第103話 人生の先達

※ 今回は富井多恵目線の話になります。


 荷車を引いたお婆ちゃんが、橋を見上げて溜息をついていた。

 橋は堤防を越えて川を渡るようで、街道よりも少し高くなっている。


 普通の人にとっては大した坂ではないけれど、お年寄りで荷車を引いている身には壁のように見えるのかもしれない。


「おばちゃん、手伝おうか?」

「おや、ありがとうよ。気持ちだけ貰っておくよ」


 てっきり手を貸してくれと言うと思っていたのに、お婆ちゃんはあっさりとあたしの申し出を断った。


「えっ、いいの?」

「ありがたいんだけどね、急に軽くなったり重たくなったりすると、調子が狂っちまって転びそうになるのさ」

「なるほど、難しいもんだね」

「それにね、上りはいいんだ。むしろ、下る方がおっかない。勢いを止められないと、荷車の下敷きになっちまうからね」


 坂を上がる時には、とにかく踏ん張って力を出せば良いし、仮に途中で力尽きたとしても、後ろに引っくり返りはしても自分の荷車に轢かれる心配はない。

 だが、坂を下る場合には、下手をすると自分の荷車に轢かれてしまうらしい。


「うーん……おばちゃん、やっぱり手伝うよ。ちょっと待って……」

「いやいや、いいんだよ。ちょいと休めばこのぐらい大丈夫さ」


 そうは言うが、荷車の上には重たそうな麻袋がいくつも積まれているし、少し腰の曲がったお婆ちゃんには大変そうだ。

 一晩泊めてもらった爺さんの家から貰ってきた鞄を開けて、縄を取り出す。


 藁縄は、元々鞄に入っていたものだ。


「これをこうして……これで良し。後ろから押されると調子が狂うなら、前から引っ張ってあげるよ」

「はぁ……お節介な子だねぇ。でも助かるよ」

「橋を下る時は、前から押さえるからさ」

「ありがとうね」


 輪っかにした縄を引き棒に通し、リュックを背負うようにして荷車の前から引っ張る。


「準備が良ければ出発するよ。引くのが速かったら言ってね」

「はいよ、よろしく頼むよ」

「じゃあ、出発! よっ……ん?」


 何これ、ちょっとマジで重いんだけど。

 お婆ちゃん、こんなの一人で引いて上るつもりだったの?


