第3話 影の侵食
気付けば、律佳は学校にいた。高校の制服を着ている。
溶けそうなくらいに暑い。蝉の声が聞こえる。汗がシャツに染みて、気持ち悪い。
一番後ろの、窓側の席。クラスメイトは、それぞれの休み時間を送っている。馬鹿みたいに騒いでいる男子もいれば、陰口で盛り上がっている女子もいる。二人で楽しそうにファッション雑誌を読んでいる人もいれば、気が合うもの同士でアニメや漫画の話をしている人もいる。
律佳はどれにも属さなかった。ただ一人で、教室の中を眺めているだけだった。
「相原って、いつも一人だよな」
どこからか、そんな声が聞こえてきた。
「寂しくないのかな? 俺なら、ぼっちなんて耐えられない」
「だよな。まあ、だからって声かけるつもりは無いけどね。だってあいつ、何考えているか分からないし」
クラスに、仲の良い友達はいない。だからといって、いじめられているわけでもない。
別に、一人が寂しいわけでもなかった。むしろ、哀れむくらいならほっといて欲しかった。
「相原くんの弟って、凄く頭いいらしいよ。塾の全国模試でもいつも上位なんだって。その上運動神経も抜群で、野球部のキャプテンらしいぜ。すごいよな。将来、有望なんだってよ」
「へえ、凄いね。それなのに相原は、こんな中の下のような高校に通ってるんだ」
律佳は勢いよく立ち上がった。その拍子に、椅子が大きな音を立てて倒れる。
クラスメイトは、一斉に律佳の方を向いた。目線が律佳に突き刺さる。
「何? 怖いんだけど」
「いつも一人だから、気がおかしくなったんじゃない?」
「わあ、可哀想。でも、相原くんって喋りかけにくいよね。なんか、そういうオーラがでてるし」
クラスメイトは、律佳を見ながらコソコソと話している。
「勉強も運動も、大してできないし、相原の取り柄ってなんだろうね?」
「言うなって。ただでさえ、弟と比べられて、可哀想なんだから」
律佳は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。なんでこんなに関わりのないクラスメイトに、ここまで言われなければならないのだろう。ただただ、ほっといて欲しかった。
律佳はほんの少しだけ顔をあげる。クラスメイトは、こちらを見ながらコソコソと話している。
その時、律佳は見つけた。クラスメイトの体から、黒いモヤが出ている。公園で律佳を襲った男からも、このような黒いモヤが出ていた。もしや、これがカイリの言っていた『影』なのだろうか。
良く考えれば、クラスメイトに、こんなにも酷く言われた記憶はない。そもそも、律佳はクラスメイトとほとんど関わってこなかった上に、弟とは違う学校なので、彼のことなど知っているはずがない。
これは、『影』が作り出した幻影だ。高校なんて、とっくの前に卒業したし、こんな記憶もない。これは現実ではない。
こんなふうに、『影』は少しずつ、心を攻撃していき、飲み込もうとしているのだ。
「ねえ、相原くん」
目の前には、黒いモヤに包まれた、
彼女は、誰にでも優しくて、ぼっちである律佳にも、たまに声をかけてくれた。彼女の笑顔は眩しくて、律佳はほんの少しだけ、それに惹かれていた。香奈は人気者で、雲の上の存在。自分とは釣り合わないことぐらい、ちゃんと分かっていた。ただ、香奈が律佳に話しかけてくれた時に見せる、律佳だけに向けられた笑顔が、律佳の荒んだ心を浄化してくれた。
「大丈夫?」
香奈は手を差し出した。律佳は、その手を見つめ、やがて手を伸ばす。すると、香奈は手が触れる直前でパッと手を隠した。
「なーんて、あなたに手を差し伸べるわけないでしょう? 私はただ、可哀想な相原くんを助けるフリをしていたら、私の株が上がると思っただけよ」
香奈は律佳を見下して笑う。そして周りの人もクスクスと笑う。
そんなの、信じたくはなかった。今まで彼女が律佳に向けてくれた眩しい笑顔は、全部嘘だったのだろうか。今となっては、それが彼女の本音なのか、『影』が作り出した嘘なのか、分からなかった。
「あなたみたいな出来損ない、誰も興味ないよ」
出来損ない出来損ない出来損ない。
頭の中で、まるで呪文のように繰り返される。幻影だと分かっていても、心を抉られる。苦しくて仕方がない。
「……そう、僕は、いつまでたっても出来損ないだ」
律佳は胸を抑えながら、床に手をついた。すると、床の模様が歪み始めた。律佳は慌てて顔をあげる。机も椅子も、黒板も、香奈の顔も、その他のクラスメイトの顔も、歪んでいた。やがて、教室全体がぐにゃりと曲がり、気がつけばみんなはいなくなっていて、律佳は実家にいた。
