第2話 誰かを探していた
律佳はいつものように、バイト漬けの毎日を過ごしていた。特にやりたいことも無く、淡々と日常が過ぎていった。
でも、律佳は誰かを探していた。その誰かが、どんな人なのかはいくら頑張っても思い出せなかった。きっとその人の名前は『海』だ。でもその『海』は、何者なのか。あの紙が律佳の部屋に置かれていたということは、『海』は律佳の部屋にいたんだ。その時何をしたか、何を話したか、そもそもなんで部屋に入れたのかは、分からなかった。
バイト帰り、律佳は公園の前を通る。その時律佳は、いつもベンチに誰かいないか確認してしまう。それは、ここで『海』と出会ったような気がしたから。確かではないが。
またここにいるのではないかと、つい期待をしてしまう。
今日も誰もいなかった。こんなに悩むのなら、いっそ忘れてしまった方が楽だろう。でも、忘れられなかった。『海』のために、忘れてはいけないような気がした。
***
午前0時。満月の光が照らす、人気のない夜道を、律佳は歩いていた。
いつもの公園の前を通り過ぎる。つい、ベンチに誰がいないか、確認してしまう。どうせ今日も、誰もいないだろう。そう思いながら、公園をそっと覗いた。
律佳は思わず、目を見開いた。ベンチに、誰かが座っている。こんな夜中に、一体誰だろう。もしかしたら、『海』かもしれない。
律佳は高まる鼓動を抑えながら、ゆっくりと近づいていく。
『海』がどんな人なのかは、全く思い出せなかったが、会えばきっとわかる気がした。
ベンチに座っていたのは、中年くらいの男だった。頭を垂らしていて、顔はよく見えない。
彼が『海』だったら……
そう思うと、確かめたくて仕方がなかった。
「あの、すみません。海って人を、知っていますか……?」
律佳は恐る恐る尋ねる。しかし、男は動かなかった。
「あ、あの……」
声をかけても、反応がない。酔っ払いだろうか。それとも、ただ寝ているだけだろうか。
律佳は心配になり、肩を揺らそうと、そっと手を伸ばした。
次の瞬間、男はパッと顔を上げ、律佳の腕を掴む。律佳は驚いて、すぐさま振りほどこうとする。しかし、男の力が強くて、全く離れない。
律佳は男の顔を見た。その瞬間、ギョッとした。なぜならば、彼の目は、空洞になっていたからだ。歯をむき出しにして笑っており、清潔感はまるでなかった。
律佳は怖くなって逃げようとするが、手を掴まれているので、逃げられない。
「は、離して……」
男は、「いひっ……いひひ……」という奇妙な笑い方をしながは、律佳をグイッと引き寄せた。律佳はその力の強さに負け、前によろける。
律佳はベンチの上に、仰向けに叩きつけられた。男は律佳に被さるように、律佳を拘束する。
この男は異常だ。人間では無い。そう思ったが、怖くて声は出ないし、完全に押さえつけられてしまったため、逃げることもできない。
男の体には、いつの間にか黒いモヤがまとわりついていた。
男は少しずつ、顔を律佳に近づけてくる。笑いながら、何かを欲しがるように。飢えた獣が、餌を見つけた時のように。
律佳は目を瞑った。自分はこの怪奇な男に殺されるのだと悟った。
男は律佳の口を、自分の口で塞いだ。息ができない。苦しい。何か大切なものが、吸い取られていくようだった。段々と力が抜けていく……
つまらない人生だった。やりたいこともなく、ただ淡々と過ごしていく。出来損ないの僕を親は見放し、学校にも上手く馴染めず、友達はほとんど出来なかった。バイト漬けの毎日だって、楽しくはないし、生きがいも感じなかった。
こんなに意味もなく生きているくらいなら、死んだ方がマシなのかな。何度もそう考えたことがある。でも、実際死ぬ間際だと思うと、怖くて仕方がなかった。
死ぬときには、走馬灯が見えるという。この時律佳が見たものは、家族と過ごした日々でも、学校での生活でもない。ただ、『海』の姿が浮かんだ。顔にはモザイクがかかったように見える。でも、確かにその『海』は、存在している。記憶の奥深いところから、必死に浮かび上がってこようとしているのだ。
