第129話 思い出の味
※今回は富井多恵目線の話です。
この世界にも醤油はある。
少々粒が長いけど米もあるし、牛も食用にしている。
米のお酒は濁り酒だけど、ワインもあるから代わりになるだろう。
玉葱は無いみたいだけど、甘みの強い葱はある。
生姜とお酢もあるから、紅ではなくても酢漬けの生姜は作れそうだが、確か酢漬けにするのは新生姜だから暖かくならないと手に入らないだろう。
あとは、砂糖が無い……というか、凄く高い。
甘味は蜂蜜か水飴で代用するしかなさそうだが、こちらも安くはないらしい。
牛丼屋を開くなら、高級店ではなく庶民の味にしたいから、何か工夫は必要だろう。
年末年始は草笛亭も休みなので、その間を利用して牛丼を試作してみることにした。
休みの前には肉屋も在庫を処分したいらしく、牛肉も安く手に入った。
肉自体は和牛のように脂が乗っておらず、ほぼほぼ赤身だったので脂身と骨もオマケしてもらった。
ただ、普通に切って煮るだけだと硬く煮締まってしまいそうな気がする。
確か、じっくり煮込むと柔らかくなるはずだが、どの程度煮込めば良いのやら……。
とりあえず、途中で味見しながら煮込んでみるか。
「それじゃあハラさん、調理場借りますね」
「いったい何が出来るんだい?」
「あたしらの故郷の料理ですよ」
「あの壺の中の生姜の酢漬けも使うんだろう?」
「あれは、最後に添える感じですね」
今の時期は新生姜は手に入らないので、普通の生姜の皮を剥いて千切りにしてから塩を振り、暫く置いてから水気を絞ってから酢漬けにした。
一昨日漬けたから、もう食べ頃にはなっているはずだ。
「まずは何から始めるんだい?」
「骨から出汁を取りたいんですけど……」
「なんだい、それじゃ今日は完成しないね」
「えっ、そうなんですか?」
「当り前だろう、骨から出汁を取るには、ジックリと時間を掛けなきゃ駄目さ」
霧風の家の管理全般を担当しているハラさんは、最初の頃は物凄くあたしを警戒していたけど、一緒に暮らすようになってからは親身になってくれている。
調理場を貸して欲しいと申し出た時も、二つ返事でオッケーしてくれた。
「いいかいタエ、骨から出汁を取る時には、一度熱湯に漬けてから良く洗って余分な脂や汚れを落とす。それからオーブンで焼いて、水からジックリと煮込むんだよ」
「そのまま煮るだけじゃ駄目なんだ」
「そのままでも出汁は取れるけど、雑味で味が落ちちまうのさ」
ハラさんは、口は出すけど手は出さず、骨から出汁を取る手順を細かく教えてくれる。
「タエ、その葱の青い葉の部分を切って、骨といっしょに煮るといいよ」
「細かく切った方がいいんですか?」
「いやいや、使わない硬い部分を切って、そのまま入れれば大丈夫」
「オッケー」
骨の下準備を済ませて、葱の青い部分と一緒に鍋に入れ、水から煮込んでいく。
こっちの世界のコンロやオーブンは、魔道具を使ったものもあるけど、基本的には薪や炭だ。
ガスコンロと電子レンジで育ったあたしは、火加減の調節の仕方から教わっている状態だ。
簡単な料理なら、とにかく焼いたり煮たりして、火が通ればオッケーだけど、味にこだわるなら火加減は重要だ。
煮立ち過ぎないように火の調整をしながら、作ろうとしている牛丼についてハラさんに話した。
「へぇ、それじゃあ庶民の味なんだね」
「そうです。使う肉の質によって値段は変わりますけど、基本的には安い肉を美味しく煮て、若い人たちが気軽にいっぱい食べられる料理なんですよ」
牛丼屋で、若い男性たちがガツガツと掻き込む姿を見るのだ好きだったと話すと、ハラさんも頷いていた。
そういう面では、草笛亭は理想的な職場と言える。
