第1話 雨の夜
雨だ。
今コンビニには、店長と律佳しかいない。しんと静まり返っている。
「相原くん、今日はもう帰っていいよ」
午前十二時を迎えた頃、店長がそう言った。思いのほか早く帰れることは嬉しいが、その分の給料がでないことは不満だ。どうしてまた急に、店長はそんなことを言い出すのだろう。
「この後は土砂降りになるって、天気予報でいってた。こんな日に客は来ないだろうし、雨は朝にかけて酷くなるらしい。お前、帰るの大変になるだろ? 今のうちに帰りな」
知らなかった。天気予報はほとんど見ていない。家にテレビがないからというのもあるし、わざわざスマートフォンで確認するほど、律佳とって天気はそれほど重要ではない。そもそも起床時間は日によって違うため、天気を確認する習慣がない。そんなものだろう。そのせいで痛い目を何度もみてきたが。
「分かりました、ありがとうございます。店長はどうするんですか ?」
律佳は尋ねた。
「こんな日は俺一人でも店は問題ないし、いざとなっても家はすぐ近くだから大丈夫だ。万が一の時はここに泊まる」
律佳は再びお礼を言った後、帰る準備をした。更衣室で私服に着替える。
普段は午後十時から午前四時頃までコンビニで働いている。コンビニは昼間より夜中の方が時給が高い。生活費を稼ぐためには、少しでも無理をしなければ。コンビニの他にも、昼間はファミレス、夕方は本屋で働く。朝方に家に帰り、昼まで寝るという生活の繰り返し。
出来のいい弟と比べられるのに嫌気がさし、高校卒業とともに家を抜け出し、大学へは行かず、就職もせずにここまでやってきた。いつまでこんな生活が続くのか、検討もつかない。
親からの連絡は一切ないし、こちらからもしない。完全に見捨てられてしまったのだ。
「お疲れ様です」
律佳は店長に挨拶をした。
「お疲れ」
律佳は一度外に出て空を見上げる。くすんだ真っ黒な空から、大きな水滴が絶え間なく落ちてくる。
「ああ、これは無理だな・・・・・・」
そう呟いたあと、再び店の中に戻る。
「あの、傘、借りてもいいですか?」
店長は快く貸してくれた。客の忘れ物の傘が、沢山あるから、自由に使っていいと。
律佳は傘をさして夜道を歩いた。雨が容赦なく体にぶつかってくる。横降りなため、傘をさしていても服はびしょびしょだ。
律佳の家までは、徒歩十五分ほど。古い小さなアパートに住んでいる。
ズボンが濡れて、足が思うように進まない。ずいぶんと時間がかかった。
近道をしようと、公園の中を通っていこうとした時、誰かがいるのが見えた。こんな雨の日の、こんな夜中に何をしているのだろう。律佳は少し気になって近づいてみた。電灯に照らされたベンチにぐったりと座り、動かない。
「あ、あの・・・・・・」
恐る恐る声をかける。返事はない。雨の音で聞こえなかったのだろうかと思い、もう一度大きな声で声をかける。
「あの! 大丈夫?」
動く気配はない。律佳はさらに近づく。そして顔を見た。
青年だ。年は二十代前半くらい。長めの髪が顔に張り付いている。
律佳は心配になって青年の肩を揺らす。
「・・・・・・は・・・・・・がへっ・・・・・・」
何か言ったが、上手く聞き取れない。
「何?」
「・・・・・・腹が・・・・・・減った・・・・・・」
「・・・・・・お腹すいてるの?」
か細い声でそういう青年。あいにく律佳は食料を持ち合わせていない。
「・・・・・・家来る?」
律佳は尋ねると、青年はコクリと頷いた。
知らない人を家に入れるのは少し抵抗があったが、これは非常事態だと自分に言い聞かせた。警察に知らせて、大事になるのも面倒だ。
律佳は傘をとじて、青年の腕を自分の肩にまわして立たせる。立つ力も残っていないほどお腹がすいているようだ。
正直重い。青年は痩せているが、律佳の身長より高いので、支えるのなかなか困難だった。
律佳は半ば引きずるようにしてアパートの自分の部屋まで連れていく。律佳の部屋は二階。今にも崩れそうな錆びた階段を登ったところにある。ドアの前まで来た頃には、もうヘトヘトで足に力が入らなかった。オマケにびしょ濡れで気持ち悪い。
律佳は濡れたカバンから鍵を取り出してドアを開ける。一旦青年を放置して、律佳は服を絞り、靴と靴下を脱いでタオルを持ってきた。とりあえず自分を拭く。その後で、この青年をどうしようか考えた。青年はドアの前でうつ伏せに倒れたまま動かない。
律佳は玄関からお風呂場へ続く床に、タオルを敷くことにした。ある程度青年の服を絞ったあと、家の中へ引きずっていく。手のかかる奴だなとため息をつく。
「・・・・・・あれ、ここはどこだ?」
風呂場に放り投げた時、仰向けで青年は呟いた。
「僕の家だよ」
