寧日
水無月とは、水が無いという意味ではないそうです。この無という字は“の”と同じ意味で、水無月という名はむしろ水との関りの多い期間を表すのだとか。昔の人はどうしてこうも紛らわしい漢字を当てたのでしょう。
とはいえ、今年の六月は水の無い月になりそうです。天気予報ではしばらく晴れ。気温ばかりが梅雨に先走ってぐんぐん上がっていくとの予測でした。それは、少なくとも今日については大正解です。午前だけとはいえようやく学校が終わったという安心感を、道路に逃げ水を作り出している陽光は早くも干上がらせてしまいました。
朝の風が冷たかったので冬用の長袖シャツで行ったのが間違いでした。思えば、こんな失敗をもう何年繰り返しているのでしょうか。自分の学習能力の低さにうんざりしながら腕をまくりましたが、悲しいくらいに無風で大した効果はありませんでした。少しはしたないとは思いつつも仕方なく襟をぱたぱたさせて、つかの間の涼しさに一息つきます。今日帰ったらまずは夏服をクローゼットから出しましょう。
期限の近い課題のことを考えてほんのりと焦りを覚えているうちに、いつの間にかコンビニの横まで来ていました。田舎というほどでもありませんがこの街はいわゆる郊外なので、駐車場はやたらに広く満車になったところは見たことがありません。今日も店舗の前にこそ数台が停まっているものの、それ以外はがらんとして熱そうなアスファルトが晒されています。
その時のことです。
「だから無理だって言ってるでしょ」
「やっぱ無理かぁ」
停められた車の陰から、二人の男性の話し声が聞こえてきます。その方に目を向けたのは本当にただの気まぐれです。でも、もしかしたらその声に少し聞き覚えがあったからかもしれません。話していたのは、声から予想していた通りまだ若い人たちでした。背の高い人と中背くらいの人の二人組で、どうやら軽い言い争いをしているようでした。
不意に、背の高い方の男性がふと動かした目とわたしの目が合いました。すると途端その人は目を見開き、叫びました。
「いたー!」
そして驚いて振り返る中背の方の男性も、わたしを見ると「嘘でしょ!」と声を上げます。
その予想外の反応にわたしはとっさに身の危険を感じて逃げ出したくなりましたが、同時に何かが頭に引っかかってどうにかその場に留まりました。わたしはやはり、その声を知っているのです。背の高い男性の、よく通る涼やかな声を。
改めてこちらを見つめる二人の顔をおずおずと眺めます。背の高くない方の男性はよく分かりませんが、その奥から覗くもう一人の顔にはなんだか既視感があります。やがてその人が「覚えてるかな、ほら、京都で」と頭を掻いた時、わたしはようやく思い出しました。
「……あ!」
そうでした。その人は、数週間前の修学旅行で迷子になったわたしを助けてくれた人でした。あの時のわたしはあんまり辺りに人が多いのでほとんど俯いていて、その顔をじっくり見られていなかったのです。まさかお世話になった人の顔を全然覚えていなかったとは、また自分が情けなくなりました。
でも、その人がなぜこんなところにいるのでしょう。京都は近くありません。わたしの顔に浮かんだその疑問に気がついたのでしょうか、案内をしてくれたお兄さんが「えっと」と何か言おうとした時、中背の男性が突然つかつかと歩み寄ってきました。あまりに急なことで、わたしは凍りついたまま目の前で真面目な顔をしている男性を凝視するしかありませんでした。
「驚かせてすみません。僕は
弓間さんというらしいその方は、そう言うとわたしの顔をじっと見つめます。正直わたしは訳が分からず、「何だか危なそうな人だぞ?」と思うばかりでどうにも体が動きません。
「あほか」
そんなわたしから、三刀屋さんが弓間さんを引き剥がしてぺしりと頭をはたきました。三刀屋さんは続けて、
「お前なぁ、今の人が見てたら即通報だぞ。見ろ、怯えてるじゃねぇか」
