揺籃

 夢の中で、彼女は悶えていた。何が苦しいのか辛いのか、私には全く分からない。分からなくてもいいと思った。ただそうあるだけで、彼女は私を満たしていった。

 そうして私は彼女を知った。




 いつの間にか、水は私が替えることになっていた。

 広田ひろたさんと特別仲が良かった訳ではない。別段不仲だったわけでもないが、交友関係の広い彼女にとって私はただのいちクラスメートに過ぎなかっただろうし、私からしてもよく話しかけてきてくれる少女以上のものではなかった。確かに、我がことながら小学校一年生らしからぬ本を読んでいる私に入学後最初に話しかけたのは彼女で、その時には少し驚きと共に感心もしたものの、会話の頻度自体は他の子よりも少ないくらいではなかったか。それなのに気付けばこの役割を私が担っている。むしろ皆がそれを私に譲っているようにさえ見える。大方、広田さんは私の唯一の友達だから私も酷く悲しんでいるに違いないと思われているのだろう。だが、私があの日すぐに水を替えたのは花が萎れるのが勿体なかったからだ。とはいえ、私の胸中がどう察せられようが関係はない。水を替えれば花が長持ちするのは事実で、それを誰がやろうが問題ない。

 広田美帆みほは二週間前に死んだ。家が焼けたと聞いたが、小耳に挟んだ噂では母親が放火したとも。真相はどうあれ、以来私が学校で口を開くのは先生に当てられた時、音楽の授業で歌う時、そして下校前にヤギに話しかける時だけになった。

 ヤギがいるのは保健室裏の小さな空き地で、四メートル四方ほどの囲いが設けてある。ヤギの名前はブランケットといった。新入生のための学校案内でそれを知った時、なんて絶妙に趣味の悪い名を付けられたものだと思ったが、新一年生たちが何をしても微動だにしないその姿にやがて得も言われぬ親しみを感じた。その日、下校する前に保健室裏を覗くと誰もいなかった。何しろヤギだ、飽きてしまえば見向きもされなくなる。それから放課後にほぼ毎日彼女のもとを訪れては、クラスでロックバンドのが流行っているだの私の読んでいる『ボリス・ゴドゥノフ』がどこまで進んだだの毒にも薬にもならないことを聞かせている。勿論、ヤギが理解しているわけがない。私が何を話しても私のことをどうも思わない、そのことが心地よいのだ。

 五限目後の学級会が終わってブランケットのところへ行くと、珍しく彼女は近付いて来る私の方に顔を向けた。思わず立ち止まった私の腹の辺りを、ヤギらしい冷たく神秘的な目で見つめている。しかししばらく待ってみてもそれ以上何をするでもないようなので、私はいつものように囲いに近づいてブランケットに話しかけた。

「珍しいね。私のことを覚えてくれたのかな」

「……」

「それとも、お腹に何か付いてる?見たところ……何もないけど」

 ブランケットからの返事はないが、私の腹に据えていた視線を顔まで上げて、微かに目を細めた。横に長い瞳孔はまるでこちらを全て見透かしているかのように揺らぎもしない。私もブランケットの目を正面から見つめ返す。瞳孔が今にも開閉を始めて、口の如く言葉を紡ぎ出すような気がした。

 瞬間、嫌な記憶が蘇った。私の両親を壊した、他ならぬ両親の言葉。あれからずっと、彼らの言うことが素直に受け取れない。つい瞼を強く閉じてしまい、下らないことを思い出すなと自分に言い聞かせてようやく落ち着いた。ため息交じりに再び目を開くと、すでにブランケットは頭を下げて囲いの根元の草を食べていた。その様子に不思議と私の反応を面白がっているような気配を感じて、「でも、囲いの外にいるぶん私の方がましだよ」と強がってみた。ブランケットは無反応で、食いちぎられた下草がぶちぶちと小気味のいい音を立てた。

 下校途中、公園横の路上で「もし」と声を掛けられた。深みのある錆声にどきりとしつつ振り返ると、お爺さんが一人、少しでも愛想を良くしようとしたのか歪な微笑みを浮かべて立っていたが、悲しいかなそれが余計に皺の深い顔を不気味に見せている。咄嗟に半歩下がった私を見て、お爺さんは「ああ、ごめんねぇ!」と言いながら軽く両手を挙げて私と距離を取った。