そんな時、辺りがひんやりとした冷たい空気に包まれた。次の瞬間、律佳の口を塞ぐものがなくなった。律佳は解放された。しかし、頭はガンガンし、意識は朦朧としている。律佳は横目で何が起こったのかを見た。
地面には、血溜まりが出来ていた。そしてそこには、先程律佳を襲った男が倒れていた。
何が起こったのか、理解できなかった。さっきまで生きていた奇怪な男が、血を流して倒れている。死んだのだろうか。
「……律佳……律佳!」
朦朧とする意識の中で、誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえた。律佳の体を揺すっている。薄目で、その声の主を見る。
長めの髪に、美形の青年だった。どこかで会ったことがある。ずっと探していた人。ずっと会いたかった人。律佳は直感的にそう思った。
「海……?」
その後、律佳の意識は途絶えた。
***
誰かの背中に揺られている。青年の背中だ。どうやら、走っているようだ。
頭が痛い。それになんだか、息苦しい。
「……っ」
喋りかけようとしたが、上手く声が出なかった。
「もう少しだから……」
青年は焦っている。一体どこへ連れていくのだろう。
「あ……の……」
律佳は声を押し出した。その声は、かすれていた。
「ごめん。全部俺のせいだ。俺が全部悪いんだ」
青年はひたすら走りながら謝る。何かを悔いている。何か取り返しのつかないことをしてしまったかのようだ。
青年は、あの変な男から、助けてくれたのではないのだろうか。それなのに、なぜこんなにも、謝るのだろう。
「俺はお前を、とんでもないことに巻き込んじまった。俺の勝手な欲によって」
これから何か、運命を変える何かが待ち受けている。いや、もうすでに、運命は変わり始めているのかもしれない。それだけは、律佳にも分かった。
「大丈夫。責任はちゃんと、俺がとるから」
律佳はまともに声も出せず、ただ、苦しみに耐えながら、青年の背中で、彼の話を聞くことしか出来なかった。
やがて青年は、コンクリートで出来た古びた建物に入っていった。
「ほら、着いたぞ。俺たちの家だ」
たち、ということは、他にも誰かがいるのだろうか。
「カイリ、おかえり」
中から人が出てきた。顔をあげる気力すら、律佳には残っていなかったので、この声の主が誰なのかは分からなかった。
声の主は、青年のことをカイリと呼んだ。ということは、律佳が『海』だと思っていた彼は、やはり本当は『海』ではなかったのだろうか。『海』の記憶は、ほとんど残っていないので、断言はできない。
「トオルさん、大変なんです! また一人、凶暴化した人間に襲われて……」
「早く、ベッドルームへ連れて行け。まだ息はあるようだな。『影』が彼を飲み込んでしまう前に、説明を」
「分かりました」
カイリは律佳をベッドルームへ連れて行く。そして、律佳を降ろし、ベッドに寝かせた。
「細かいことは後で話す。今は時間が無い。お前は今から、『影』に触れたことで体内に入り込んでしまった『影の欠片』と戦うんだ。『影』は心の一番弱い部分をついてくる。でも、これだけは覚えておいて。今からお前が見るものは、全て『影』が作り出した幻影だ」
カイリは説明をする。律佳には、ほとんど理解が出来なかった。頭も上手く働かないし、とにかく苦しいのだ。これも、『影』という得体の知れないものの仕業なのか。
「『影』の攻撃は、想像を絶するような苦痛を伴う。死んだ方がマシだと思うかもしれない。その時は、俺の手を強く握って。そしたら俺が、お前のことを殺してあげるから。痛くないように、ちゃんと苦しみから解放してあげるから」
カイリは律佳のベッドに座り、律佳を険しい顔で見つめる。
「ごめんな。全部、全部俺が悪いんだ。ごめん。ごめん……」
カイリが何度も謝る声が聞こえた。それを機に、律佳は深い深い闇に、包まれていった。
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