そう答える律佳を見つめて、青年は不思議そうに尋ねた。
「・・・・・・お前、誰?」
「君の命の恩人」
律佳は淡々と答える。
「は? 何言ってんだ?」
律佳は再びため息をついた。公園からここまでどれだけ苦労させたのか知らないとは言わせない。
「君が公園で、お腹がすいたって雨に打たれながら言うから、僕が連れてきてあげたんだよ」
「へえ」
「なんで他人事みたいな顔してるの?」
「だって、覚えてないし。意識が朦朧としてて。たしかに、誰かに話しかけられて、引きずられていったような気もするけど」
「感謝してよね」
「恩着せがましいな」
律佳はまたしてもため息をついた。
「君って、嫌な奴だね」
「よく言われる」
怒りを通り越して、もう呆れの領域に入った。
「そんなことより、何か食べさせてくれ。腹が減って死にそうだ」
「わかったよ。じゃあさっさと服を脱いでシャワーを浴びてきて。これ以上僕の部屋を汚されたら困るから。着替えはとりあえず僕のを置いておくよ。食べ物はそれからだ」
律佳がそういうと、青年はゆっくりと起き上がり、雨で濡れて重い服を脱ぎ始めた。その間に、律佳も服を脱いで体を拭く。シャワーも浴びたいところだったが、この図々しい青年に色々文句を言われそうだったから、我慢した。
とりあえず、洗濯機に二人分の濡れた服を入れ、回した後キッチンへ向かう。
何を作ろうかと悩んだが、結局すぐに作れるミートスパゲッティにした。ついでにレトルトのコーンスープとサラダも。
「飯ー、飯はー」
という奇妙な鳴き声が聞こえてきた。青年はタオルを首にかけ、律佳のTシャツと短パンを履いて、キッチンにやってきた。
「そこに座ってて」
律佳がそう言うと、青年は長めの髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、ダイニングの椅子に座った。
律佳はチラリと青年の顔を見た。思っていたよりも美形で驚く。白い肌に、切れ長の目。鼻は高く、まつ毛も長い。
「この服、ちょっと窮屈だな」
見とれていたが、青年の声を聞いてすぐに我に返った。
「文句が多いね」
律佳は完成した二人分の料理をお皿に盛って、机に置いた。
「ほら、食べなよ」
「いただきます」
青年は席につくと、手を合わせた。そういうところは律儀だなと、律佳は思った。青年は勢いよく食べ始める。一言も言わずに、ただ食べ物を体内に取り入れていく。
「もっと味わって欲しいんだけど。せっかく作ったんだから」
「お腹すいて死にそうなんだ。しょうがない」
なんなんだろうこの人は、と律佳は少し不安になった。でもきっと、悪い人ではないのだろう。
「聞いてもいい?」
「だめだ。食べ終わるまで待て」
何も用件は言っていないのに、断られてしまった。青年は無言で食べ続ける。律佳はそれを横目に見ながら、自分も食べ始めた。
やがて、皿が空になると、青年は手を合わせた。
「ごちそうさま。聞きたいことあるなら聞いていいぞ」
「……うん。それより、何か感想とかないの? 美味しいとか、不味いとか……」
せっかくもてなしたのだから、何か言って欲しかった。
「めっちゃ美味かった。ちゃんとした飯を食ったのは、久しぶりで感動した」
「……何それ」
「いいから、聞きたいことがあるなら聞け」
律佳は理解することを諦めた。とにかく、この青年は少しおかしい。でも、もっと知りたい。なぜだか、そう感じた。初対面なのに、どうしてだろう。彼の奥深くまで、入ってみたいような気がした。
「とりあえず、名前を教えてよ」
律佳が尋ねると、青年はしばらく口をつぐんだ。少し考えるような素振りをし、やがて開いた。
「
「え、何、今の間」
「海だ。俺の名前は海だ。お前は?」
律佳は一瞬戸惑ったが、自分も名乗った。
「僕は律佳。相原律佳」
「へぇー、可愛い名前だな」
「うるさい」
この名前、律佳は正直、あまり好きではなかった。小さい頃、クラスの人達に女の子みたいだとからかわれたことがあったから。
「君、一体いくつ? さすがに成人はしてるよね?」
「秘密。教えない」
「なんでよ」
「お前に教える義務はない」
そう言うと、海はニヤリと笑った。
「律佳は見た感じ、高校生くらいだな」
「失礼な。来月で二十一歳だよ」
海はわざとらしく驚く。
「へぇー、見えないな」
いちいち言い方が癪に障るなと思いながらも、律佳は海と、もっと話していたいと思った。しばらく友人と話していないからであろうか。といっても、特に親しい友人はいないが。
「海はどうして、あんなところにいたの?」
「腹が減って、力尽きたから」
お腹減って力尽きるって、よっぽどのことだよなと律佳は思った。どれだけ食べていなかったのだろうか。
