第4話 朝の出来事

 律佳はゆっくりと目を開ける。目の前には、カイリの顔があった。


「律佳!」


 カイリは叫んだ。


「良かった。『影』に勝ったんだな」

「カイリ……」


 律佳はほっとした。無事に戻ってこられた。

 なんだか、夢を見ていた気分だ。ものすごく胸くそ悪い夢を。

 しかし、今は少しすっきりした気分だった。『影』に打ち勝ったことで、少しだけ自身がついた。

 『影』は心の一番弱いところをついてくる。本当にそうだった。触れられたくないこと、悩んでいることを全て分かっていて、それを限りなく現実に近づけてじわじわと心を抉ってくる。少しでも気を緩めてしまえば、洗脳され、『影』の思い通りになってしまうようだった。

 『影』が作り出したものだと分かっていても、実の弟をバットで殴ったことは、なんだか後味が悪かった。


「今日はもう寝な。疲れただろ? 詳しいことは全部、明日話そう」

 

 カイリはそう言うと、律佳に毛布をかけた。

 

「おやすみ、律佳」

「おやすみ、カイリ」


 律佳はふと思い出した。以前にも、こんな風に、誰かとおやすみの挨拶を交わした気がする。

 とにかく今日は、疲れた。気づけば、律佳の意識はなかった。


***


「……ちゃん、りっちゃん」


 声が聞こえ、薄らと目を開ける。目の前に、可愛らしい女の子の顔があって、律佳はびびった。

 くせっ毛の短い茶色の髪に、くりくりした目。袖が着物のようになった、和風の白いセーラー服に、紺色の短パンを履いている。歳は律佳よりも下で、中学生くらいだ。


「だ、誰?」


 至近距離の女の子に、律佳はドギマギしながら尋ねる。


「おはよう、りっちゃん」

「……りっちゃん?」

「君、律佳って言うんでしょ? だからりっちゃん」


 女の子は、満面の笑みを浮かべる。八重歯がキラリと輝く。

 律佳は今までに、りっちゃんなんていうあだ名で呼ばれたことがなかったので、戸惑う。


「おい、イロハ。律佳の邪魔すんなよ」


 様子を見兼ねたカイリがやってきて、律佳は安心した。


「カイリーンばっかりりっちゃんと話してずるいもん。りっちゃん、ボクはイロハ。よろしくね」


 イロハは無邪気に笑う。それを見て、律佳は微笑ましく思った。


「よろしく、イロハ」


 律佳は挨拶をする。


「ていうかイロハ。お前、また勝手にあだ名つけたな?」

「いいじゃん。そっちの方が覚えやすいし。りっちゃんって響き、なんか可愛くない?」

「まあ、確かに……じゃなくてさ!」

「はははっ!」


 イロハは楽しそうに笑った。


「それじゃあ、ボクは先に行ってるね!」


 イロハはスキップをしながら、部屋を出ていった。全ての行動が可愛らしい。あんな妹がいれば、毎日楽しいだろうなと律佳は思ったが、慌てて首を振る。もしイロハが妹だったら、親はきっとイロハのことばかりを可愛がるだろう。そんなの、もっと自分が辛くなるに決まっている。

 律佳とカイリは取り残される。

 カイリは呆れたようにため息をついた。


「……ったく、イロハのやつ。ところで律佳、よく眠れたか?」

「うん、お陰様で」

「そうか。じゃあ、もうすぐ飯だから、顔洗ったら食堂へ来な。洗面所は、部屋を出て右に曲がったその先にあるから」

「分かった。ありがとう」


 カイリはそう言うと、部屋を出ていった。

 なんで名前を知っているんだろうと少し引っかかったが、昨日は意識が朦朧としていたので、知らないうちに名乗ったのかもしれない。

 などと考えていると、カイリはすぐに戻ってきた。


「ひとつ言い忘れてたことがある」

「何?」


 律佳が尋ねると、カイリはニヤリと笑った。


「イロハはああ見えて男だから。ウブなには、先に教えとかないとなと思って」


 それだけを言うと、カイリはまたどこかへ行った。

 律佳はしばらく呆然としていた。


「イロハは男……?」


 やがてその意味が分かった時、律佳は驚き、そして同時に恥ずかしくなった。

 イロハは男。あんなに可愛らしいのに、男。男にドギマギしていたのかと思うと、いたたまれなくなった。


***

 

