第9話 不仲な兄弟
賢人を、とりあえず律佳のアパートまで運んだ。
家には、律佳が電話をする羽目になった。もちろん、憂鬱で仕方がなかった。両親とは気まずい別れ方をしたので、あまり話したくはなかった。しかし、これは賢人のためだ。兄として、できることはやらなければ。
律佳は勇気を出して、電話をかけた。
「もしもし……」
「もしもし?」
「その……律佳……です」
「律佳? なんの用? 絶対に帰ってこないって家を飛び出して言ったくせに、よく電話なんてかけてこられたわね。今忙しいんだけど」
電話に出たのは、母さんだった。相変わらず嫌味ったらしく、面倒くさそうに言う。
「その、今、賢人と一緒にいるんだ」
「賢人と? なぜあなたと一緒に?」
「ちょっと……色々あってね」
律佳は適当に誤魔化す。
「まあいいわ。それで、何?」
「ちょっと今日は、賢人は家に帰れなさそうだから、僕の家で過ごすよ」
「あなたの家? 何馬鹿なことを言ってるの。そんなの許すわけないでしょ。帰るように言いなさい。賢人は今受験期なの。いつも家でも夜遅くまで、勉強頑張っているの。出来損ないのあなたが、邪魔をしないでちょうだい」
現在、夜の十時。塾がちょうど終わる時間だ。賢人は帰ってからもさらに勉強をしている。ちゃんと寝ているのだろうか。
律佳は気絶している賢人の顔を見た。よく見ると、目の下にはクマが出来ている。
「賢人はあなたと違って、優秀なの。これからの社会を担っていく人になるの。だから私たちがしっかりサポートしてあげないといけない。それなのにあなたは……」
母さんの小言が延々と続く。
「とにかく、今日は賢人は帰らないから」
律佳はうんざりして、そのまま電話を切った。
母さんがこれだけ言うということは、それだけ期待されているということだ。そして、賢人もその期待に応えられるだけの能力を持っている。律佳は羨ましく思った。
***
賢人が目を覚ましたのは、次の日の朝だった。驚いたように、部屋の中を見回している。
「……おはよう、賢人」
律佳は躊躇いながら声をかけた。
「兄さん……なんで……」
賢人はしばらく律佳を不愉快そうに見つめていた。
「どうして僕が、兄さんの家にいるの?」
「それは君が、昨日塾で倒れたから……」
「それなら、家に連絡すればいいだけの話じゃないか。学校から塾までつけてきたんでしょ? 一体何がしたいの? 家出したくせに」
賢人はイライラしながら時計を確認した。
「あ、もうこんな時間。遅刻したら、兄さんのせいだから」
賢人はそう言うと、部屋を出ていこうとする。その前に、カイリが立ちはだかった。
「出ていかれると困る。お前に話があるんだ」
「またあなたですか? あなたは何者なんです?」
賢人は疑わしげに尋ねた。
「俺はカイリ。お前を救いに来た」
「は?」
賢人のイライラは、最高潮に達していた。
「お前は『影』に取り憑かれている。『影』からお前を救うために、俺はここに来た」
「ふざけんなよ!」
カイリの言葉を冗談だと受け取った賢人は、大声で怒鳴った。
「兄さん、お願いだから、僕を変なことに巻き込まないで! 僕はその辺のアホみたいな人間とは違うんだ!」
「これを見ても言えるか?」
するとカイリは、律佳の携帯で撮った動画を見せた。賢人が急に暴れだし、カイリに取り押さえられている映像だ。
賢人の顔は、次第に青くなっていく。
「な、なんだよこれ……こんなの、僕じゃない……」
賢人は声を荒らげて、カイリを押しのけ、部屋を出ていった。
「くそ、めんどくさいやつだな」
カイリは困ったように頭をかいた。
「しょうがない。また夕方、学校の前で待ち伏せするぞ」
「そうだね……」
その時律佳はふと思った。一日が経ったのに、賢人はカイリのことを覚えていた。
「ねえカイリ、どうして賢人はカイリのことを覚えていたの? 一日で消えるんじゃないの?」
律佳は尋ねる。
「普通はそうだ。俺たちの記憶は、朝目が覚めると周りの人間から消えている。だけど、『影』に取り憑かれている場合は別だ。『影』から救うまでは、本部が当事者の記憶を消さないでくれる。そんないちいち消されていたら、説明し直すのが面倒だからな」
「あー、なるほどね」
律佳は納得した。
***
夕方、再び学校の前で待ち伏せをする。逃げるようであれば、強硬手段をとると、カイリは言った。
