第10話 誰も知らない嘆き

 律佳はずっと、出来のいい賢人と比べられるのが苦痛で仕方がなかった。何度も出来損ないと罵られ、耐えられなくなったところで家族に初めて反抗し、そのまま家を飛び出した。

 チヤホヤされている賢人が羨ましくもあったし、妬ましくも思った。賢人さえいなければ、自分はこんなにも比べられて、出来損ないと言われることはなかったと思ってしまうこともあった。

 勉強も運動もできて、人望もあつく、いつも人に囲まれている。律佳とは正反対。彼に不自由など、何一つないと思っていた。

 でもそれは、違った。

 賢人も賢人で、比べられることや期待されることに苦しんでいた。そのことを、律佳は初めて知った。

 その時、黒いモヤが、賢人の体を包み込んだ。『影』が表に出てきたのだ。賢人は苦しそうにもがいている。


「賢人!」


 律佳は賢人を助けようと手を伸ばすが、黒いモヤが弾き返してしまう。

 早く、賢人の心の奥底に眠っている闇を、吐き出させなければ。

 賢人がこうなってしまったのも自分のせい。自分が出来損ないのせいで、賢人に辛い思いをさせてしまった。なんとしてでも、責任を取らなければ。

 たとえどんなに傷つけられてもいい。賢人を助けられるのならば。そう思って、律佳は叫ぶ。


「どんな悪口だって言っていい。どれだけ僕を傷つけたっていい。僕はその全てを受け入れるから。本当のことを言って欲しい!」


 すると賢人は、『影』に苦しみながら、口を開いた。


「僕ばかりが頑張って、僕ばかりが優秀でなきゃいけなくて。弱いところを見せたら、幻滅されそうで。だから誰にも言えなくて。あなたはいい子だ、優等生だって言われ続けて、みんなが僕を頼ってくる」

「それでいい。もっと、もっと言って!」


 律佳は必死に叫んだ。


「兄さんが親の期待を裏切ったから、僕はさらに期待されて、たくさんのお金をかけられて。失敗は許されないんだ。失敗したら、僕は全てを失う。怖いんだよ。怖くて怖くて仕方がないんだよ。兄さんと同じようになるのが。それなのに兄さんは、なんのプライドもなく、全部を捨てて一人で自由にやってる。ずるいよ」

 

 そして賢人は、カッと目を見開いて、そして言った。


「僕は本当は、兄さんのことが羨ましかったんだ! 全てから解放されて、何にも囚われていなくて! 僕はこんなに頑張っているのに、兄さんは何もせずにのうのうと生きている。そんな兄さんが目障りだった。だから、消えて欲しかった。僕の世界から、いなくなって欲しかった!」


 その瞬間、賢人の中から、『影』が悲鳴をあげながら飛び出してきた。

 カイリはすぐさま氷のナイフを生み出して、暴れ回る『影』に切りかかる。


「逃げるな! お前は負けたんだ!」


 『影』は律佳の部屋の中を逃げ惑う。そして『影』は、一直線に律佳めがけて飛んできた。


「律佳! やれ!」

「え? 僕が?」


 するとカイリは氷のナイフを律佳の足元へ転がした。律佳はそれを慌てて拾う。


「冷たっ」


 こんなものをずっと素手で持っているカイリの気が知れなかったし、律佳の体温によって少しずつ溶けていく。

 感心している暇などない。律佳はナイフを構え、こちらに向かってくる『影』に向かってナイフを振りかざした。

 『影』は悲鳴をあげながら、跡形もなく消えた。

 律佳は力が抜けて、その場に座り込む。とりあえず、ほっとした。心の闇を吐き出し、『影』から解放された。賢人を助けられた。

 賢人は訳が分からないというように、口をポカンと開けている。律佳はすぐに賢人に駆け寄り、抱きしめる。


「……賢人、ごめん。気づいてあげられなくて」

「兄さんに僕の気持ちなんて、分かるわけがない」


 と賢人は吐き捨てた。それでも律佳は続ける。


「僕はずっと、なんでもできる賢人が羨ましかった。僕は何をやっても上手くいかなくて、賢人と比べられるのが苦しくて……賢人に悩みなんて、ないと思ってた」


 でも、それは違った。律佳には想像もつかない悩みだった。期待される側と、見放された側。ずっと分かり合えることはないと思っていた。律佳が賢人を羨むように、賢人も律佳を羨んでいた。皮肉なことに、『影』を通して彼らはお互いを知ることが出来たのだ。


「僕たちはここにきてようやく、分かり合えたようだね」


 律佳は賢人を抱きしめたまま言った。


「賢人、君は頑張っている。勉強だって、寝る間を惜しんでやっているんでしょ? テストで1位になったり、野球部でもキャプテンだったり、生徒会長になったり。すごいことだと思う。僕には全部、できないこと。だけど、それだけじゃダメ」


 律佳の人生の一番の過ち。それは、人と関わって来なかったこと。人に助けを求めなかったことだ。

 カイリと出会ったことで、それが分かった。人は人に傷つけられる。でも、救ってくれるのもまた、人だ。


「辛いことや苦しいことがあったら、一人で抱え込まずに、周りに頼ることも大切だよ。僕はそれができなかった。だから、能力だけではなく、人間性までもがここまで落ちぶれてしまった。賢人には、そうなって欲しくない」


 律佳は賢人の頭を撫でた。


「君は僕と違って、周りにたくさん人がいるじゃないか。だから、ちゃんと頼るんだよ。怖がる必要は無い。きっと、みんなは受け入れてくれるはずだから」


 律佳がそう言うと、賢人は声をあげて泣き始めた。

 もっと早く、分かり合えていたら、彼らの人生は、違っていたかもしれない。

 今この瞬間だけは、誰がどう見ても、仲の良い兄弟だった。


 やがて、賢人が泣き止んだあと、律佳は言った。

 

「賢人の望み通り、僕はちゃんと消えるから、安心して」

「どういう……こと?」


 賢人は不安そうに首を傾げた。


「出来損ないの僕だけど、やっと、やりたいことを見つけられたんだ」


 律佳はそう言いながら、カイリの方を見て微笑んだ。そして、カイリも微笑み返した。


「カイリは、僕に生きる希望を与えてくれた。だから僕は、カイリと同じ道に進もうと思うんだ」

「……そっか。カイリさんは怪しい人かと思ったけど、兄さんにとっては、大切な人だったんだね」

「うん」


 律佳は照れたように頷いた。


「僕はカイリと一緒に、遠い所へ行く。だからもう、賢人には会えない」


 律佳はもう、『影を狩る者』になると決めた。賢人と仲直りができたことで、一瞬その決意が揺らいだ。だけど、一度決めたことだ。

 カイリがいたから、ここまで来られた。もっと生きようと思えた。だから、実の弟の中から、記憶が消えてしまっても構わない。彼らはお互いの存在に苦しめられてきたのだから。

 賢人の言葉通り、賢人の世界から律佳が消えれば、それは幸せなのだ。それは、その逆も同じ。

 賢人は律佳の記憶を全て忘れてしまうのだから、何も悲しむ必要は無い。


「賢人、送るよ」


 律佳は言った。ちゃんと、別れを告げなければ。賢人にも、両親にも。


***


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