 洗面所で顔を洗っていると、とんでもない臭いがどこからか漂ってきた。律佳は思わず鼻をつまむ。

 その臭いの方へ歩いていくと、そこは食堂だった。


「カイリ! 料理中は台所を離れるなって何度も言っただろ! 何焦がしてんだよ!」

「ユウジさんうるさいよ。ちょっと律佳を呼びに行ってただけだし。まさか焦げるなんて思わないじゃん?」

「焦がしたのは今日が初めてじゃねーだろ。いい加減学べ!」

「みんなが料理当番の時は、手抜きしてレトルトカレーとかカップラーメンとかしか作ってくれないから、俺が腕によりをかけて、作ろうとしてんのに」

「焦がすくらいなら、レトルトカレーの方がマシだ! もう、どうしてくれるんだよ」

「ほら、見た目は黒くなっちゃったけど、味は美味いかもしれないし? ほら、ユウジさんはあっちで座ってて」


 カイリと、ユウジと呼ばれた男が喧嘩をしていた。ユウジは紫色の髪で、顎に髭が生えている。黒いジャージを緩く羽織っていた。サングラスが似合うなと、律佳は思った。


「カイリーンとユージはいつもあんな感じだから、気にしないでね」


 いつの間にかイロハが隣に立っていて、律佳は驚いた。


「な、なんだか楽しそうだね」

「でしょ? ……まあ、こんな平和な時間も、いつまで続くか分かんないんだけどね」

「え?」


 律佳は思わず聞き返す。しかしイロハは何もなかったかのように、カイリとユージの間に入っていった。


「はーいストップ! 喧嘩はそこまでね。りっちゃんが待ってるから」


 イロハがそう言うと、ようやくカイリとユウジは律佳に気付いた。


「おお! お前が律佳だな!」


 ユウジは律佳に近づいて来る。ユウジの体から、タバコの匂いが漂ってきた。


「俺はユウジだ。よろしくな」

「よろしくお願いします」


 律佳とユウジは握手をした。その後、みんなは席に着く。


「なんかすっごい変な臭いがしてるけど、大丈夫か?」 


 トオルが部屋に入ってきた。昨日カイリを出迎えていた人だ。ガタイがよく、たくましく見える。


「トオル、カイリを止めてくれよ!」


 ユウジはトオルに助けを求めた。


「……カイリ、またやったのか」

「ほら、見た目はあれだけど、味は多分大丈夫だ。みんな、食べな」


 カイリはご機嫌な様子で、テーブルに料理を並べた。真っ黒だ。もはや原型をとどめていない。お世辞にも、美味しそうとは言えない。カイリの自信は、一体どこからやってきているのだろうか。


「さあ、食べな!」


 カイリを除く一同は、顔を曇らせる。できれば、食べたくはない。でも、カイリは一生懸命に作ってくれた。このまま食べないわけにはいかない。

 律佳は箸で黒い物体をつかみ、口へ放り込んだ。


「まずっ……」


 律佳は吐き気がした。これは食べられるものではない。焦げている以前に、味付けにも問題がある。どうしたらこんなにもまずいものが作れるのだろうと思った。


「えー、やっぱまずいか?」


 カイリは残念そうに言う。


「というわけで、カイリ、これらの処理は頼んだぞ」


 ユウジは律佳の反応を見たあと、カイリに自分の皿を押し付けた。他に二人も同じようにする。


「なんだよ。せっかく作ったのに。もったいないじゃん」


 カイリは納得がいかないというように、頬を膨らませた。


「そういうのは、まともに食べれるものを作れるようになってから言え」


 ユウジは一発、カイリの頭に拳を落とした。

 カイリは見た目は美少年でクールだけど、案外お茶目なところもあるんだなと、律佳は新しい一面を見られて嬉しく思った。


***



 

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