 チラっと後ろを振り向くと、引き棒を押すお婆ちゃんの腕がなんと逞しいことか。

 手伝うのが駄目なら、あたしが一人で引いていってあげるよ……なんて言い出さなくて良かった。


 両肩に食い込む縄の痛みを奥歯を噛みしめて耐えて坂を上る。

 この程度の痛み、戦争奴隷でいた頃に比べれば軽いものさ。


「ほいよ、そこで止まっておくれ」

「はー……はー……こんなに重いのを一人で引いて上るつもりだったの?」

「なぁに、いつものことだよ」

「うわぁ、逞しいねぇ」

「そりゃそうさ、逞しくなきゃ女一人で生きていけないよ」

「なるほど……」


 橋の上まで来たところで一旦荷車を止めて、引っ張っていた縄を回収した。

 どうやら、このお婆ちゃんは人生の先達ってやつらしい。


 日に焼けて皺くちゃになっているけれど、良く見ると整った目鼻立ちをしている。

 若い頃には、何人もの男と浮名を流したのかもしれない……なんて勝手な想像を巡らせてしまった。


「さて、ここからが大変なんだよね?」

「そうさ、勢いが付かないように、ゆっくり下りるよ」

「じゃあ、あたしは前から押す格好で手伝うからね」

「あぁ、助かるよ、ありがとうね」

「いやいや、お礼は下に着いてから受け取るよ」


 今度は荷車の引き棒を挟んで、お婆ちゃんと向かい合う形で坂を下る。

 坂を下るお婆ちゃんの顔は真剣そのものだ。


 あたしも足を踏ん張って、荷車にブレーキを掛けるように引き棒を押す。

 ゆっくり、ゆっくり、焦らずに坂を下りきった。


「はぁ……すっかり楽させてもらったよ。ありがとうね」

「いやいや、こっちもいい経験をさせてもらったよ。じゃあね……」

「ちょっとお待ち! 何にもないけと、これを持っておゆき」


 お婆ちゃんは、竹の皮の包みを差し出した。


「これ、おばちゃんのご飯じゃないの?」

「いいのいいの、楽させてもらったから……」

「いやだって……」

「若い者が遠慮するんじゃないよ」

「うーん……じゃあ、半分もらっていく」


 竹の皮の包みをほどくと、おむすびが二つ入っていた。

 一個を摘まんで口へと運ぶ。


「んっ、うっま! 丁度いい塩加減」

「何だい、遠慮しなくていいのに……」


 そう言いつつも、お婆ちゃんは残ったおむすびを竹の皮で包み直した。

 こんな歳になってまで、こんな重労働を続けなきゃいけないんだから、生活は楽ではないはずだ。


「じゃあね……」

「あんた、どこまで行くんだい?」

「んー……ちょっと王都の方まで」

「だったら、この先の峠を超えるときは、獣除けの鈴を忘れずに持っておゆき。ついこのあいだも熊が出たって話だからね」

「そうなの? 分かった気をつけるよ」


 お婆ちゃんに手を振って、おむすびを頬張りながら歩きだす。

 生憎、獣除けの鈴は持っていないから、途中の村か街で買うしかなさそうだ。


 おむすびを食べ終えて、ふと考えた。

 あたしは、良い事をしたのだろうか?


