「ただいま」


 あったあった。肉の下ごしらえ用の胡椒を、買い忘れてた。


「えっ泣いてる」


 彼女が、ボロボロと涙をこぼして泣いていた。その目の前には、塊状の肉。焼いたのか。昼ごはん用のやつだ。

 彼女が、こちらを見る。

 そして。

 目を見開く。

 目をこする。

 そして、もう一度こちらをみる。


「え。えなになになに」


 さわってきた。まるで、幽霊でもさわるみたいに。


「あ、これ。胡椒。昨日買い忘れて今買ってきました」


 彼女。おこったような顔。何か言おうとして。口が開いて、そのまま固まる。

 たぶん彼女は、はいといいえ以外が、発話できない。おそらく、生得的な何かだろう。それでも、何かを伝えようとしている。

 口だけが、もぞもぞと動く。

 それでも、発音までいかなかった。やっぱり、喋れない。

 また、泣きはじめた。声もあげず、ただなみだだけが頬をこぼれていく。


「さて、どうしたもんか」


 彼女の心裡なんて、わかるはずもなかった。ちょっと胡椒買いに出かけたら泣いてるとか。わからん。


「あ、さみしかった?」


 フォークが飛んできた。あぶない。この連想ゲーム、外れるといのちがあぶない。


「いやまて」


 外れたんじゃなくて、合ってたんじゃないか、これ。

 寂しいと指摘されて、はずかしくなったのか。そうか。そうかそうか。


「じゃあ、まずお肉をこちらによこしてください」


 ほら。威嚇しないの。もうフォークないでしょ。素手でお肉掴まないの。原始人ですか。


「お」


 奪ったお肉は、意外とうまく焼けていた。ただ、残念なことにお醤油が違う。


「ちょっと待っててね」


 肉を奪おうとする彼女をなだめつつ、さっき買ってきた胡椒と、使ってないほうの醤油で味をつけ直して、ほんの少し、ぎりぎりのところで焼き直す。アルミホイル。みちみちに敷き詰める。


「はい完成」


 これで機嫌がなおるといいな。

 彼女。あらためてフォーク。


「んんん」


 声にならない声がでてきた。どうやら、美味しいらしい。よかったよかった。機嫌なおったかな。


「え?」


 それは僕の腕なんですけど。噛まないで噛まないで。え。なに。わかんない。わかんないんだけど。


「」


 何か言おうとしたけど、やっぱり、彼女は喋れない。


「おかわり?」


 お肉まだあったっけ。

 あ。違う。そうですか。


「あ、もしかして、好き?」


 彼女の目が見開いて。

 そして顔が真っ紅になる。


「あ、え?」


 肉が好きなのかって意味で言ったんだけど。ほら。昨日の夜とか魚だったじゃん。

 あ。違う。そうですか。

 え。僕?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

AとBの境目 春嵐 @aiot3110

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る