弱法師
小学校の校門を出て左へ、しばらく道なりに。それから二回角を曲がると公園沿いの道路に出る。周囲を行く歩行者の顔を見るともなく見ながら、内心ではあの時のように背後から私を呼び止める声を今か今かと期待している。しかし当然そんなことはない。やがて一言も発さぬままに到着したドリームパーク本社のビルは、相変わらず周囲の一切を睥睨するかのように高さ百メートルはあろうかという威容を誇っている。道路を挟んで反対側、そこへの出入りが良く見えるコンビニのイートインスペースに座り、私はランドセルから読みかけの本を取り出した。図書館で借りた比較的新しいフランス文学。ここで放課後にとある人物を待ち始めて一週間と少し経ったが、彼は一向に現れずにいつも無為な数時間を過ごしている。店員の胡乱な眼差しが背中に刺さるのを感じながら、私は視界の上端に意識を尖らせつつページへ目を落とす。そういえば最近、ヤギに会いに行っていない。
音楽家を目指しパリへやってきた主人公がおそらくグラン・ギニョールらしい劇場へ赴いた場面に差し掛かった時、隣の椅子に高校生が二人騒々しい音を立てて座った。どうやら勉強をするようで、テーブルの上に今しがた買ったパンやペットボトルの他に参考書や筆記用具を次々と並べていく。最初は私も邪魔にならないようにと本を軽くよけていたが、彼らが鞄から雲形定規と肥後守を三セット取り出した辺りで流石に耐えかね反対側に席をひとつ移った。その時だった。
溜め息交じりにふと上げた視線の先に、一台のタクシーが停まっていた。ドアが閉まったが付近に降りた人影はないので、本社ビルを後にする社員か客が乗りこんだのだろう。
その後部の車窓にぼんやりと覗く横顔を見て、心臓が強烈に跳ねる。手元をよく見ないまま慌ててランドセルに本を押し込み、ロックもせずにコンビニから飛び出した。しかしタクシーは既に走り出しており、私が歩道の端で足を止めた時には後続車両に隠れて姿さえ見えなくなっていた。鼻息荒く車の列を見つめる私の足に、タイヤに弾かれた小石が数回跳ねてぶつかった。
十日前、夢を見た。その中で、私はある少女の枕元に立っていた。十代半ばくらいで美しい黒髪をしていたが、それが振り乱されて汗ばんだ顔にまとわりついている様はまるで少女を絡めとる網だった。平生はさぞかし端正であろう細い眉や薄い唇は苦悶に歪み、時折うめき声を絞り出すように漏らしている。眉間に深い皺を刻みしきりに寝返りを打つ様子は一見すると夢にうなされているようだが、私はなぜかそれが悪夢のためではないことを知っている。だが、明確な原因が分からない。ただ手足を震えさせる焦燥感と突き刺すような無力感だけがある。そして、その感情は私のものではない。それはこの夢の元の持ち主のものだ。
何故なら、彼女を見て私自身は——
ゆっくりと目を開ける。目の前には焼け落ちた家屋の残骸と、地面に直に置かれた二つの仏花。献花台は一昨日撤去された。かつて広田さんとその両親の暮した形跡はことごとく灰塵に帰し、おそらく形ある遺品で唯一残るのは以前赤野さんから貰ったあの破れた絵日記帳だけだろう。私の部屋の引き出しに仕舞われた広田さんの絵日記帳の内容からは、些細な家族の肖像に加えて微かな違和感が立ち現れていた。例えるならば半音だけずらされた楽曲を聞くようで、矛盾はないのに異物感が拭えない。
そもそも、なぜ私はあの日記帳を手に入れようと思ったのだったか。少し前、この場所で赤野さんがそれを持っているのを見たのは間違いなく偶然だったが、目に映った瞬間、日記帳が広田さんのものであることが直感で分かった。そして、赤野さんの勤め先がドリームパークであることに思い至って、彼を通じあの夢を見た当人や夢の中の少女まさにその人に繋がる手がかりを得られるやもと考えたのだった。咄嗟に日記帳を隠そうとした赤野さんの反応からして、それを手に入れることは赤野さんの弱みをひとつ握ることを意味していた。