 重たい荷車を引いて橋を渡るのは大変だし危険だ。

 あたしが手を貸したことで、お婆ちゃんは楽ができたが、それにおむすび一個の価値はあったのだろうか。


 たかがおむすび一個だけれど、これはお婆ちゃんの一食の半分だろう。

 助けたつもりだけれど、結果としては食事の半分を奪ってしまった形だ。


 あたしのずっと後ろにマフちゃんがいるのには気付いていたけど、助けをもとめないで正解だった。

 マフちゃんにもおむすびをあげてしまったら、お婆ちゃんの食事が無くなるところだった。


「ふぅ……人助けって難しいもんだね」


 次に辿り着いた村で、獣除けの鈴を買った。

 鈴というよりも、カウベルを小さくしたようなものだ。


 幅三センチ、長さ十センチぐらいの紐が付いていて、手に持って歩くとカランカランと音が鳴る。

 鳴らす必要が無い時には、この紐をベルに詰めておくそうだ。


 峠をこえるのは、歩きだと一日掛かるらしいので、宿に一泊した。

 同じ宿に泊まっていた商人らしいオッサンが一晩いくらだと聞いてきたので、言い値の十倍吹っ掛けてやったら悪態をつかれた。


 しかも、周囲が寝静まった頃に、夜這いを仕掛けて来やがったから、裸を見せて油断したところで思いっきり股間を蹴り上げてやった。

 薄くなっている髪を掴んで庭に放り出し、股間を押さえて蹲りながら睨みつけてくる男の膝スレスレを狙い、風属性魔法の刃で地面を切り裂いた。


「ひぃ……」

「今度舐めた真似しやがったら、手前の汚ぇ首を斬り落とすからそのつもりでいろ、分かったか!」


 オッサンはガクガクと頷きながら小便を漏らしていた。

 物音を聞き付けて起きてきた宿の主人に経緯を話して部屋にもどる。


 素っ裸のままで平然と話をするあたしに、宿の主も目のやり場に困っていたようだ。

 翌朝、宿を発とうとすると、宿代は要らないと言われた。


 どうやら、騒ぎを起こした商人から追加の宿代を徴収したらしい。

 いきなり追加の金を払えと言われても素直に払わないだろうと思ったのだが、払わなければ他の宿にも情報が流れて、この村で宿が取れなくなるらしい。


 峠越えに備える村で宿が取れなくなるのは、商人にとっては大きな損失となるので、払うしかないらしい。

 宿の主に、これがオッサンの馬車だと教えられた。


 大丈夫だとは思うが、この先で嫌がらせをされないとも限らないから覚えておいた方が良いと言われた。

 あれだけ脅しをかけておけば大丈夫だとは思うけど、一応念ために覚えておこう。


 宿を出て、獣除けの鈴を鳴らしながら街道を歩くと、すぐに道は上り坂になった。

 王都に行くまでには、幾つか峠を越えて行かなければならないらしい。


 厳しい上り坂が続くのかと思っていただ、傾斜自体は驚くような急坂ではなかった。


「そりゃあ馬車が上るんだから、急といっても限度があるよな」


 峠道の両側は針葉樹の深い森で、上るほどに気温が下がっていく。

 確かに、熊とか出て来てもおかしくない風景だ。


「てか、こっちの熊は冬眠しないのか?」


 日本の熊なら、もう冬眠している気温のような気がするが、それとも冬眠前に栄養を蓄えているのだろうか。

 街道を歩いていると、後ろからカランカランと鐘の音が近付いてくる。


 馬車馬の首に付けられた鐘の音だ。

 撥ねられないように、道の脇によって後ろを振り返ると、御者台には夜這いを仕掛けて来たオッサンが乗っていた。


 オッサンもこちらに気付いたらしく、ギョっとした表情を浮かべながらも馬車を走らせて来る。

 何かしやがったらタダじゃおかないという気合いを込めて睨みつけ、両手をダラリと垂らしてブラブラと意味ありげに振ってみせた。


 夜這いのオッサンは、顔を強張らせながら気か付いて来て、追い抜くときにぎこちなく会釈をして通り過ぎていった。

 その後も、何台か馬車が追い越していった。


 寒空の下を一人で歩く健気な少女を見て、乗っていかないかと声を掛けてくれても良さそうなものだけど、山賊が存在する世界では得体の知れない相手を乗せたりはしないらしい。

 逆の立場で考えてみれば、こんな寒空の下を歩いて峠越えしようなんて奴は、見るからに怪しい。


「まぁ、いいけどね。この程度で音を上げていたら、女一人じゃ生きていけないよね」


 また一台馬車が追い付いてきて、追い越していった。

 うねうねと続く峠道のカーブを曲がり、馬車の姿が見えなくなった直後だった。


 突然、馬がいななく声と獣らしき咆哮が聞こえてきた。


「グォォォォォ!」


 地の底から響いてくるような声からして、大型の獣のようだ。

 足を速めてカーブの先を覗こうとしていたら、急に後ろから咆哮が聞えた。


「グアァァァァ!」

「ちょ……マジ?」


 振り返ると、後ろ脚で立ち上がった大きな熊の姿があった。

 体高は軽く二メートルを超えていて、振り上げた前脚にはナイフのような爪が生えている。


「しゃぁ!」


 熊が襲い掛かってくるよりも速く、右手を下から振り上げた。

 風の刃で下から上へと両断するつもりだったが、熊は仁王立ちしたままだ。


 それでも鼻面を切り裂かれて、熊は悲鳴を挙げて後退りした。


「もっと鋭く! もっと強く! うりゃぁ!」


 振り上げた右手に、更に強力な風の刃を装着して、袈裟懸けに振り下ろした。

 左の肩口から右の脇腹へと朱色の線が走り、パッと鮮血が散った。


 更に振り下ろした右手に宿した刃を維持しながら、踏み込んで逆水平に振り抜いた。

 一瞬の間が開いた直後、腹圧に押されて内臓が零れ出たのを確認して、カーブの先へと走ると、馬車の下に逃げ込んだ人と馬に襲い掛かる熊の姿がみえた。


「鋭く! 強く! 速く!」


 集中力を高めて右腕を振り下ろすと、馬に襲い掛かろうとしていた熊の腕と首が宙に舞った。

 更にもう一頭、こちらに尻を向けて馬を抑え込んでいる熊に目掛けて、風の槍を突き入れる。


「グェェェェェ……」


 尻の穴から突き刺した風の槍を腹の中で弾けさせると、熊は悲鳴をあげてのたうち回り、やがて動かなくなった。


「怖ぇぇぇ……森の熊さん、狂暴すぎるだろう。てか、獣除けの鈴……」


 熊の相手をするのに夢中になって、獣除けの鈴をどこかに投げ捨ててしまったようだ。


「まぁ、いいか……あんまり効果無いみたいだし」


 あたしの鈴よりも大きな音を立てていた馬車が襲われたのだから、殆ど効果無いと言っても良いだろう。

 さてさて、この後どうしようか。


 まぁ、こういう時はマフちゃんに丸投げするに限るでしょ。

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