そしてわたしの方を向くと、「ごめん、びっくりしたよな。こいつは捕まえとくから安心して」と申し訳なさそうに笑います。三刀屋さんに襟首を掴まれて猫のように吊り上げられている弓間さんも、「すみませんでした」と首を垂れました。
わたしはそれを見て、一応逃げ道は考えつつも取り敢えず力を抜くことにしました。三刀屋さんの人の良さは記憶にあります。嫌な予感はしないでもないですが、せっかく恩人にまた会えたのです。構わず帰るというのはむしろ失礼でしょう。
「気にしないでください。ちょっと驚いただけですから」
それから三刀屋さんの顔を見上げると、
「この前はありがとうございました。最後はちゃんとしたお礼も言えなくって……」
「いいよ、こちらこそ怖がらせてごめん。隣町に用があってさ、休んでたら偶然君を見つけて。足を止めさせて迷惑だったら俺たちもう行くけど……」
わたしは「大丈夫ですよ」と答えつつ、ゆっくりと落ち着いていく自分の頭を感じて安心していました。二人を目の前にしてまた一瞬ぞわりとしましたが、もう抑えられる程度です。
すると今度は、先程弓間さんが言った「気になったこと」が気掛かりになって来ました。京都での三刀屋さんとのやりとりに何かおかしな点があったでしょうか。頑張って思い出そうとしましたが、あの時はいろいろと必死だったので自分が何を喋ったかなど記憶にありません。
わたしは不安が杞憂であることを早く確かめるために、「それで……」とこちらから聞くことにしました。
「弓間さんが気になったことって何でしょう。失礼があったなら謝りますが……」
弓間さんに尋ねると、彼は再び表情を固くしてこちらを見つめます。何か言いにくいことなのかもしれません。不安が大きくなるのが分かります。弓間さんは束の間ためらうように目を泳がせましたが、すぐに意を決した様子で口を開きました。
「不躾なことは承知で聞きます。あなたは何かの……トラブルに巻き込まれていませんか?それも、犯罪とか、人にはあまり相談できないような」
それを聞いた時のわたしの顔には、それこそ『顔に書いてある』という言葉がそっくり当てはまるくらいに分かりやすく驚愕が浮かんでいたことでしょう。なぜそれを知っているのか、と。これまでとは違う、粘ついた冷たい汗が流れ出た気がします。当然、弓間さんと三刀屋さんはわたしの表情を見逃しません。二人はちらりと互いの目を見て何かを確信したようでした。弓間さんが言います。
「やっぱり、何かに巻き込まれているんですね……?」
でも、どうして分かったのか、それが皆目見当も付きません。いくら何でもわたしが自分の口で言うはずはありませんから、どこか別のところから辿り着いたということになります。もしも本当に全てお見通しなら、すぐにでもそれを他言しないよう釘を刺さなければ。そして何より、この人たちの身も危ない——頭の中で何かが蠢くかのように、わたしの思考はぐしゃぐしゃに掻き乱されていました。
辛うじてわたしが口に出せたのは、「どうしてそう思ったんですか?」というか細く震えた言葉だけでした。ところが、これに対する弓間さんの淡々とした答えを聞くうち、わたしはまた別の驚きで口をあんぐりと開けることになりました。
弓間さんは、本当に見事な推理でわたしの苦境という結論を導いていたのです。わたしの言動と周囲の状況。ほんの些細な物事を手がかりにしたその精度は、普通なら間違いないと断言できるほどのものだったでしょう。でも、違ったのです。そうです。弓間さんの推理は正しくありませんでした。
「だから、何か力になれることはないかなと思って……どうしました?」
知らず知らずのうちにわたしは安心して頬を緩めていたようです。はっとして頭を振り、出来るだけ声音をなだめて謝ります。
「すみません、ご心配をおかけしてしまって。大丈夫、そんなことはありませんから」
本当にわたしは犯罪になんて巻き込まれていません。学校の人にスマホを持っていることを隠しているのは言い当てていて微かに感動さえしましたが、その本当の理由は予想だにしていないようです。何しろ、わたしのそれは前提からして“普通ではない”のですから。