一方で、絵日記帳自体に不思議と惹かれたのも否定できない。あの時感じた、我ながらその無邪気さに驚くような単純な欲望。昔、親に泉鏡花をねだった時も似た衝動に駆られたような気がする。ともあれ、日記帳はそうして譲ってもらった。翌日からより親密になるべく雑談を重ね、赤野さんが職場の話をしやすいよう舞台を整えようとした。そして、赤野さんは私が待ち伏せていることを知りながらも帰路を変えることはなかった。まるで拓かれた道を行くように順調だった。あまり好きな言葉ではないが、このようにして人間は運命という概念を思い付いたのだろう。
「真奈ちゃん、どうかしたのかい」
突然の声に驚いて我に帰る。目の前には、いつの間に現れたのか火事の跡を背にして赤野さんが立っていた。ドリームパーク本社勤務の総務課長で、来年で勤続十年になると聞く。赤野さんはいつも六時二十分から六時半の間にここを通り家へ帰るので、私はかれこれ二十分以上も立ち尽くしていたらしい。連日の立ち話の甲斐もあり、かなり懐柔は進んでいる所感がある。そしてあの人がドリームパーク本社に再び現れた今日こそ、その成果を上げなければならない。前回と違い正規の手段で夢を買った今回なら、あの人の顧客情報は本社に残されたはずなのだから。
「ああ、赤野さん。いえ、少し考え事をしていただけです。今日もお疲れ様でした」
「ん……そうか。真奈ちゃんも学校お疲れ様」
「はい、ありがとうございます」微笑み、小首を傾げる傍らで考える。聞くべきことを自然に聞き出す道筋を。しかしその契機は先方が与えてくれた。
「今日窓口にあのお爺さんが来てたけど、君の祖父なんだっけ」
赤野さんが乾いた笑みを浮かべる。疲れ果てた脳に私の挙動が染み入っているのが分かる。これまでの分も含んでさらに重みを増しているだろう。ならばそこを撫でるだけでいい。
私は敢えて悪戯っぽく言う。
「そうじゃないんです。でも、大切な友達……言ってしまいますが、だからこの前あの方と私で本社ビルに入ったのは実はルール違反なんです。内緒ですよ?」
「ああ、それは当然。だけど、珍しいね。こんなに歳の差のある友達って。小学一年生と、あんな……」
「気になりますか?でも、私たちだってもうお友達でしょう?」
「それは……そう、だね」
赤野さんは気まずそうに目を逸らす。分かりやすく、それゆえにいじらしい。さあ、あなたが望む言葉を紡ごう。
「でも、実のところあの方とはあの日初めてお会いして、それきりなんです。だから、お友達としては赤野さんのほうが深いお付き合いになりますね」
ほら、あなたの口元が嬉しそうに緩む。目尻には安心と、微かな怯え。もう一声か。
「ふふ。深い、だなんて少し自惚れが過ぎましたね。まだちゃんと話し始めて数日、これからですもの」
「あ……ああ!うん、そうだね」
「ええ。私にとって、赤野さんとのこのひと時は安らぎなんです。その……お分かりと思いますが、私はあまり人好きしないので、学校に友人はあまりいません。唯一と言ってもいいのが広田さんでしたが……」
俯く私に赤野さんはゆっくりと歩み寄り、優しく語りかける。
「大丈夫かい?えっと……僕なんかでよければ、こうやっていつでも話し相手になるから」
「はい……ありがとうございます」
やはり赤野さんは易しい。素直な人なのだろう、その心の機微を隠す気配もなく是が非でも私に寄り添おうとする。今なら、多少のことで私を見限ることはないはず。であればもう機は熟した。
私はぱっと顔を晴らし、さも天啓が降ったがごとく赤野さんを仰ぐ。面食らったように眉を上げる赤野さんの手を両手で握り、
「そうです、赤野さんはドリームパークにお勤めでしたよね!でしたら、ひとつお願いを聞いて頂けませんか?」
赤野さんは怪訝そうに首を曲げる。しかし私の瞳に期待と信頼を見出したか、すぐに顔には余裕のある微笑みが戻った。
