規制線
会社からの帰路、いつも取り留めのないことを考える。多分一番多いのはその日の夕飯、その次は翌日の予定とか、天気とか。定時である六時に会社を出て、三十分ほど歩く。特に道順を意識せずとも、そうやっていろいろと考えながら目の前の景色を見るともなしに見つつ足を動かすと、いつの間にか自宅の前に立っている。いわゆる閑静な住宅街のただ中、灯りの漏れる玄関脇の小窓からはテレビの音が微かに聞こえ、小さな庭に面した大きなガラス戸の向こうには見慣れたリビングが広がっている。そして私は数秒前まで考えていたことをすっかり忘れて、ソファの柔らかな抱擁だけを思い浮かべながら鍵を回す。小気味良い手応え。靴を脱ごうと上がり框に座って気付く心地よい足の疲れ。リビングの扉と、私を迎える妻の声。それが会社を出てからの私の日常だった。
そこにもう一つの習慣のようなものが入り込んだのは、一週間ほど前のことだ。つい、とある家の前で足を止めてしまう。いや、正しくは家だったものだ。それはすでに焼け落ち、道路に面して張り巡らされた規制テープの奥で炭化した木材が傾いでいる。ここにはおよそひと月前まで親子三人が暮していた。彼らを飲み込んだ火事の直後と、そこから見つかった父親の骨に不自然な損傷が見つかってからの二回ほどは人やカメラで賑わったが、このところはようやく落ち着いて時折花を手向ける姿がちらほら見られるだけだ。
近所での出火と、一家の焼死。それは確かに私にも多少の野次馬根性を自覚させたが、それでも最初の頃は流石に不謹慎だろうと敢えて立ち止まることはなかった。むしろ、いざ歩き始めるとそのことは忘れてまっすぐ会社と家を往復していたように思う。火事の前夜に拾った破れた絵日記帳の内容もあって、恐らく関わり合いになるのを無意識的に避けていたのだろう。その日記帳は火事で亡くなった子供のものらしかったが、なぜそれが路上に破り捨てられていたのか、そしてその内容をどう解釈したものか、私は考えないようにしていた。触らぬ神に祟りなし。絵日記帳は細かく切って妻が捨てるチラシの山に紛れ込ませて処分するつもりだった。だが近所というだけあって仮にも顔を知っている故人の遺品を切り刻むというのはどうにも気が進まず、会社用の鞄に潜ませたまま次々と日々が過ぎていく。
そして先週の月曜日、会社を出て気が付いたらそこに立っていた。常ならば私の足はわが家の前まで勝手に動いていたはずだが、その日はなぜか献花台の隣でぴたりと止まった。思えば、私が火事以降にその家の様相をじっくり眺めるのはこれが初めてのことだった。かつて玄関があった辺りは崩れ落ちた屋根の残骸に埋もれ、骨組みだけになった黒焦げの車は火力の激しさを物語っている。辛うじて家の名残と言えるのは直立したままの数本の柱だが、当然というべきかそれも焼け焦げて一面の黒に溶け込んでいた。これほどの火勢ならば近隣の数軒に燃え広がっても不思議ではないところ、この家だけで済んだというのは申し訳ないが不幸中の幸いだったのだろう。風に揺れる黄色のテープと微かな煤の匂いが、現実味のない光景と私の生活をどうにか繋いでいる。供えられた花を見下ろすと一部には手紙が添えられていて、私のかさついた感性を苛むように細い文字が震えていた。
唐突に、日記帳をそこに並べようと閃いた。何か理由があってのことではない、ただの思い付きだった。しかしその時の私には、そうすることが日記帳の処分も私のやるせない後ろめたさも同時に解決してくれる妙案に思えたのだった。実際のところは、私が恐れていた事件への関与の疑念をその日記帳を通りがかった人に抱かせるという可能性もあっただろう。それでも焼けた家と純白の献花台を前にした私はそんな危険に気付くことなく、何なら自分の閃きに酔いしれるようにして意気揚々と鞄に手を突っ込んでいた。
だが、日記帳を半分ほど引き出した時、奇妙な音が聞こえた気がして私はびくりと身を強張らせた。動物の声、それも牛のような、重く間延びした声に聞こえた。驚いて周囲を見渡すが、当然このような町中に牛はいない。いても猫か羊か馬だが、どれも最近はめっきり姿を見せない。その代わり、いつの間にか道路を挟んで私の真後ろに女の子が立っていた。見覚えのある顔で、ややあって時々朝の通勤時に見かけることがある近所の子だと気が付いた。最近どこか別の場所でも見た気がしたものの、すぐには思い出せそうもなかった。確か今年から小学生。そういえば妻が近所の家からよく夫婦の喧嘩の声が聞こえると不安げに話していたが、そこの子供だった気がする。どうしてこんな時間にまだ家に帰っていないのかと疑問が浮かんだものの、それよりも冷静になってみればこの絵日記帳を持っているところを見られる危うさに思い至って、何気ないふうを装いながらゆっくりと鞄に手を戻した。ところが、その子は私の顔に一切目線を向けることもなくただ私の鞄を凝視し続けている。沈黙でより鋭さを増すようなその眼差しに耐えかねた私は、退路を探すようにその子に話しかけた。