倉庫街で力仕事に従事している男性達が、ガツっと食べて、パッと出ていく姿は見ていて気持ちいい。
私も店を開くなら、あんな感じの雰囲気の店にしたいと思っている。
結局この日は、ハラさんとお喋りをしながらスープを取って終わりになってしまった。
年末年始の四日間は、ハラさんも基本的に仕事は休みだそうだ。
掃除とか洗濯とか、あとで溜まるんじゃないかと聞いてみたら。
溜まったらまとめて終わらせれば良いだけと笑って言われた。
二日目、一晩置いたスープの表面には、驚くほどの脂が固まっていた。
「こんなに脂が出るもんなんですね」
「そうだよ、これはこれで取っておいて、料理に使えるからね」
「なるほど……」
脂を取り除いたスープは、黄金色に澄んでいた。
しゃべりに夢中になりながら取ったにしては良い出来だと思う。
それでは、いよいよ牛丼の具を作ってみよう。
葱は斜め切りにして、先程スープから取った脂を使って、しんなりするまで炒める。
そこにスープを加え、醤油、ワイン、蜂蜜で味を調えていく。
「ずいぶんと蜂蜜を入れるんだね」
「日本では砂糖を使ってるんですけどね」
「えっ? 庶民の味って言ってたよね?」
「はい、日本では砂糖が手軽に買える値段で売られてましたから」
「へぇ、そりゃあ随分の金持ちな国なんだね」
「うーん……貧しくはなかったでけど、もっと景気の良い国もありましたよ」
何度か味見を繰り返して、それらしい味にはなったけど、なんとなく洋風な気がする。
純和風に仕上げるならば、鰹出汁とか昆布出汁を使わないと駄目なんだろう。
どうにか味付けが決まったので、いよいよ肉を煮ていこうと思ったのだが、塊を切る時点でハラさんに駄目出しをされてしまった。
「タエ、肉を薄く切る時には、繊維を切る方向に包丁を入れなきゃ駄目だよ」
「えっ、こっちじゃなくて……こっち?」
「そうそう、その向きで切らないと、固くなっちまうよ」
「でも、時間をかけて煮込めば大丈夫だよね?」
「駄目、駄目、それは塊で煮る場合の話さ。薄切りの肉は、煮過ぎると固くなるし、味が抜けちまうだけだよ」
「えっと、それじゃどうすれば……」
煮込んだら肉が固くなってしまうのでは、この肉じゃ牛丼は作れないのだろうか。
「そうさねぇ、肉は火が通ったら固くなる前に引き上げちまうんだね」
「なるほど、火を通しすぎなければいいのか……だとしたら、汁を濃い目にして、葱に味を染み込ませておくか……」
「タエ、何か忘れてやしないかい?」
「えっ、忘れてるって……?」
「あんたは、何を作ってるんだい?」
「牛丼の具……って、ご飯!」
「これじゃあ、自分の店を持つなんて、夢のまた夢だね」
「うー……そのうちに手際良くなるもん」
「はっはっはっ、それには相当頑張らないと駄目そうだねぇ」
悔しいけれど、今のあたしでは全く言い返せない。
昨日も、あたしのスープ作りを手伝ってくれながら、ハラさんは片手間に簡単な食事を作ってくれた。
慣れちまえば大したことないさ……なんて言ってたけど、あたしから見たら十分に手が込んでいた。
こっちをやりつつ、あっちも進める……なんて芸当は、頭の中で手順が出来上がっていなければ出来ない。
しかも、薪のコンロの火加減も調整しないといけないのだから、前途多難という感じだ。
少なくとも、家の調理場で手際良く作れないようでは、店を開くなんて無理だろう。
「草笛亭で仕込みも手伝わせてもらおう……」
「そうさね。あたしが出来るのは、せいぜい十人程度の食事の支度だけど、プロならばもっと大人数を捌けなきゃ商売は成り立っていかないだろうからね」
まったくその通りだと思う。
牛丼屋を開くなら、大量のご飯も炊かないといけないし、日本みたいに便利な保温ジャーなんて物も存在していない。