「お願いって?」
「今日赤野さんの会社にあのお爺さんがいらっしゃったのでしょう?でしたら、あの方のお名前を教えて頂きたいのです」
「それは……どうして?友達なら……」
「実は、初めてお会いしたその日に仲良くなりはしたのですが、下の名前を聞いただけで姓の方は知らないままなのです。出来るのならまたお話をと思うものの、こればかりではどうしようもなくて……」
悔しさを滲ませるように指に力を込めると、それに包まれた赤野さんの手が小さく震えた。困ったような不安げな手のひら。では、それを晴らしてあげねば。
「勿論、赤野さんのお立場もありますし、住所までは流石に聞けません。プライバシーは当然のこと、自ら会いに行けるとも限らないのですから。それでも、数少ない私の友達のことは、少しでも知りたいのです。頼めるのは、赤野さんくらいしか……」
「名前だけ、か」
「あ……でも」私は俯く。「やっぱりご迷惑です、よね……ええ、そうです。会社に知られると良くないでしょうし、私などのためにそんな危険を犯させては——」
「分かった」
赤野さんは私の手を握り返し、大きく頷く。これでいい。私を安心させようと大袈裟なほど口角を上げる赤野さんに私は軽く涙を溜めた目を向けて、細い声で「ありがとうございます」と呟いた。そして赤野さんの手を改めて握ると、そっと引き下げてその顔を近寄せ、囁く。
「楽しみにお待ちしています」
翌日、私は再び赤野さんと火事跡の前で会った。あの人は
◆
気がつくと外にいた。場所がよくわからなくて近くにあったかん板を見上げると読めはしないけれど見おぼえのあるかたちの漢字があって、ここがとなり町だと知った。となりというのは、わたしの住んでいる町のとなりということ。
ちょっとあせる。学校では、こどもだけで校区の外にでてはいけないと言われていたから。そもそも、どうしてわたしはここにいるんだろう。今朝のことは覚えている。土曜日だから、お父さんもお母さんも家にいた。それで、友だちと約束があるとうそをついて早くに家をでた。そして……それから、どうしたんだったっけ。
あたりを見まわす。後ろには、大きな橋。わたしの立っている道と車のための広めの道路がずっと向こうまでつづいている。前にも道があってとなり町のおくへのびていた。とりあえず、戻ったほうがいいかもしれない。ここでなくても時間をつぶせる場所は巻川市にたくさんあるし、わたしもなんだか悪いことをしているようでそわそわする。
でも、と前を見た。どうせいつもの場所にあるのはいつものものだけ。それに、してはダメと言われていることは、つまりしたらワクワクするということでもある。というか、もうしてる。だからちょっとワクワクしてる。ばれないだろうか。誰とも知り合いに会わなければ、たぶん。何よりも、こっちのとなり町は反対がわのよりもいなかだから、お父さんもお母さんもきっと来ない。見つかることはない。
もういちどふり返って橋の向こうがわをながめる。空が広いぶん植物がきれいなこのとなり町とも、空がせまいぶんにぎやかなもういっぽうのとなり町ともちがって、わたしたちの町は空が広いのにみんなつかれてしずかだ。そのなかにいると、何もしていないことがふつうでそうして元気をすり減らすのがただしいような気がしてくる。だから、わたしはあの町が好きじゃない。
決めた。わたしはまっすぐ歩きはじめた。どうしてこっちへ来たのかなんて考えない。来たからにはどんどん入ってやろう。まずはこの道を、行けるところまで。
……そうは言っても、わたしはまだこどもなのだった。なので、すぐにつかれてしまった。あそこまで歩いたらやすもうと決めてどうにかたどり着いたのは、ちゅう車場のすごく広いコンビニ。ぜんぜん車がとまっていなくて、せっかくなのにもったいないなと思う。でも、そのおかげでタイヤを止めるブロックがいくつも空いていたから、わたしはその上にすわれた。