弓間さんも三刀屋さんも、わたしの言葉を素直には受け入れられないようでした。無理もないことです。さっきはあれほど狼狽を見せてしまったのです。
「無理に話さなくていい。何もないのならそれでいいんだ。でももし困ってることがあるんなら、取り返しがつかなくなる前に話くらいは聞ける」
三刀屋さんはそう言って穏やかに微笑みました。一方の弓間さんもそれに頷きつつ、「詮索して不愉快にさせたのなら、改めて謝ります」と頭を下げてくれます。それを慌てて制しながら、わたしは徐々に焦りを感じ始めていました。少し話し過ぎたように思うのです。たとえ今は真相を掴んでいなくても、弓間さんは今回のことからさえ何かを探り当てるでしょう。そうなっては彼らとその周囲に想像もできないほどの迷惑をもたらしてしまいます。
わたしは申し訳なさに背を向けるように「ありがとうございます。でも、本当に何もないですよ。それでは」と早口に言うと、その場を立ち去ろうとしました。不自然な振舞いであることは承知していましたが、背に腹は代えられません。そこに、三刀屋さんが「ああ、あと一つ」と声をかけました。
「……何ですか?」
びくびくと振り返ったわたしに、三刀屋さんはまたあの優しい笑みを浮かべて、
「京都、楽しかった?」
「……何というか、素晴らしい新世界、って感じでした」
きょとんとする二人に、わたしは微笑んで言います。
「吉田神社、ひっそりしてて好きでした」
それから小さく会釈して、あとは振り返ることなく足早に歩き続けました。後ろから二人の会話の端々が少しだけ聞こえましたが、詳しい内容はよく分かりません。ただ、「怖がらせた」「悪いことをした」という二つは聞き取れたので、あの二人が誠実な方だというのは間違いないでしょう。
二人を疑う訳ではないですが、念のためいつも曲がるところより一つ手前の角で道を曲がりました。しばし進みさらにもう一つ曲がる直前に振り返ると、隣町に向かう車の窓に三刀屋さんの顔が見えた気がしました。
家に着いて時計を見ると、普段よりも十分以上帰宅までにかかっていました。汗だくになった冬服のまま、自室に入って夏服を引っ張り出します。リビングの方からお爺ちゃんの「帰ってたのかぁ、おかえりぃ」という声が聞こえて、わたしも大声で「ただいまぁ」と叫び返しました。
「今日もお母さん遅いからわたしが作るけど、夕飯の希望あれば聞いとくよ?」
私服に着替えてリビングを覗くと、お爺ちゃんがクロスワードに視線を落としたまま「じゃあ、肉じゃが」と言います。「了解」とだけ答えて買い物かばんを持つと庭に降り、真っ黒な犬のジュナに散歩用リードを付けて散歩兼買い物に出かけました。
わたしの住む街はモノレールの終着駅を中心に発達した郊外の新興住宅街で、新しい宅地の建物はどれも無機質な白い箱のようです。とはいえ周辺には昔からある区画も残っています。その一つに古びた我が家も建っていて、まるで雪と泥の境目のように真っ白な家々の端に滲んで沈んでいます。それでもわたしはこの家が好きです。この街も、この街の人々も好きなのです。
「また悩んでおるな」
周りに人がいないのをいいことに、ジュナが言います。
「別に……何でもないよ」
わたしは強がって平静を振る舞いますが、ジュナにはどうせ全てお見通しなのです。わたしの反応にジュナは「ふん」と鼻を鳴らし、
「あの二人、気をつけろよ」
「え?」
その時ちょうど前の角から自転車が現れ、ジュナは黙ってしまいました。わたしも聞くに聞けずそのままスーパーに着くまで互いに何も言いませんでした。
自転車置き場の横のポールにジュナのリードをくくり付け入口に向かおうとすると、ジュナが「言うなよ」と囁きました。
「分かってるよ」
わたしも囁き返します。わたしは深呼吸して頭を軽く振ると、お客さんでごった返すスーパーに入っていきました。今日は肉じゃがです。じゃがいも、じゃがいも。
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