第96話 組織の女

 ユートの屋敷でハウスメイドを務めている女の本名はイリュシラという。

 生みの親からもらったイリュシラという名前から何度も何度も名前を変えて、今はハラと名乗っている。


 ハラは、フルメリンタの諜報機関に所属する女だ。

 昨年、病気で夫に先立たれ、子供もいない未亡人ということになっているが、これまでに結婚したことは無い。


 というか、フルメリンタの戸籍には、ハラという女は勿論、イリュシラという女も存在していない。

 ハラの持っている身分証は正規の形式に則っているし、所定の魔道具を使って調べても何の問題も無いと判別されるが、記録としては残ってない。


 実在するけど、存在しないことになっている。

 何かあっても、身元を辿れない、調べようのない女だ。


 ハラの役目は、キリカゼ夫妻の監視と護衛。

 ユートやアラセリがフルメリンタにとって不利益となる行動をしないか監視し、危害を加えようとする人間から身体生命を守る役目を担っている。


 ハラの目に映るキリカゼ夫妻は、一言で表すならば奇妙な夫婦だ。

 水と油かと思えるほど、二人の人物像は異なっている。


 夫のユートはユーレフェルト王国から招聘されたワイバーン殺しの英雄という話だが、ハラの目には甘ちゃんの若造にしか見えなかった。

 確かに、特殊な魔法が使えるようだし、違う世界の知識を持ち合わせているようだが、それらを除くとフルメリンタの同年代の男と比べて幼く見える。


 根っからの善人でお人好し、一応他人の思惑を推測する程度の警戒心は持ち合わせているようだが、人を騙して陥れるような行為とは無縁の人物だ。

 その一方、妻のアラセリは刃物のような女だ。


 元々、ユーレフェルト国内でユートの護衛を務めていたらしく、ハラと同種の人物のようで、普段の暮らしの中でも殆ど隙を見せない。

 ど素人の少年と修羅場を潜り抜けてきた女工作員、そんな二人なのだが実に仲睦まじい。


 二人は、殆どの時間を共に過ごしている。

 ユートが施術を行っている際にも、アラセリは近くに控えていて助手として手助けを行っている。


 食事をするのもいつも一緒、風呂に入るのも一緒、そして毎晩のように睦み合っている。

 ハラも指令に従って、恋人や愛人を演じたことはある。


 勿論、相手の男に招待を気付かれるようなヘマをしたことは無いが、逆にそうした偽装をしている人間は何人も見抜いてきた。

 演じている人間特有の不自然さを見破ることに関して、ハラは自信を持っているのだが、アラセリからはそうした気配が感じられない。


 ユートに全幅の信頼を寄せ、自分も全てを委ねている。

 まるで本物の夫婦のような空気しか感じられないのだ。


 実際、二人は本物の夫婦としてフルメリンタに根を下ろすつもりのようだが、一度組織に身を置いた人間が、そんな平凡な幸せを手にできるのかとハラは信じきれないでいる。

 いや、正確には、そんなことは許されないはずだと、アラセリを羨んでいることにハラは気付いていなかった。


 ユートとアラセリは、どこにでもいそうな普通の夫婦に見えるが、ハラは二人が自分の正体に気付いていると感じていた。

 だが、敵対する国の間で領土の返還条件として招かれたのだから、監視や護衛が付くのは当然だと思っているらしく、ハラに対してあからさまに警戒心を見せることはない。


 一応、アラセリは一線を引いているようだが、ユートはハラが戸惑うほどに無防備に接してくる。

 同じ屋敷で過ごす期間が長くなるほどに警戒度が下がる様子は、まるで普通の屋敷の主と使用人の関係のようだ。


 ユートがそんな調子なので、ハラの仕事は物足りないと感じるほど簡単だった。

 来客の案内は全てハラが行っているし、どこかに夫妻が出掛ける時には、行き先と帰宅予定の時間まで伝えて来る。


「ハラさん、今日は冬物の衣料品を見に行ってきます。お昼はどこかで食べて、帰るのは夕方ぐらいになると思います」

「はい、夕方は冷え込むようになったから、あまり遅くならない方がよろしいですよ」

「そうですね。日が落ちる前に戻るようにします」

「いってらっしゃいませ」


 二人が出掛けた後、組織と連絡を取り合うのだが、後をつけた人間の報告によれば、ハラに告げた目的地から大きく逸れることは少ない。

 そして、予定が変更された時には、帰宅後にユートの口から予定が変わった経緯が告げられるのだ。


 まるで、自分達は隠し事はしないとハラを通してフルメリンタに宣言しているようなものだ。

 おそらくアラセリが、こちらの意図を推測して助言しているのだと、ハラも最初の頃は思っていたのだが、日が経つにつれてユートの行動が天然なのだと気付いた。


 食事の美味しい店を見つければ、こんな料理が美味しかったと話し、珍しい品物を見つけるとハラに土産を買ってくる時もある。

 演技などではなく、屋敷の主が使用人に普通に接しているだけなのだ。


 ユートが素のままで接してきていると気付いて、ハラも警戒の度合いを下げた。

 最初は、意図的に警戒の度合いを下げたのだが、やがてユートの天然ぶりに引き摺られるように、ハラが気付かないうちに警戒心は薄れていった。


