浸潤

 紅茶に角砂糖を一つ落としよく溶けたのを見届けてから、加藤さんはカップを恐る恐る口に付けた。

「熱っ!」

「そりゃ、砂糖じゃ温度はあんまり下がりませんよ。ミルクとか入れなきゃ」

「分かってますよそんなこと」

 わざとらしく眉を顰める加藤さん。微笑ましい。多分口角が上がっている私を恨めしげに睨んで、加藤さんは「それで」とカップを置いた。

「新しいバイトのアテはあるんですか?全然慌ててないようですけど」

「ないなぁ。まあ、探せば何かありますよ。お金もひと月は問題ないですし」私のぼんやりした答えに、加藤さんはあきれたように鼻からフンと息を出した。

 喫茶ギヨメには私たち二人しか客が入っていなかった。カウンターは無人で、窓際に三つ並んだテーブル席のうち一番奥の上手い具合に斜向かいのビルの影が落ちているところに私たちが座っている。六月初旬の昼下がり、往来のまばらな人影はどれも生気がない。私たちも同じようなものだろう。

 昨日バイトをクビになった。これでもう駅前駐輪場をあくせく周ることはないと思うと気が楽だとお隣の加藤さんに言うと、だめじゃないと喫茶店に引っ張ってこられた。なぜ喫茶店なのかと聞いたら、「仕事の悩みは喫茶店か病院でするの」とだけ返ってきた。ちなみに家庭の悩みは砂場らしい。

 荒井由美の曲が微かに流れている。あまりに微かで、むしろちゃんと聞き取れないのがもどかしい。ちらりと店内を見回したものの、さっき私にアイスコーヒーを持ってきたマスターはどこへ行ったのか影もない。カウンターの虫籠の中に何かいるのに気付いたが、反射でよく見えなかった。

 ズズッと音がして、前に視線を戻す。加藤さんが眉を八の字にして紅茶を啜っていた。

「ふう……相変わらず呑気ですね。弓間さんらしくていいですけど」

「公営団地なんでね、家賃が安いのは助かります。最近何でも高いですから。ほら、夢もちょっと値上げされてたし」

「え、買ってるんですか」

「一回だけですけど。でも面白かったので、時々チェックしてます」

「ラインナップを?」

「いやだから、値段を」

 加藤さんは私を眺めて、また息をフンと鳴らす。しかしすぐに顔をムニャリと歪めると、堪えきれずに笑い出した。変な人。

「今、私のこと変だと思ったでしょ」

「うわ、何で」

「お互い様ですよ〜」くつくつと笑いながら加藤さんは紅茶を持ち上げ、「熱っ!」と言って慌ててソーサーに戻した。

 その時、私の背後でドアベルが鳴る音がした。続けて、「いらっしゃいませ」と低いマスターの声。どうやらレジ裏にいたらしい。そっと伺うと来店したのは若い男性で、実家の押入れのような店内には似合わない上物のスーツを着ている。靴音を立ててカウンター席の真ん中に座ると、長い髪を軽く撫で付け緑茶と丸ボーロを注文した。変な客。すると、「変なお客さんですね」加藤さんがそう囁くので、私はコクコクと頷くしかなかった。

「そういえば」

 仕方なく話題を変えることにした。

「うちの団地って、どの階が一番だと思います?」

 そう聞くと、加藤さんは目を丸くして、

「二階の奥さんですか!? 207号室の」

「あ、はい。『二階が一番』ってよく聞こえよがしに言ってるじゃないですか。何なら私のとこは“気”的に良くないそうです」

「それみんなよく話してるんですけど、私奥さんがそう言ってるとこ聞いたことないんですよ。基本すごく人懐っこいし……“気”って何ですか?初耳」

「何でしょね」

 加藤さんはどうやらあの人に懐かれているらしい。一方、私はあまり好かれていないよう。自分が何かしたか思い出そうとしたが、昔すれ違いざまに「いい香りですね」と言ったことくらいしか覚えていない。本当にいい香りだったのだ。ワインか何かの。

 加藤さんは不満げに口を尖らせ、ティースプーンで紅茶をかき混ぜている。

「この前もパートの帰りに会って、公園でちょっと話したんですよ。何だか家族か友達と上手くいってないとかで。それ以来ちょくちょくパート後に会うんですけど、多分私を待ってくれてるんです」