「ここは……」
実家の自分の部屋だ。懐かしい。ご飯の匂いがし、律佳は部屋を出て、階段を降りていく。
父さんお母さん、そして、弟の賢人の話し声が聞こえた。
「賢人、今回のテスト、また学年一位なんだって?」
「まあね。でも、まだまだだよ。日本の中では、トップではない。父さん達のためにも、もっと頑張らなくちゃ」
「まあ、本当にあなたはいい子ね。律佳とは違って」
母さんはそう言うと、パッと律佳の方を見た。
「どうしてあなたはこんなにも出来が悪いのかしら」
三人の体から、黒いモヤが出る。
「勉強も運動もイマイチで、他にできることも無い。将来やりたいことも見つけられない。一家の恥だわ。あなたなんて産まなければ良かった」
母さんはわざとらしく嘆く。
なぜ自分は、こんなにも出来損ないなのだろう。なぜ賢人のようになれないのだろう。そう思うと、無性に腹が立ち、そして悲しくなった。
「そうだ。そんな調子だと、将来食べていけないぞ。父さんたちは、手は貸してやらないぞ。金は全部、将来有望な賢人にかけたいからな」
父さんは当たり前のように言う。
そんなの、分かってる。自分が一番よく知っている。
「兄さん」
賢人が近づいてきた。そして、顔をグッと近づけた。
「生きてて、楽しい?」
たった一言。その一言に、律佳はハッとした。
家にも学校にも居場所がなかった。出来のいい弟と比べられる。夢も希望もない。大切な人もいない。ただ淡々と過ぎていく日々。
一度でも、生きていて楽しいと思ったことは、あっただろうか。
「正直、兄さんは目障りなんだよね。僕より出来が悪いのに、自由にのうのうと生きてる。あ、そうだ、僕が殺してあげよっか?」
賢人は楽しそうに笑っている。
こんな人生が続くのならば、死んだ方がマシなのかもしれない。律佳はそう思った。
賢人は律佳の首に手を伸ばす。
もう、どうなってもいい。
賢人は律佳の首を鷲掴みにし、力を入れる。息が出来なくなっていく。
苦しい。苦しい。苦しい。こんなに苦しい思いをするのなら、早く死んでしまいたい。
身体的にも、精神的にも、『影』は苦痛を与える。
賢人から出ている黒いモヤが、律佳を包んでいく。こうやって、『影』に飲み込まれていくんだ。
その時一瞬、カイリの顔が浮かんだ。
彼は、ずっと探していた『海』なのだろうか。そもそも『海』というのは誰なのか。それを確かめたかった。
唯一の心残りだ。と思った瞬間、律佳は賢人を蹴飛ばしていた。
「に、兄さん?」
賢人は床に倒れて、驚いたような顔でこちらを見る。
「……ここで死にたくない」
気がつけば、体が勝手に動いていた。
「何を今更……兄さんは出来損ないだよ? 生きている価値なんてないんだよ? 死んだら楽になるのに。それなのに死にたくないの?」
何も無かった、いや、何もしてこなかった人生。だけど、律佳はもう少しだけ、生きていたかった。『海』に、もう一度会いたい。だから。
「……うん。このまま死にたくはない」
「なんでよ! 母さんにだって、律佳なんて産まなければ良かったって言ってたじゃないか!」
賢人は声を荒らげる。
「僕だって、こんなに比べられて、いい所も全くなくて、なんで生きているんだろうっていつも思う。だけど、このまま何も出来ないまま、『影』に飲み込まれて、死んでいくのは嫌だ」
律佳は近くにあった賢人のバットを手に取った。力強く握りしめる。
なぜこんなにも、生きたいと思うのか。それは、カイリがいたから。カイリともっと話したかったから。
『海』は、自分を認めてくれた大切な人だった気がするのだ。それが、カイリだったらいいなと思った。
もっと、彼を知りたい。
カイリは今も、自分を応援してくれている。戻ってこいと言っているような気がした。
「に、兄さん? 何をするつもり? 僕は弟だよ。ただでさえ人間の底辺なのに、罪まで犯しちゃうの?」
目の前にいるのは、弟ではない。ただの『影』だ。律佳はそう言い聞かせ、勢いよく賢人の頭上からバットを振り下ろした。
すると、目の前からパッと賢人が消えた。そして、空間が歪み始める。母さんも父さんも、気付けばいなくなっていた。
空間が渦巻いて、そして、破れた。破れた隙間から、光が差し始めた。
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