 二人がフルメリンタに害をなす計画をしているようには思えず、むしろ手に入れた平穏な生活を楽しんでいるようにしか思えなかった。

 特にユートは、お人好しで危険度の低い少年だと見極めていたからこそ、その言動で思わぬ事態が起こったことにハラは心底驚かされた。


 戦争奴隷として使役されていたユートの女友達が解放されたと聞いた時、ハラは自分の耳を疑った。

 諜報機関の上司からは、戦争奴隷は全員使い潰すので、その末路は決してユートには悟られるなと言われていた。


 これは、国王レンテリオ・アダル・フルメリンタによる決定で、覆されることは無いとハラは思っていたのだ。

 しかも、奴隷が解放された原因がユートにあると聞かされ、ハラは驚きを隠せなかった。


 ユートがやったことと言えば、蒼闇の呪いと呼ばれる痣を消す作業の最中に、貴族の子息達にせがまれてワイバーン討伐の様子を語って聞かせただけだ。

 だが、一生消えない、一生消せないと言われた痣を取り除いてくれた恩人が、なんとか助けたいと思っている者がいると聞けば、手助けしたいと思うのは当然だろう。


 ましてや貴族という身分で、平民とは違う影響力を持つ者達が動けば、たとえ国王といえども軽んじる訳にはいかなかったようだ。

 国王レンテリオは、貴族からの請願に押される形で戦争奴隷から解放は認めたものの、それ以上の特別な手助けは厳しく禁じた。


 自分たちの恩人の友人であったとしても、戦争犯罪を犯した罪人であることに違いはない。

 戦争奴隷という地位から解放するだけでも、特別な恩赦であるというのが国の方針らしい。


 組織からハラの下へ、戦争奴隷だった女がユートに接触する可能性があるので、最大限の注意を払うように指令が下された。

 戦争奴隷だった女が、どのような感情を抱いているのか不明だからだ。


 たとえば、ユートに対して感謝の念を抱いているならば良いが、とばっちりのような恨みを抱いているならば危険だ。

 それと、フルメリンタに対してどのような感情を抱いているのかによっても、ユートの今後に影響が出兼ねない。


 フルメリンタは、ユートの特殊な能力を利用して、隣国カルマダーレの貴族を招き入れて人質とする計画を進めている。

 ユーレフェルトへ侵攻する際に、カルマダーレに背後を突かれる恐れを無くすためにも、ユートの協力は不可欠だ。


 だが、戦争奴隷だった女がフルメリンタで受けた仕打ちの非道さを訴えたら、ユートが協力を拒むようになるかもしれない。

 今後、組織が元戦争奴隷の女との接触を試み、フルメリンタやユートに対する感情や行動の意図を探るようだが、最悪の場合には始末しなければならない。


 ハラの下へ指令が届いた翌日、宰相ユド・ランジャールからユートに奴隷解放の事実が告げられたが、城から戻ったユートは顔面蒼白で病人のようだった。


「どうされました、旦那様」

「だ、大丈夫です。ちょっとショックな事があったんですが……大丈夫です」


 ユートが落ち込んでいたのは、戦争奴隷から解放された人数よりも、助からなかった人数の方が多かったからだ。

 男は七人のうち二人、女は四人のうち一人しか助からなかった。


 ハラの目から見れば、戦争奴隷から解放されることが異例で、命が助かったことは奇跡だという認識だが、違う世界から来たユートにとっては受け入れがたい事実だったようだ。

 その晩、ユートはアラセリの体に溺れた。


 様子を探っていたハラが呆れるほど、何度も何度も求め、果てた。

 ユートは癇癪を起した子供のようでもあり、性欲に目が眩んだ獣のようでもあり、受け止めるアラセリは、妻であり、母であり、娼婦のようでもあり……異様な関係に見える一方で、剥き出しの本能のままに互いを受け入れているようにも見えた。


 翌朝、ユートもアラセリも昨夜の狂乱ぶりが嘘のように、普段と変わらぬ様子に戻っていた。

 二人の経歴を考えると、本能剥き出しの乱行がユートの精神を支える術であり、二人を強く結びつけてきたのであろうとハラは推測した。


「何だか危なっかしいねぇ……でも、ちょっと羨ましいかもね」


 ユート達と暮らすようになってから三ヶ月にもならないが、ハラは二人に好感を抱いている。

 監視対象として楽なのも理由の一つだが、こうして二人で支え合い、難局を乗り越えてきたであろう生き様に共感しているのだ。


 ハラも若かりし頃、同じ任務の中で心通わせた仲間がいたが、結ばれることはなかった。

 明日をも知れぬ世界で生きる者には、安息など許されないと諦めてきた。


 だからこそ、国に属さず、国に縛られず、手を取り合って前に進もうとする二人を目にして、自分が羨ましいと思っていることにハラは気付いた。


「あたしには叶えられなかった道を進もうとしてるんだ、手を貸してやるさ」


 今後、どんな指令が組織から届くとしても、二人の生活が守られるように立ち回ろうとハラは覚悟を決めた。

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