 五、六歩の間を空けて、お爺さんは続ける。

「驚かせてごめんねぇ、ちょっと道を聞きたくてね……」

「……道、ですか?」

「うん……ああ、案内までは大丈夫。行き方だけ教えてもらえれば嬉しくって」

 気を鎮め、改めてお爺さんの姿を眺める。還暦はとうに越えているであろうかなり細い体に糊の利いたシャツを着て、脇には薄いがひと目で良いものと分かる鞄を下げている。歳からしてサラリーマンではないだろうが、旅行客というわけでもなさそうだ。とはいえ、道を聞くだけだというのなら素性は敢えて詮索するものではない。

 私は笑顔を作って頷く。

「ええ、いいですよ。どちらへ行かれるんですか?」

 私のその言葉にお爺さんはほっとしたのか、今度は本物らしい安心した笑みを見せた。

「良かった。ええと、ドリームパークというところで」

「ああ……あの夢を売り買いするところ。それなら、この道をまっすぐ進むと片側二車線の広い道路とぶつかるんですが、そこを右に曲がってすぐです。市民体育館の二つ、三つ隣にあります」

 私の説明をぶつぶつと繰り返し軽く頷くと、お爺さんは「ありがとうございます」と満足そうに言う。それを見て私も安心したが、お爺さんの目的地については少し思うところがあった。

「あの、よろしければ案内もしましょうか」

 私の申し出に、お爺さんは驚くとともに恐縮したようだった。

「え、いやいや。そんなにしてもらわなくても大丈夫だよ」

「気にしないでください。私も以前から興味があったんです、ドリームパーク」

 本心だ。ドリームパークは夢の売買を行う会社で、お爺さんが向かおうとしている本社では営業時間中ならいつでも客に対応している。しかし夢を売るにも買うにも年齢制限があり、まだ七歳の私ではどちらもすることができない。せめて店内に入ろうにも自分独りではすぐに体よく追い出されるはずだし、親が足を運ぶわけもないからには同伴も叶わないだろう。それでしばらくは入店を諦めていたのだが、もしかしたらこのお爺さんに付いてなら入れるかもしれなかった。

 お爺さんは私の考えを測りかねているようだったが、ややあって困ったように微笑んだ。

「それじゃあ、頼もう。この歳になるとその方が安心だしね」

「では、行きましょうか。公園の中を通ると近道です」

 そうして私たちは公園に入っていった。五月の乾いた日差しが道に濃い影を投げかけている。




 お爺さんは夢を買いに来たのだった。

「見たい夢があるんですか?」

 そう聞くと、お爺さんは「ちょっとね」と言っただけで詳しく話そうとはしなかった。その代わり、「それにしても」と話題を切り替えた。

「お嬢ちゃんはしっかりしてるねぇ。こっちから聞いておいて失礼だけど、あんまり説明が上手なんでびっくりしたよ」

「そんなことは……でも、そうですね。そう思って頂けたのなら、多分それは本のお陰です」

「おや、本が好きで?」

「はい」

 するとお爺さんは空を見上げて、懐かしそうに目を細めた。

「僕も本を読むのが好きだったなぁ。特に昔話とか童話。お嬢ちゃんくらいの頃は、グリム兄弟ばかり読んでいたかな……あれ、大きな砂場」

 見れば、行く手には視界に収まらないほどに広い砂場が横たわっている。そういえば、少し前まで公園では工事をしていた。作業の音がしなくなったのは最近だと思うが、滅多に入らないので何が変わったのかは知らなかった。砂場では平日の夕方にもかかわらず多くの人が遊んでいる。私と同じかそれ以上に幼い子供たちの他、学校帰りの高校生や買い物袋を持った主婦たち。中心辺りに柵に囲まれたポールがあり、その周りを一人の男性が黙々と歩き続けていた。砂場の脇を抜けて大通りに繋がる小道へ入ると、「時間があったらあそこでゆっくりしたかったねぇ」と名残惜しそうにお爺さんが呟いた。

