第2話 厨房の掃除

「転移……転移……転移……よしっ」


 下働きの仕事に回してもらって五日目、掃除の仕事に転移魔法を使う方法を思いついた。

 たった1ミリしか転移させられない欠陥品の転移魔法だが、掃除に使うと思いのほか便利だった。


 たとえば、便器にこびり付いた汚れも、魔力によって便器自体と汚れに分けて認識し、転移魔法を発動するだけで簡単に落とせた。

 特に垂直面の汚れは、転移魔法を発動させるだけで面白いように綺麗になった。


 水平な面は、転移魔法を使った後も汚れを移動させなければならないが、それでも一度浮かせられるので掃除に掛かる時間は格段に短縮できた。


「親方、予定の場所、終わりました!」

「はぁ? もう終わっただと? 手を抜きやがったな、この野郎……」

「手抜きなんてしてませんよ、やっと掃除のコツが分かってきただけです」

「うるせぇ! 確かめてやるから作業した場所に案内しろ!」

「分かりました……」


 昨日までの三分の二、いや半分程度の時間で作業を終わらせたので疑われたのだろうが、仕上がりに関しては問題ないはずだ。


「何だこりゃ! お前、いったい何をしやがった!」


 調子に乗って、便所の天井や外壁まで綺麗にしてしまったので、雑務係の親方が驚くのも当然だろう。


「実は、転移魔法を掃除に応用して……」


 転移魔法を使った掃除のやり方を説明すると、親方も納得してくれた。

 説明した時に、今の状態では戦闘には使えないが、それでも少しでも役に立ちたいと思って工夫したと言い添えたのも良かったのかもしれない。


 その日から、少しずつだが待遇が改善され始めた。

 物置で寝起きしている事情を話したら、寝台しか無い独房みたいだが部屋も与えられた。


 雑務係の同僚とも少しずつだが話をするようになって、あまり美味いとはいえないが朝晩二回の食事にもありつけるようになった。

 クラスメイトと顔を会わせなければ罵られる事もなくなって、胃に穴が開きそうなストレスからも解放された。


 最初は地獄からちょっとだけマシな地獄に移っただけかと思ったが、今は天国とまでは言わないが少しは気楽に暮らせている。

 雑務係に転属してから十日ほど経った日、親方から残業を命じられた。


「ユート、夕飯を食い終わって一休みしたら厨房の掃除に行け」

「うっす、分かりました」


 親方が離れていった後で、一緒に道具を片付けていた同僚タリクに肩を叩かれた。

 タリクは俺よりも二つ年上で、これで歌って踊れればインド映画の主役が張れそうな濃い顔立ちをしている。


 新入りの俺に対して風当たりの強い雑務係で、何かと世話を焼いてくれるナイスガイだ。

 ただし、野郎からは慕われるけど、女子からはちょっと……というタイプに見えなくもない。 


「ユート、真面目に掃除する必要なんかないから、適当なところで切り上げて帰って来い」

「えっ、なんで?」

「厨房なんて、脂と煤で汚れていて、いくら掃除したって綺麗になんかならねぇんだよ。掃除の結果が目に見える水回りだけ真面目にやって、あとはやったフリだ、やったフリ」

「なるほど……」


 厨房の掃除は、雑務係に嫌われている仕事の一つらしい。

 城では毎晩のようにパーティーが開かれていて、そこに出される料理を作るために厨房は遅くまで使われている。


 掃除が出来るのは、全ての厨房の業務が終わってからなので、掃除を終えるのは日付が変わる時間になってしまうそうだ。


「いいか、手抜きしたってその時間なんだ、真面目にやってたら寝る時間が無くなるからな」

「分かった、適当に切り上げてくるぜ」


 夕食後、厨房の出入り口近くに置かれた木箱に腰を下ろして目を閉じた。

 ここが雑務係の待機場所で、厨房の仕事が終わったら声を掛けてくれるらしい。


 日頃俺達が口にしている食事とは全く別次元の良い匂いがしてきて、夕食を済ませたばかりなのに腹が減ってくる。

 今が一番忙しい時間のようで、ひっきりなしに怒号が飛び交っていたが、昼間の疲れと満腹感のおかげですぐに眠り込んでしまった。


「おい、起きろ! いつまで寝てやがるんだ、この野郎!」

「うぇ? えっ……?」


 突然、足に痛みを感じて目を覚ますと、不機嫌そうな中年男が俺の足を蹴っていた。


「まったく、人が忙しく働いてるのに意地汚く居眠りなんかしてやがって……明日の朝までに綺麗に掃除しておけよ!」

「は、はぁ……」


 お前らは俺が掃除している時間には休めるんだろう、文句言うんじゃねぇ……なんて思っても口には出さないけどな。

 中年男が去った後、厨房に足を踏み入れてみてタリクの言葉の意味が良く分かった。


 長年使われてきているからだろうが、石造りの壁も床も、板張りの天井も脂と煤で汚れていた。

 辛うじて綺麗になっているのは、水回りと食器や調理器具が置かれている辺りだけだ。


「んじゃ、一丁綺麗にしてやっか……転移!」


 最初に手を付けたのは、煤で黒ずんだ天井だ。

 用意してきた脚立と四角い箱を使い、天井近くで箱を構えて、その中に収まる範囲で転移魔法を発動すると、天井の黒ずみは箱の中へ落ちて天井板は本来の色を取り戻した。


 次に手を付けたのは石造りの壁で、こちらも転移魔法を発動させると、石本来の色と光沢を取り戻した。


「おぉ、さすが王城の厨房、すげぇ作りじゃん」


 綺麗になった壁は大理石のようで、継ぎ目はナイフの先も入らないぐらいの精度で作られている。