「だからって、雨に打たれ続けていたら、風邪ひいちゃうよ。それに、この後土砂降りになるって言ってたし。この後はどうするの? 家はこの辺?」
「秘密だ」
「なんだよそれ」
窓から外を見ると、雨は一層強くなっていた。家が近くなら、帰った方が彼も安心だろうと律佳は思った。もし遠いのならば、この雨の中帰るのは困難だ。
「今日は泊まっていく?」
「……何、もしかして俺を口説いてんの?」
律佳は思わず笑ってしまった。この人、すました顔をして、意外と冗談とか言うんだなと、おかしく思った。
「迷惑じゃないなら、泊めて欲しい。今日はものすごく疲れたんだ。身体的にも、精神的にも……」
海は、素直にお願いをした。しかし、その表情は悲しそうだった。何か辛いことでもあったのだろうか。
「いいよ。全然迷惑なんかじゃないし。……それに、僕はもっと君と話してたいなって思ってたから」
律佳は少し照れくさそうに言った。
「やっぱり俺を口説いてんだろ?」
「馬鹿言わないでよ。全然違う」
二人は笑い合い、やがて、寝る準備をした。律佳は素早く入浴を済ませ、布団の準備をする。
律佳はいつも通り床に布団を敷き、海にはソファーで寝てもらうことにした。
「悪いな、何から何までやってもらって」
「感謝してよね」
と律佳は冗談めかしに言った。しかし海は、真面目に言う。
「ほんとに、律佳には感謝している。俺はあのままだったら、死んでいたかもしれない」
「そんな、大袈裟な……」
「いや、ほんとだ。色んな意味で、俺は辛かったんだ。お前に救われたよ」
さっきとは違い、すごく感謝してくれるので、律佳はなんだか背中がむず痒くなった。
「最初は嫌な奴だって思ったけど、君って意外と素直なんだね」
「俺は元々素直だぞ」
と海は平然と言う。
律佳は楽しかった。こんなに心を通わせられることなんて、今までなかったから。彼とはいい友達になれそうな気がした。
「なあ律佳、もしも、明日目が覚めて、誰も自分のことを覚えていなかったら、どうする?」
海は尋ねた。
「何、その質問」
「いいから、お前だったらどうする?」
律佳は考えた。目が覚めたら、誰も自分のことを覚えていない。そんなこと、あるのだろうか。
「僕は、なんとも思わないかな」
「え、なんで?」
「僕には、もう大切な人なんていないから。親しい友達もいないし、出来のいい弟と比べられるし、親にも見捨てられたし。出来損ないの僕のことなんて忘れて欲しいよ。全部忘れさせて、もう一度最初から人生をやり直したい」
「そっか」
海はふっと微笑んだ。そして小さな声で呟いた。
「実際、思っているよりも悲しいもんだよ。忘れられるのって」
「今、なんか言った?」
律佳は首を傾げる。
「なんでもない。言っておくけど、お前は良い奴だよ。だからあんまり卑下すんな」
「冗談はやめてよ」
律佳は笑いながら言った。しかし海は、真剣な顔で言う。
「冗談じゃないさ。お前はこうやって、俺を助けてくれた。料理だってできるじゃないか」
「でも、人並みだよ」
「十分じゃん。律佳は律佳。他と比べる必要なんてないよ。じゃ、俺は寝るな」
海は言うだけ言って、毛布にくるまった。律佳は電気を消した。
「おやすみ、律佳」
「おやすみ、海」
挨拶を交わし、二人は目をつむる。
律佳は嬉しかった。そんなことを言ってくれた人は、今までいなかった。みんな、出来のいい弟と比べては、「なんで律佳はこんなにも出来損ないなんだ」と嘆く。そう言われることには慣れていたが、言われる度に、律佳の自己肯定感は下がっていく。
だけど、海は、海だけは、そんな自分を認めてくれたような気がした。
二人の出会いは、お互いにお互いの孤独を埋めていた。気の合う人と一緒に過ごし、会話を弾ませる。夢のような夜だった。こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
しかし、目が覚めたら、再び絶望の日々がやってくるのであった。
***
目が覚めた。時計を確認すると、午前九時だった。律佳は起き上がる。なぜだか、妙な違和感があった。
ソファーの背にかけられた毛布。雑に畳まれたTシャツと短パン。キッチンのシンクには、二人分の皿や箸。
そして、テーブルの上に、小さな紙が置かれているのに気づいた。
―――律佳、ありがとう。海より
綺麗な字で、そう書かれていた。律佳の字ではない。全く心当たりがない。
「……海って、誰だっけ?」
海という名の青年の記憶は、律佳の中から、全て消えていた。
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