 ドリームパークの入り口が見えた時、お爺さんは「あったあった」と嬉しそうに息を吐いたが、それから心持ち歩調を緩めて私をちらりと見た。

「何でしょう?」

 お爺さんの顔を見上げて尋ねると、お爺さんは一段と錆のある声でゆっくりと言った。

「……お嬢ちゃん、このお店に何が売ってるか知ってるよねぇ」

「ええ」

「……夢、そんなに買いたいのかい?」

「はい」

 どうやら隠しても無駄らしいので、私は素直に白状した。ただ、行先を告げた途端に案内すると言い出したのだから裏があるのは誰にでも分かるだろうが、売りたいのではなく買いたい方だと言い当てられたのはどうしてだろう。本好きからだろうか。しかしこうした目的があると知られた時点で、一緒に入店するのは難しいかもしれない。そう思っていたところ、お爺さんはため息を小さく吐いて腰を屈め、「僕は清治せいじというんだ」と囁くと、ついて来いとばかりに店のドアを開けてずんずんと入って行った。一瞬私は迷ったが、ガラスの向こうでお爺さんがこちらを振り返っているのに気付くと、「待って清治おじいちゃん」と言いながらドアを押し開けた。

 店内は質素で、横に並んだブースが真ん中で大きく区切られ、向かって右が買い取り相談、左が各々が欲しい夢の相談所となっている。その奥では職員が立ち働いていて、そのうちの何人かが驚いたように私たちに眼差しをちらりと走らせるのが分かった。まるで銀行のようだ。私たちが入った時はあまり客が目立たず、それぞれのブースに三人ずつが座っているばかりだった。

 私は店内を見回していたお爺さんの隣に立つと、その袖を引いてお爺さんを見上げた。

「ん?どうしたんだい?」

 腹に響く低い声で尋ねるお爺さんに、少し踵を浮かせて言う。

「……私の名前は真奈まなです」

 お爺さんはそれを聞いて小さく目を見開いたが、すぐに「うん」と柔らかに笑うとゆっくり歩き始めた。

 お爺さんが左の相談所の方へ向かうと、「こちらへどうぞー」と一番左端のブースから声が掛けられた。中ではスーツ姿の女性がカウンターを挟んで座っていたが、お爺さんに並んで椅子に腰掛けた私の姿を見ると「あら」と声を上げた。

「ごめんね、お嬢さん。ここは十六歳以下は入れなくって……」

「僕の孫なんですが、駄目ですか」

「ええ、規則で。そもそも入店も本当は駄目なんですよ。お孫さんだというのなら——」

「私、清治おじいちゃんの孫です。本当です。ほら名前も言える」

「ううん、でも、夢はやっぱり売れないわね……」

 女性は申し訳なさそうに私に目を向けたが、見たところ泣き落としの通じそうな雰囲気ではある。一瞬お爺さんの方を見ると、お爺さんは仕方ないという風に頷いて見せた。

 私は仕掛けた。

「う……」

「え?」

 女性が怪訝な顔をこちらに向ける。私は耳の奥で熾りかけていた羞恥心をかなぐり捨てることにして、腹に力を入れた。

「お……おねがいじまず!わだし、全然夢が見られなぐでぇ……うっく」

「ああ真奈ちゃん、ごめんねぇ、お爺ちゃんがちゃんと調べなかったから……」

「ゔわぁぁぁん!」

 お爺さんが私の頭を撫でる。しかし私の方は何だか喚くのが妙に気持ち良くなってきて、さらに大きく泣き声を出そうと息を吸い込んだ時、

「何の騒ぎ?」

 いつの間にか、ブースの入り口に誰か立っていた。あまりに気配を感じさせない不意のことだったので、私は小さな悲鳴を上げてしまった。

「あ、教そ……社長」

 私たちの後方を見て女性が言う。私とお爺さんもつられて振り返ると、そこには線の細い若い男性が小首を傾げて立っていた。真っ黒い髪を肩まで垂らし、身体のラインに合った濃紺のスーツに包まれてお爺さんと私を交互に眺めている。

「……で、この二人はお客さん?」

 歌うような柔らかい声で女性に尋ねる。女性がかくかくと首を縦に振ると、社長と呼ばれた男性は「ふうん」と呟いてブースに入って来た。

「なるほどね……お爺さんはいいとして、お孫さんも夢を買いたい訳だね」

 そして私たちの退路を塞ぐようにすぐ背後で立ち止まると、ひと目で状況を言い当ててみせた。私は体が強張るのを感じたが、社長はこちらには目もくれずに腕を組んで瞑目している。恐る恐るお爺さんの方を盗み見ると、ちょうどお爺さんも私に視線を向けたところだった。私の眼差しに気付いたお爺さんは、微かに首を横に振る。つまり、そういうことなのか。