「ねえ、その紙なんなの?」
カイリが待ち伏せしている間、資料のような紙の束を見ていたので、律佳は尋ねる。
「これは相原賢人という人間について色々書かれたものだ。本部から送られてくるやつだ。生年月日、住所、家族構成、通っている学校から、性格や、過去に起こった重要そうな出来事まで、全部書いてある」
「へ、へえー、凄いね」
律佳は苦笑いをした。一体本部はどこからそんな情報を手に入れてるんだろう。個人情報筒抜けじゃないか、と律佳は身震いした。
「これでなんとなく掴めたよ。賢人が抱えているものを」
「え、ほんと?」
「ああ」
カイリは紙を見せてくれた。そこには、律佳の知らない賢人の苦悩が書かれていた。
やがて賢人は、一人で校門から出てきた。
カイリは賢人の前に立ちはだかる。賢人は彼を睨んだ後、そのまま素通りしていこうとする。
「おっと、逃げられては困るな。いいのか? 昨日のようになっても」
カイリは賢人の耳元で囁いた。
「なんのことです? 同じ塾の人に聞いたけど、昨日僕は体調不良で早退したことになっていましたよ。だれも、僕が暴れたなんて言っていなかった。今朝の映像、フェイクなんじゃないんですか?」
塾の生徒から、『影』のせいで暴れてしまった賢人の記憶は、完全に消されているのだ。
「このままだと、お前死ぬよ?」
「そんな冗談、通用するわけないじゃないですか」
カイリは面倒くさそうにため息をついた。
そして、素早い動きで賢人を小脇に抱える。
「え、ちょっと、何するんですか! 警察を呼びますよ!」
「うるさい黙れ」
カイリは無理やり連れていく。完全に誘拐犯じゃん、と律佳はため息をついた。でも、賢人を助けるには、こうするしかない。
「律佳の家に連れていくぞ!」
カイリは賢人の口を塞ぎ、律佳のアパートへと急いだ。
***
「どういうつもりですか。これは」
賢人は今、椅子に座らせられ、体を縄で固定されている。
「ほんとに警察呼びますよ。兄さんも、この頭のおかしな奴に何とか言って」
律佳は苦笑いすることしかできなかった。賢人の気持ちは分かる。急に『影』とか言われて、半ば誘拐のような形をとられたうえに、拘束されるなんて、普通ではない。
「賢人、お願い。話を聞いて欲しいんだ。君の命に関わる話なんだ」
「ばかばかしい。兄さんの話を聞くなんて、時間の無駄だよ。ただでさえ、昨日の夜勉強できなかったんだから。僕は兄さんとは違って忙しいの」
賢人は動いて、縄を外そうとするが、ほどけない。
「だったら嫌でも聞かせてやる。今お前は、『影』に取り憑かれているんだ。時間が経つにつれて、お前は自我を失い凶暴化する。『影』から解放されるためには、心の闇を吐き出さなければならない」
「は? 意味わかんないんですけど」
「いいから吐き出せ。お前が心の奥深くに抱えている闇を、今すぐ! 何か隠していることがあるだろ! ここにさらけ出せ!」
カイリは強い口調で言った。
「そんなのあるわけない」
「俺は知ってる。お前が親とか先生とか、周りからの期待に押しつぶされそうになっていることを」
カイリは試すように言った。資料に書かれていたことだ。きっとこの辺りが、賢人の心の闇に関連するだろうと、カイリは検討をつけていた。
一瞬、賢人の目が泳いだ。
「ねえ、賢人」
カイリとは対照的に、律佳は穏やかな声で言った。
「辛いことがあるなら、言って欲しい。僕は賢人とは違ってダメな人間だ。嫌われていることも知っている。だけど、君を見捨てたくはない。君の力になりたいんだ」
すると賢人は、小さな声で言った。
「……だったら、消えてよ」
「え…… ?」
と、律佳は思わず声を漏らした。
「消えてよ!消えてよ! 僕の世界からいなくなってよ!」
賢人は声を荒らげた。
「兄さんがいなければ、僕は比べられることもなかった。兄さんがちゃんとしていれば、僕がこんなに父さんや母さんから、期待されることもなかった。僕が失敗したら、二人は悲しむ。失望する。それも全部、兄さんが出来損ないなのがいけないんだ!」
それを聞いた瞬間、律佳は分かった。賢人が『影』に取り憑かれてしまったのは、自分のせいだと。
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