第9話
もし本当に夫である、アレクセルの王宮での仕事が忙しいなら仕方がない。執事の証言からも元々忙しかったのは事実でろう。
しかし結婚した途端実はハメを外しているのが真実だとしても、行き遅れ人生真っしぐらだったのを回避させてくれた事。何より実家に迷惑をかけるのを阻止してくれたのだから感謝すべきである。
衣食住が保証され、快適すぎる暮らしに何の不満もある筈がない。シルヴィアは、自身の夫に対してこれっぽっちも恋愛感情を持ち合わせていないのだから。
シルヴィアは悟りを開いたような気分だった。
(そもそも、恋愛感情以前に旦那様の事少しも知りませんし……。私としてはいっそ、事務処理班に格下げでもいいのですが。あ、夫というより旦那様は雇用主かな?)
この日の午後からは、特に予定は入れられていなかった。そこでシルヴィアは久々に、結婚前からの密かなとある趣味を、満喫することにした。この趣味は、決して公爵家の人々に知られてはいけない。
廊下に出ると、使用人がいない事を入念に確認した。大きな窓の向こうは、屋敷の裏手に位置している。キョロキョロと挙動不審に再度確認すると、開け放たれた窓枠に手を掛け「よいしょっと」という掛け声とは逆に、軽やかに外へと飛び越えた。
「よし、ここも人気はなさそうね」
一言呟いてから呪文を唱え、瞬間シルヴィアの身体がふわりと浮かび上がり、屋敷を囲む高い塀を飛び越える。
こうして見事公爵家脱走を成功させたのだった。
**
行き交う人々に、楽しそうにはしゃぐ子供達の声。活気のある通りには、焼けた肉や甘い果物の匂いが漂い、食欲を大いに刺激してくる。
ここは王都の貴族街から離れた下町であり、シルヴィアは目立つ銀色の髪を、邸から持ってきた黒い外套のフードで隠している。そして現在は、眼前に広がる下町の露店を、青い瞳をキラキラと輝かせて眺めていた。ついでに涎も垂らしそうな勢いである。
(嗚呼……どれにしようかしら、どれも美味しそうで迷ってしまうわ)
そう、シルヴィアの趣味とは、庶民に紛れて露店で買い食いをすること。
本日も実に様々な露店が開かれており、どれもとても魅力的である。定番の物にするか、異国の物と思われる、少し風変わりな果物にしようか。
迷ったあげく、本日は好物である串焼き肉を購入する事にした。結婚式の準備に追われ、結婚後は公爵夫人として、公爵家に溶け込む事を優先してきた。
そのため、中々下町に来る機会に恵まれず、この串焼きを食べに来れないのが、最近のシルヴィアの悩みだった。
使用人の目があるのが一番の理由だが、結婚前はもっと気軽に露店めぐりと、買い食いが出来ていたのに。
店の人に、お金を払うと同時に受け取った焼きたての串焼き肉を、歩きながら早速頬張った。肉の旨味が口の中に広がる。
(美味しい!高級な食事もいいけど、やっぱりこのちょっと固めの、歯ごたえのあるB級感は癖になって食べたくなるのよね!)
シルヴィアは夜寝る前、公爵家の豪奢な寝室の広い寝台の中で、夜な夜なこの串焼き肉に思いを馳せていた。
しかも散歩したらお腹が空いて、晩餐がより一層美味しく感じるのではないだろうか。それはそれで更なる期待が膨らんだ。
串焼き肉を頬張りながら、本日の晩餐の事を考える程度には、シルヴィアは食い意地が張っている。
華奢な体からは想像つかないほど。
屋台巡りを趣味とするシルヴィアは、性格が好奇心旺盛なのと、食に対する探究心や食欲も人一倍だった。
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