 そう思った矢先だった。

「まあ、いいんじゃない」

 社長の言葉に目を丸くしたのは女性も同じだった。大袈裟な身振りであたふたと驚きを表現しながら、早口で言う。

「し、しかしですね社長、幼い子供には夢を売らないと仰ったのは社長御自身でして、それはやはり守って頂かないと……」

「いいよ、ボクがそう言うんだから。記録にも残さないから大丈夫だって」

「社長……」

「この子、知ってる子に似てるんだよね。だから、縁だよ。縁は大事だよ」

 社長の飄々とした、それでいていやに揺るがしがたい芯を感じさせる口振りに、ついに女性も黙ってしまった。それを見て社長は私たちに視線を移す。正面からまじまじと見ると、中性的ながらかなり整った顔をしている。しかしそれはどこか浮世離れしていて、 “整った顔”として作られた胸像を思わせた。

「で、お二人はどんな夢がお望みかな?」

 私は気を取り直し、内心微かに興奮を覚えつつもお爺さんに先を譲ることにした。ここまで来られたのはお爺さんのお陰なのだ。私がお爺さんに「先に」と囁くと、お爺さんは頷いておずおずと話し出した。

「僕は……孫に夢を買ってやりたくて……あ、この子ともう一人、ね。それで……この子には好きなのを買うとして、もう一人の方は今ちょっと家から動けなくてね。楽しくなれるような夢を見せてやりたいんです」

「そっかそっか」

 社長は呟き、軽く上を向いて何か思案を始めた。それから二分ほど静寂が流れ、椅子の座り心地に意識が及ぶくらいの余裕が生まれ始めた頃、「じゃあ」と言って社長が再び私たちを見下ろした。

「こうしよう。お爺さんが何か夢を売って、それをこの子に買ってもらう。移し替えるだけだから安くしとくよ、だし。で、お宅にいるお孫さんにはこのカタログから好きなのを。もしお爺さんがもう一つ夢を売ってくれるならこれも安くする。それでどう?」

「ちょっと待って下さい!」

 声を上げたのはしばらく黙っていたブースの女性だった。

「それでは、この子が買う夢が誰のものか分かってしまいます。会社の規則に反します」

「僕からもいいですか」

 お爺さんも続く。

「その、僕も自分が見た夢を孫に、真奈ちゃんに見られるのは何とも……面映ゆくて」

 二人からの反対に、社長は心底意外そうな顔をした。

「そう?じゃあ止めよう。この子には悪いが、これからも夢は見られないままだ」

 どきりとした。先程駄々をこねた時に漏らしてしまったことをこうもしっかり聞いている。それに多分、私たちの嘘にもとうに気付いている。社長に対する警戒心がいや増してきて、やはり今は無理なのかと諦めかけた時だった。隣に座っているお爺さんがゆっくりと口を開いた。

「……分かりました。でも、僕の夢はそんなにいいものじゃあありませんよ」

 お爺さんの言葉を受け、社長は私をじっと見る。

「だそうだけど、どうする?」

「社長!」

 女性がなおも食らいつくが、社長が微笑みながら「ボクがそう言ってるんだから」と優しく囁くと女性は再び黙り込む。しかしまだもじもじとしており、規則に違反することを相当気に病んでいるらしい。何が『泣き落としが通じそう』だ、社長が来なければ危ないところだった。私はお爺さんに若干の申し訳なさを感じたが、この機会を逃すつもりはなかった。

「お願いします」

 社長はそれでいいとばかりに深く頷いた。




 ドリームパークを後にし、公園の中に入ったところでお爺さんは足を止めた。前方の木々の隙間に覗く砂場には依然多くの人がたむろしているが、来る時とは少し面子が変わっているようだ。

「……もし夢に嫌な風景が出て来るようなら、謝るよ。最近あまりいい夢を見られないんだ」

 俯いて言うお爺さんに、私は努めて明るく笑う。

「大丈夫ですよ。何も見られないよりも酷い筈はありませんから」

「そうかな……」

 お爺さんは錆の効いた声でそう悲し気に呟くと、「それじゃ、ありがとう」と言って歩き去った。砂場を突っ切って遠ざかる細い背中の周りには西日が映え、まるで赤い野原に迷い込んだ旅人のように心細く頼りなさげに見えた。

「今日はありがとうございました!」

 私が大声で叫ぶとお爺さんは振り返り、羽ばたくかのように優雅な軌跡を描いて手を振った。見送る私の傍を、生々しいリアルな仮面を付けた女性が自転車で走り抜けていく。私も帰らなければ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る