辻神
見慣れない猫だなと思っていたら、向こうの十字路の祠に祀られていた神であるらしい。本人いや本猫が言うのだから間違いない。
「どうにも最近は皆の信心が足りず、仕方なくそこらの猫のふりをして糊口をしのいでいるのだ」
その猫は僕の座敷の真ん中にどっかと座り込むと、いやに深刻に見える顔をしてそう言った。その姿はいつもこの四畳半に勝手に入ってごろごろしている三毛猫と大きさも特徴もほとんど同じだが、唯一その毛皮があの子と違って分かりやすく神聖な純白である。
「神様が本当にいることなんて知らなかったし、それが猫の姿になって喋るとは想像もつかなかったよ」
コンビニの袋をぶら下げた寝間着姿の僕は、上がり框でしばらく固まってからどうにかそれだけ口にした。真っ白な猫は、小さく鼻を鳴らすと僕のせんべい布団の上でお尻をもぞもぞさせる。どうやら衝撃吸収性と防寒性にご不満があるようだ。そっと畳の上に足を乗せ、買ってきたスナック菓子とジュースを部屋の端に置いてから、僕は腕組みして考える。さっき飲んだ日本酒が駄目だったのだろうか。ほんの少しのつもりだったが、初めて飲む銘柄だし量を見誤ったのかもしれない。それともあれか、大学の友人から貰ったあのよく分からないお菓子に何か入っていたか。あいつならやりかねないが、いくらあいつでも……。
「悩んでいるところ悪いが、少しいいだろうか」
「……」
「聞こえていないのか?……私の知らないうちに、人間は立って眠るようになったのだろうか」
「……それ、出来たら便利だね。それはともかく、ほっぺをつねったのに何でまだいるの」
猫は僕をじっと見つめると、ややあって「いいからまずは座りたまえ」と言って大きなあくびをした。僕がその通りに布団の縁に胡坐を組むと、僕に正対するようにこちらに向かって仰々しくゆっくりと座り直す。そして目を細めて僕を眺めると、ため息交じりに話し出した。
「君たちは、しょっちゅう神に頼むではないか。それなのにいざ姿を現せばいないと思っていたなどと、勝手だとは思わんかね。そういう者ばかりだから、近頃はどこの神も安心できないのだ。いいかね、神は人がいたと思うからいるのだ。どんな神でもそうだ。私も、天照大神も、オーディンもケツァルコアトルも、あと何と言ったかな、“わたしはある”もだよ。私たちは人間が存在を疑わないことで、そのようにあった者となることが出来る。すなわち君たち言うところの神だ。無論悪霊やらもそうなのだが、よっぽど神のほうが多くの人間に信じられているからな、こちらのほうが明確な存在になれる。つまり分かるだろう、昨今の私たちに近づきつつある危機が。ここ一年で私の祠に供えられたものがどれくらいあるか教えてやろうか。六月くらいだっただろうか、饅頭一個だ。しかも、帰り道で落っことしたのを放っておくのがもったいないから仕方なく供えられたのだ。この悲しみたるや……君のこの布団、あの饅頭のしばらく経ったのと似た匂いがするな。饅頭は嫌いではない、どこにある?」
猫はそう一気に吐き出すと、鼻をスンスンと鳴らしながら布団の上を歩き始めた。それはどう見てもただの猫の動きで、本当に神なのかまた疑わしくなる。しかし、僕が長年温めた万年床がまさかそんな匂いとは気付かなかった。めくるのが恐ろしくて仕方がない。
「……いや、それよりもさ。あなたが本当に神様だとして、なんで僕のところなのさ。神様なんだから、食べ物くらい自分でどうにかしなさいよ」
そう聞くと、どこにも饅頭を見つけられなくて不思議そうに首を傾げている猫は、
「それはだね。ほら、ここによく来てる巴君があすこはいいぞと教えてくれたのだ」
「巴君って、あの三毛の?」
「その巴君だ」
「いいの?そこらの猫にアドバイス貰って、神様の威厳はないの?」
「彼女も神だから問題ない」まだ名残惜しそうに足もとを見つめたまま、ご存じとばかりにこともなげに言った。
それからしばらく、僕は今までのあの三毛猫との交流を思い出していた。いつの間にかふらりとやってくるようになり、やがて二日に一回は姿を現すようになった。最初は夕飯のおかずを、来るのが分かるようになってからは買っておいた猫缶をあげていた。たまに蚤取りをして、これが本物かと都会育ちなりに驚いたりもした。あれで神だというのなら、この白いのもそこまで重荷にはならないのではないだろうか。猫が二匹いる生活……
と、そこまで考えて気になった。
「ねえ自称神様」
「まごうことなく本物だが、何だね」
「どうしてあなたは喋るのに、巴さんは喋らないの」
その質問に、猫は少し居住まいを正してから遠い目をして視線を上げる。つられて見上げると、電灯から下がる紐がぶらぶらと頼りなく揺れていた。隙間風だろうか。