「んー……大変だなぁ」
「何だい、もう諦めるのかい?」
「とんでもない、始めてもいないのに諦めたりしませんよ。諦めるとしたら、色々と手を尽くして、色んな人に手を借りて、それでもどうにもならなかった時ですよ」
「そうだよ。タエは、まだまだ若いんだ。何事も諦める必要なんか無いんだよ」
「そうですね」
そう答えてはみたけれど、どうにもらならない事もある。
でも、やってみなきゃ分からない事の方が多いんだから、人生を悲観している暇なんか無い。
どうせ一度は死んだようなものなのだ、自分の人生を自分の思うままに生きてやるだけだ。
お米を研いで、水加減、火加減をハラさんから教わって、なんとかご飯も炊きあがった。
「なんか、良い匂いがしてるんだけど……」
「おぉ、霧風、グッドタイミング」
「なんか、肉じゃがみたいな……」
「残念、もうすぐ出来上がるから、アラセリさんと大人しく待ってな」
「おぉ、それは楽しみ」
あたしが今、一番食べさせたいと思っていた相手も帰ってきたし、ちゃちゃっと完成させよう。
薄切りにした牛肉を温めた汁の中で泳がせて、火が通ったところで深めのお皿に盛ったご飯の上に、葱と一緒に盛り付けた。
汁を少し掛けて生姜を添えれば、フルメリンタ風牛丼の完成だ。
「しまった、卵が無いよ……てか、味噌汁もだ。あーっ、何やってんだかなぁ……」
「はっはっはっ、人間は失敗して成長してくもんだよ」
「ですよねぇ、あたしには伸び代しか無いって事ですよ」
牛丼をトレイに載せて、霧風が待つ食堂へと運んでいった。
「えっ、嘘っ、それって牛丼?」
「フルメリンタ風牛丼、多恵スペシャルだぜ」
「おぉ、生姜まで添えてあるよ。ねぇ、食べていい?」
「勿論! おあがりをよ!」
「いただきます!」
霧風は左手で皿を持ち上げると、右手に持った箸であたしの作った牛丼を掻き込むように食べ始め、直後に手を止めた。
「うぐぅ……」
「どうした、何かおかしかったか?」
「ヤバイこれ……」
そう言うと、霧風はまた牛丼を掻き込み始めた。
一度も箸を止めず、視線を上げることもなく一心不乱に食べ続け、米粒一つ残さず完食した。
皿と箸をテーブルに戻した霧風は拝むように両手を合わせ、その頬には涙が滴っていた。
「ごちそうさまでした! ヤバイよ、日本を思い出して泣けたよ」
そう言うと、霧風は右手で涙を拭った。
「そんな、大袈裟な……」
「いや、マジだって。新川や三森に食わせたら、きっと同じ反応すると思う……いや、俺よりも号泣するんじゃないか?」
「いやぁ、そこまでのものじゃないと思うよ」
「そう思うなら、目を閉じて食べてみなよ」
「いやいや、あたしが作ったんだよ。そんなことないって」
食後のお茶を飲みながら、思いに浸っている霧風を眺めながら、あたしも自作の牛丼を口に運んだ。
肉は……固くならずに火も通っている。
甘辛い味付け、葱の食感、ご飯の甘味、肉の旨み、生姜の辛み……それらが渾然となって噛み締める度に口の中に広がっていく。
一口、二口、食べ進めるうちに、あたしも手が止められなくなった。
汁を味見しただけでは、牛丼の思い出は完成していなかったんだ。
牛丼という形になって、全てを一緒に口にして、思い出が強烈に蘇ってきて、気が付けばあたしも涙を流していた。
「帰りたい……召喚される前に戻りたいよ……」
ボロボロと涙を流しながら牛丼を食べるあたしの肩に、そっと添えてくれたハルさんの手の温もりが心に沁みた。
この日のちょっと塩辛い牛丼の味を、あたしは一生忘れないと思う。
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