 この差。流石に気になる。

「何したの、加藤さん。素敵な香りって褒めたことあります?」

「ない……かな。そんなに覚えてないですよ」

 呆気ない迷宮入りだった。と、見つめあって小首を傾げる私たちの耳に、「プチ」という音が入った。振り向くと、先ほどの男性客が湯呑と皿を前に、カウンターの端に置いてある「ご自由にお潰し下さい」の梱包材を潰していた。加藤さんに向き直る。

「団地、そういうこともあるんですかね」

 プチ。

「まあ団地妻とか言いますし、複雑なんでしょうねぇ」

 プチ。

「あ、ところで団地といえばあれ見たことあります?星形の動く箱」

「何ですか、それ」

 プチプチプチッ。

 さっと背後に目を走らせる。変な客。コーヒーを少し飲んで言う。

「時々団地にある……いる?んですよ。昔弟が何か似たのを見たって言ってた気がするので、多分同じやつだと思うんですけど」

 ……プチ。

「ないですね。どこらへんで?」

 プチ。

「私が見たのは、B棟の通路の手前。あと、うちの窓から向かいの棟の屋上にいるのが見えたり」

 プチ。

「うーん。分からないなぁ。あ、でも変なのなら」

 プチ。

「前、ほら、二階の奥さんと公園で話した日、変な人と会いましたよ。話を売る人で——」

 ガタッ!

 驚いて首を巡らせると、男性客が半腰になって驚いたようにこちらを向いている。恐い客。あれ、と思った時には、すでに私たちのテーブルの脇に立って見下ろしていた。

「な、ん……ですか?」

 加藤さんが喉から声を絞り出す。逃げようにも退路が塞がれているかたちなので、二人とも席の隅に縮こまるしかない。私はどうしよう。取り敢えずこのコーヒーをぶっかけて……。

「待って待って、怪しいけど危ない者じゃないよ、ボクは」

 男性は、カップをむんずと掴む私を見ても特に慌てる様子もなくにこやかに宥める。

「僕はちょっとした事業をしていてね。さっき君、仕事を探しているとか夢に興味があるとか言ってなかった?」

「言ってましたけどどちらもあなたが来る前ですよ、コーヒーかけますよ」

「まあ、些細なことだよ。これくらいなら見逃してくれる。でだね、そんな君にうってつけの働き口があるんだけど」

「この状況で何言ってんですか」

 男性は困ったようにしばし唸ると、「仕方ないなぁ」とスーツのポケットをごそごそと探り始めた。「あった」と言って抜き出したのは小さな紙片。名刺だ。

「ボクはこういう者。確かにちょっと性急すぎたね、謝るよ。でも、君が気に入りそうな仕事があるのは本当だ。その番号に電話してくれればいつでも都合する」

 差し出された名刺を親指と人差し指で摘んで見やる。そこにある社名に驚いた。

「ドリームパークって、あの?で、社長?嘘でしょう」

「嘘じゃない。何なら、先にチラシとかサイトとかの番号にかけて確認してくれてもいい」

 加藤さんの方を見る。加藤さんは私の目を見ながら、訳が分からないというようにゆっくりと首を振った。男性はそんな加藤さんにも語りかける。

「もちろん、ご友人も一緒で構わない。むしろ来てほしい。もし仕事に困っていればだけどね。何しろ我が社は大体いつも人手不足——」

「それは大変ですね」

 分かりやすい棒読みで加藤さんが言う。男性は大袈裟に肩をすくめ、「ま、ゆっくり考えて」と明るく笑うと身を翻して歩いて行った。

「マスター、お勘定!」




 再び客が二人だけになった店内で、私たちはしばらく黙ってカップを上下させていた。やがてどちらも空になった頃、私は軽いため息と共に口を開いた。

「明日、電話してみようかな」

「えっ」

 反対しようと身を乗り出す加藤さんを手のひらで押し留めて、

「実際問題、私が仕事に困ってるのは事実ですし、あそこの職場環境は前から気になってたんですよ」

「でも、あんな不審者……」

「多分本物ですよ」

「何でそう言えるんです」

「勘」

「……」

 何か言いたげに加藤さんは口をもごもごと動かしたが、すぐに肩を落として椅子に深く座った。それから首を起こして私を眺める、その目にはすでに諦めたような笑みが浮かんでいた。

「それに、加藤さんと一緒に働くのも面白そうです」私が言うと、

「それは、確かに」

 加藤さんは嬉しそうに肩を揺らしたのだった。

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