「ええと、
するとようやくその子は私の顔を見上げて、「こんばんは」と言葉を発した。その声は凛として大人びていたが、どこか浮世離れした揺らぎのようなものも孕んでいる。私の脳裏に、随分前にアニメーション映画で見た往年の大女優の姿が立ち現れた。彼女は確か、最後に空の彼方へと飛び立ったのだったか。そう思ったのも束の間、今度は一転して顔を穏やかにほころばせ、その子は可愛らしく首を傾げた。
「
「え……っと、うん。ありがとうね」
その急な変貌に驚きを隠せなかったが、そんな私の様子を知ってか知らずか彼女は、
「赤野さんも献花されたんですね。あの子もあの子の御両親も、きっと喜んでいます……ああ、すみません、変に口出しして。ここに住んでいた子は私の友達だったので、あの子がそうやってみんなに悼んでもらえていると思うと私も心が休まるんですよ」
柔らかな笑みを崩すことなく、女の子はさらさらと言葉を紡いでいく。それがあまりに自然で優しく響くために、私はその後何を言われたのか一瞬理解できなかった。
「花も手紙もこんなに……ところで、今手に持たれていたのは何でしょう。子供用のノートのように見えましたが、赤野さんもお手紙を書いてくださったんですか?」
「いや、これは——」と言いかけて、ハッとして慌てて口をつぐんだ。危ない、私は今何を馬鹿正直に言おうとしていた。もしここで私が日記帳を持っていることを話してしまえば、それこそ間違いなく私と火事との関係が疑われることになる。ただ拾っただけであることをちゃんと伝えれば疑いも晴れるとはいえ、それまでに家族や会社に迷惑をかけてしまうのは必定だ。脇の下にじっとりとした汗が流れる。そういえばさっきから私たち以外に人影を見かけないが、普段のこの時間ここはもう少し人通りがあった気がする。折しも夕焼けが空気を橙色に染め上げている。家の陰に沈んだ少女は、ランドセルのベルトを片手で撫でながら囁くように言う。
「私にとって、あの子は唯一と言っていいほどの友達でした。それなのに、あの子が遠くへ行ってしまってから、私はあの子との思い出になるものを何も持っていないことに気付いたんです。交換した消しゴムとか一緒に買ったメモ帳とか、そういうものを何も。それでなんですけど……こんなことを言うのは本当にあの子に対しても不謹慎だとは思うんですけど、それでも……誰かがあの子を想って書いた文章なら、私もあの子を忘れずずっとそばに感じられるように思うんです。お恥ずかしい話ですが、私の文章はどうにも硬くって、他人行儀なので。ですが、そこに皆さんが供えて下さったのを勝手に持っていくわけにもいきません。なので……」
恥じるように目を伏せ、私の反応を伺う少女。その姿はいやに大人びていて、艶のようなものさえ感じた。最近の子供は誰もこうなのだろうか。そういうものかもしれない。近頃は身長やスタイルが変わってきているとテレビでも言っていた。私は軽く靄のかかった頭で得体の知れない悪寒を押し殺し、とにかくこの場を後にするために鞄を開いた。
「実は、これは手紙じゃなくってね——」
それからは、ほとんど毎日あの家の前で立ち止まってしまう。心配の種だった絵日記帳はすでにあの子に渡したにもかかわらず、なぜか気付くと卒塔婆のような柱の成れの果てを見上げている。そしてややくたびれてきた黄色いテープに背を向けると、往々にしてあの子が立っているのだった。私たちはそこで、いつも取り留めのないことを話す。あの子は楠木真奈と名乗った。真奈ちゃんは聞き上手で、つい私ばかりが話してしまう。妻のことや、仕事のこと。「私のこと、あの時見てらっしゃいましたよね」と言われて、ようやく彼女を以前勤め先のロビーで見かけたことを思い出した。確か、見知らぬ老人と共に中学生以下は入れないはずの本社ビルにやって来ていた。
「あれは君のお祖父さん?」
そう尋ねると、真奈ちゃんは「ええ、そんな方です」といたずらっぽく笑った。
数分だけ話して私たちは別れる。大体私が先に立ち去り、曲がり角で互いに軽く頭を下げる。自宅に到着すると、その先で私を待っている閉じた空間を思って私は少し安堵する。別段近所の子供と話してやましいことなどないのだが、真奈ちゃんと話していると不意に妻の顔が浮かぶことがあるのだ。そんな時私の脳裏でこちらを見つめる妻はいつも、咎めるように細めた瞳をぬめらしている。
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