロキョロと下を見ていた。その様子を私の目は見逃さなかった。

 その女子生徒は百井ももいという。私はあの連中の中でも百井のことだけは認識していた。

 百井は美しく長い黒髪の持ち主で、私よりほんの少しだけ身長が高く、制服を着崩していない。顔つきは年齢相応のあどけなさを残しつつも端正なつくりをしていると思う。桃を連想させる可愛げのある名字をしていたり、私の父方の祖父の名前が百太郎ももたろうだったことから、勝手に親しみを感じていた。

 ほぼ百井のことしか見ていなかったけど、連中は各々の席に散った。百井は自分の席に向かう間にも教室の床に目をやっていた。百井の席は窓側から二列目の一番後ろの席。

 百井にこのハンカチの持ち主なのかどうか聞いてみようかな。でも入学早々幅を利かせてる連中と付き合いがある人だから、威圧的な態度をとられたら少し怖い。

 と言っても同じ学年だし、ビビる必要は無い。

 教卓まで遠回りになるけど、大した労力ではない。このハンカチの持ち主が百井であれば、むしろ安上がり。

 そんな考えで私は百井に話し掛けるために席を立った。


「ねえ」

「……何?」

 私が話しかけると、百井は携帯電話から目を離してこちらに顔を向けた。舐められないようにするためか、毅然とした態度を示している。ともあれ無視されなくてよかった。

「ハンカチ落とさなかった?」

 私は百井の胡乱うろんな目つきに臆せず、左手に持っていた例のハンカチを見せる。

「え? あ……それ私の」

「そう。はい」

 私がハンカチを差し出すと、百井は仰々ぎょうぎょうしく両手で受け取った。ひったくるような受け取り方を期待していたから拍子抜けした。

「ありがとう。白川しらかわ…………さん」

「どういたしまして」

「よく私のハンカチだってわかったね」

「探し物してた感じだったから」

「ああ、バレてたか……」

「それじゃあ」

 私は用が済んだので自分の席へ戻ろうとした。

「白川さん、ちょっと待って」

 ところが、百井に呼び止められた。私にハンカチのクリーニング代を請求するつもりだろうか。

「何?」

「おはよう」

「あっ……お、おはよう」

 私としたことが礼節を欠いていた。ハンカチに気を取られていたとでも言うのか。

 私は百井に情けない姿を見られて萎縮してしまい、その場から逃げるように自分の席へ戻った。

 それにしても百井があのハンカチの持ち主だったとは。私の直感は捨てたものではないのかもしれない。今日は何かと調子が良い日なのかも。帰りに宝くじでも買ってみようかな。

 尤も、あのハンカチの持ち主が百井なのかどうかは定かではない。

 けれども、ハンカチを手にした時の百井の安堵した表情は本物だった。それだけ大切な物なのかもしれない。

 財布を落として辺りを探すも見当たらず、交番に駆け込んだら親切な人が拾っていて中身もそのままに返ってきた、という話を聞いたことがあるけど、そういう運の良い人は氷山の一角であって、物を紛失した大半の人は泣き寝入りをしているのではないかと思う。

 百井がそんな不幸な目に会わなかっただけでも、あのハンカチを拾った甲斐があったと思える。たちの悪い猜疑心さいぎしんは抑えなければ。

 しかし、私の行動の発端は自らの保身であり、偽善的な行いを正当化することに精一杯だった。

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