 魔法を使って加工しているのか、それとも熟練の手仕事なのか分からないが、煤と脂の汚れで隠れてしまうのはもったいないと思う美しさだ。


「うげぇ、この脂……ギッタギタだな」


 一方、転移魔法によって落ちた煤と脂の混合物は、まるでコールタールのように床にへばりついていた。


「だが、しかーし! 平面の掃除も工夫を重ねているのだよ」


 取り出したのは、物置で見つけた薄い板だ。

 何かの木の板なのか、それとも樹脂を固めた物なのか分からないが、3ミリほどの厚さで良く撓り、水に付けても破れる気配もない。


「いくぞ……転移、転移、転移、転移、転移!」


 平面に落ちた汚れを連続で転移させ、浮いた隙間に板を差し込んで受け止める。

 板に載った汚れは、ゴミ箱の上で転移魔法を使って落とす。


「転移、転移、転移、転移、転移、転移! うひょー超きれい!」


 真夜中の妙なテンションも手伝って厨房を掃除しまくり、ゴミ出しを終えた時には空が白み始めていた。


「やっべぇ……調子に乗り過ぎた。今日一日体が持つかなぁ……」


 少しでも寝ておこうかとも思ったが、眠ったら絶対に起きられなくなるのは目に見えているので、水浴びをして着替えて、ついで朝食までに洗濯を済ませておいた。

 眠い目を擦りながら、城で働く職員用の食堂へ向かうと、血相を変えた雑務係の親方が歩み寄ってきた。


「ユート、お前何をやらかした!」

「えっ、何もやらかした覚えは無いですけど……」

「昨日掃除を担当した者を連れて来いと、厨房から朝一番に呼び出されたんだぞ!」

「あぁ、すみません。調子に乗って綺麗にしすぎたのかも……」

「綺麗にしすぎた……? あぁ、お前、転移魔法を使ったのか?」

「はい、煤と脂であまりにも汚れてたもので……」

「そうか……まぁ、行けば分かるか」


 親方の話によれば、王族や貴族の胃袋を預かる厨房は、雑務係よりも地位が高いらしい。

 親方よりも料理長、俺達よりも厨房の下働きの方が偉い……みたいな感じのようだ。


「おはようございます、雑務のウダイです。料理長はいらっしゃいますか?」


 下っ端に見える料理人にさえ、親方は低姿勢で声を掛けていた。


「料理長! 雑務の親方が見えられてます!」

「おぉ、今行くから、そこで待ってもらえ!」

「少し待っていて下さい」

「はい……」


 笑顔で応対する料理人に声を掛けられても、親方は厨房の様子に目を奪われていた。

 まぁ、汚れを一掃した厨房を見れば、こうなるのも分かるけどね。


「ユート……いくら何でもやり過ぎじゃねぇのか?」

「ですよねぇ……すみません」

「文句を言われることは無いだろうが、これからの対応をどうするかだな」

「十日に一度ぐらいのペースで、俺が担当すれば大丈夫じゃないっすか?」

「まぁ、それしかないだろうな」


 現代日本のように、強力な洗剤が存在していないので、壁にこびり付いた脂汚れは落としようが無いのだ。

 食器に関しては、植物の実の皮を使った石鹸で洗っているようだが、手に入る量が限られているので掃除には使わせてもらえない。


 今行くと返事をよこしたが、料理長は一向に姿を見せなかった。

 王族向けの朝食の支度が忙しい時間なのだろう、昨日同様に怒号が響いてくる。


 苦情を言われる訳ではないのだろうが、それでも気が気でないのだろう、親方は掃除担当が待機する木箱に腰を下ろして、盛んに胃の辺りに手を当てていた。

 俺達に対しては横柄な態度を取っているが、自分よりも地位が上の人間には弱いらしい。


 結局、料理長が姿を見せたのは、王族向けの朝食の支度が全て終わった後だった。

 待っている間、ちょっとでも寝不足を解消しよう、親方の座っている木箱の隣にしゃがみ込み、壁にもたれて居眠りしていたら頭を叩かれて起こされた。


「この馬鹿、寝てんじゃねぇ!」

「あぁ、構わん、構わん、昨晩の掃除で疲れているんだろう」

「申し訳ございません」


 平身低頭の親方に対して、鷹揚に答えてみせたのは昨晩俺を蹴飛ばして起こした中年男だった。


「ついて来たまえ……」


 料理長は、親方と俺を調理人のための控室へと誘った。

 これも異例の対応らしく、親方は目を丸くしていた。


 控室に入った料理長は、部下にお茶を出すように言いつけて、応接用のテーブルを挟んで俺達と向かい合った。


「君が昨晩掃除を担当してくれたんだね? 名前を聞かせてくれるか?」

「はい、優斗と言います」

「ウダイ、率直に言わせてもらうが、ユートを調理場にもらえないか?」

「いや、それは……」


 ある程度予想はしていたのだろうが、料理長の申し出を聞いて親方は渋い表情を浮かべた。

 転移魔法を使った掃除方法は厨房以外の場所でも威力を発揮しているので、雑務係としても俺を手放したくないのだろう。


「ふははは……いや、すまん、すまん。無理を承知で言ってみただけだ」

「料理長……勘弁して下さい」

「いや、すまん。あの綺麗になった厨房を見れば、雑務でも手放せないとは分かっていたが、それでもユートを引き抜きたいと思っているのは本当だ。正直、今朝厨房を見た時には腰を抜かしそうになったぞ」


 壁も床も元の色が分からないほど汚れていたのが、一夜にしてピカピカになれば当然の反応だろう。

 結局、料理長と親方が交渉した結果、十日に一度の割合で厨房の掃除を担当する事となった。


 そして、料理長に認められたことで、別の依頼が舞い込んで来るようになった。

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