ちょっとおちついてみれば見えるものぜんぶが知らないものばかりで、わたしは今ひとりで遠くに来てるんだとしみじみ感じた。ただ、いつも二階のわたしの部屋のまどからずっと向こうに見えていた山がおどろくほど近くにあった。
ふと、目の前をよこぎっていく女の人と目があう。その人は少しふしぎそうな顔をしたけれど、そのまま行ってしまった。きっと、わたしのようなこどもがどうしてひとりでいるのか考えて、コンビニに買いものに行った親をそこで待ってるのだと思ったんだろう。ちがう。わたしはひとりだ。ひとりでここまでやってきたのだ。ひとりだけで……遠くまで。
急に、むねのあたりが気持ちわるくなった。まるで、ジャングルジムのてっぺんで棒の上に立ち上がった時のようなこわさ。そう、こわさだ。わたしはこわい。さっきまでのワクワクはいつのまにかどこかへ消えてしまって、気づけばひとりぼっちでわたしはほうりだされてしまっていた。
どうしよう。ここには知っているひとがだれもいない。お金もないし、たよれない。立ち上がってあちこちを見てみても、あるのはそっぽを向いてだまりこんでいる家と電信柱だけ。山なんか、わたしをかんさつするようにニヤニヤながめているかんじ。
「ねぇきみ、大丈夫?」
とつぜん声が聞こえてふり返る。コンビニから、店員さんらしいひとが顔をのぞかせていた。そうだ、このひとにたのめば——
「お母さんかお父さんは?」
いや、だめだ。このひとはわたしの家に電話するかもしれない。それか、けいさつに。どちらにしても、わたしがとなり町へかってに来ていたことがばれてしまう。
逃げなきゃ。
わたしはコンビニの駐車場をとびだして、道路を走った。となり町の、もっとおくのほうへ。後ろでだれかが大声をだした。さっきのコンビニのひとかもしれない。でもつかまってはいけないから、わたしは角をまがってほそい道をさらに走った。走って、まがって、走って、走って、こけた。
いつのまにかおでこが地面についていて、それに気づいたとたんにあちこちがいたくなった。いたくて、ひざと手を見たら血がでていて、もう動けないと思った。それで、泣いた。声は出したくなかったのに、どうしても出てしまった。いたい。こわい。さみしい。わたしは立つことをあきらめて、そばのへいのしたで足をかかえてすわりこんだ。足と足のあいだにあたまを入れて、できるだけ小さくなるように丸くなって泣いていた。
「……大丈夫?」
だれかがまたわたしに声をかけた。でも、もう反応したくない。はやくどこか行ってほしい。
「えっと……ケガ、してるよ?」
知ってる。わたしがいちばんいたいんだから。うるさいな……あれ?
ふと、その声をどこかで聞いたことがある気がした。どこだっけ、思い出せないけど、でもなにか大事な……
わたしはゆっくり顔を上げて、目のまえでしゃがんでいるひとの心配そうな顔を見た。高校生くらいのお姉さんが、じっとわたしの目をのぞいている。そのしゅん間。
「あ……う……うぁぁぁぁん!!」
さっきとはくらべものにならないくらい、どうしようもなくなみだがあふれでてきた。声もやっぱりおさえれなかった。
「え!?あ……え!?」
あたふたとするそのひとのからだに、わたしはだきついた。お姉さんはちょっとのあいだどうしたらいいのか迷うようにごそごそしていたけれど、やがてそっとわたしのあたまに手をおいた。
「大丈夫だよ……痛いよね……こわかったね……」
やさしくあたまをなでてくれるお姉さんに、わたしはそうじゃないことを伝えたかった。でも、まだ声はうまくだせなくて泣き声だけがかってにながれでていた。
そのとき、わたしはいたかったんじゃない。こわかったのでもない。わたしはただとにかく、わけもわからずに——うれしかったのだ。
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