「巴君はなぁ、力が足りなかったのだ。信心の問題ではない、神として強くなかったのだ」
「というと、あなたは強い神様なのかい?」
猫はまるで落し物が見つからなかった子供のように気弱に首を振る。
「私はただの名もなき神さ。どころか、昔は神でさえなかった。ただ私の方が彼女より人の目について、多くの人がそれなりの神だと思っていただけだ。神とはな、人間がそういうものと思って成り立つものなのだよ。つまり、その程度と思えばそういうものになる。神だから超常の力を持つなんて聞こえはいいが、私程度なら話せるのがやっとだ」
そうなんだと呟いて、所在なく見回した窓際の机の上、並んだ本の一冊を見てあることに気付く。『善の研究』。言っていることが悲しいくらい分からなくていっそ哲学の道にモニュメントとして設置してやろうかと表面に防水コーティングをしたところでこれがばれたら教授に殺されると思い留まった本である。そうだ、ここは京都なのだ。神社仏閣の数なら、他の追随を許さないはず。
「じゃあさ」
「うん?」
尖がった耳がぴくりと動く。一瞬それが二重にぶれて見えて、思わず目をごしごしとこすった。改めてじっと見るが、いくら眺めてもただの可愛い猫の耳である。猫に「どうかしたか」と言われて、気を取り直して聞く。
「この町にはあなたみたいなのがごまんといるってこと?」
「そうなるが……まあ、動けるのは少ないだろう。強すぎると場所に縛られるし、弱すぎると存在さえ希薄だ。私や巴君くらいだよ、この辺りじゃ」
少し残念だった。だが、いるのならばそれはつまり……いろいろ大変なことになるのではないか?その思いが顔に出ていたのだろう、猫は黄色い瞳を鋭く細めて「どうしたのだ?」と聞いた。
「いや、もし神様がいるってんならさ。その……大丈夫なの?神話とか」
「と言うと?」
「さっきちらっと言ってたけど、もし神話の神様がいるんなら、この国神が作ったことになるよ?何なら、世界七日で出来てるよ?」
「そうだが?」
そうだがときた。どうしよう、急に身の危険を感じる。僕は何の気なしにとんでもないことを聞いているんじゃないだろうか。そんな僕の心情を知ってか知らずか、猫は足し算を説明する教師のように、そのとんでもないことを当然のごとくしゃべり続ける。
「言ったじゃないか、そう思ったものが存在するのだと。そうだな、より正確に言うと、現在に矛盾がないのなら存在するのだ。だから、たとえ日本が神に作られていようが世界が七日で出来ていようが、その結果として現在に繋がるのなら存在するに決まっている」
「現実的じゃないって言っていいかい?」
「なぜだね」
「そりゃ、地球四十六億年だし」
「ふむ……ああ、そういえばそうだった」猫はどうやら納得したようだ。猫の言葉にふっと気が緩んだが、しかしその飲み込みの速さにどこかがっかりしたのも事実である。世界はそう簡単には変わらないのだ。そうは言っても、これまでの猫の話がまるっきり荒唐無稽なことだというのは流石に虚しい―
「君たちの感覚を忘れていた。つまり私が言いたいのは、過去は変えられないのではなく、現在は変えられないということだ」
僕の心配は杞憂だったらしい。猫は先程の調子を崩すことなく続ける。
「過去というのは、現在と矛盾しない限り無数にあるのだよ。そうであったのだと誰かが信じれば、そうであった過去が生まれる。だから、地球が四十六億年前に出来たのも事実になる。過去は現在に向けて収束するのだ。分かるか?」
「……でも、化石やら炭素年代測定やらあるよ?」
もうやけくそ気味に言ってみる。案の定、猫は難なく返す。
「それが現在のありようと矛盾しないだけで、過去の保証をしないことは分かるだろう?だが、そうだったと思うのは現在の存在だからな、思う者の数が増えれば過去もそれらしくなる。ゆえに過去に濃度の差があるのは確かだ……どうした?」
僕はもう訳が分からなくなって、畳にごろりと寝転がった。見上げる天井の隅に押し込められている影がいつにも増して黒々としていて、そこに何かが潜んでいるような、はたまたどこかに繋がる穴が開いているような気がしてくる。そのままおもむろにこちらを怪訝な目で見る猫に手を伸ばすと、その触り心地の格別な頭を撫でまわした。
「なあ、あなたもご飯は猫缶でいいかなぁ」
「文句なしだ」
こうして僕の家に来る猫は、三毛猫の巴さんと白猫の神様(この呼び方で定着してしまった)の二匹、いや二柱になった。しかし神様は喋れるだけなので、甘え上手な巴さんには今のところ一度も猫缶争奪戦で勝てていない。
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