第4話 シスター・セリカの肩息

 ぱっちりおめめ、丸みのある輪郭、小さな身体。水色のスモックの袖から覗く、桃色の爪がきらりと光ります。ひらがなで書かれた名札は、花の形でした。


 砂場や遊具で楽しそうに遊ぶ光景は、社会に疲れた大人にとって楽園です。子ども、特に幼稚園児のなんと愛らしいことか。


 かわいさ余って、よだれ百倍。


 その手で頭を撫でてもらえないでしょうか。あるいは「おねーさん、だいすき!」と一言だけ録音させてもらえれば。私はごくりと唾を飲み込みました。


「シスターが来られる日を、子ども達は楽しみにしていましたよ」

「そうなのですね。とても嬉しいです」


 園長先生の声が現実に引き戻します。真っ昼間から、私は何を考えていたのでしょう。紅葉のように頬が赤くなりました。


 今日は、教会が運営している幼稚園を訪れたのです。れっきとした仕事。目の保養のために来たわけではありません。


 はっ、あそこで女の子が転びました。鬼役の男の子は、捕まえるわけにはいかずに立ち往生しています。「泣かないで。蛇口まで一緒に行こうよ」と言えば、恋が始まりそうなものですが。


 もどかしい。気持ちにぴったり合う言葉が分からない幼少期は。ますます愛しさが募ります。たどたどしくも思いを伝えようとする瞳の美しさを、ウインクで連写できたらいいのに。


 私の溜息が聞こえたのか、園長先生は振り返りました。


「シスター? 気になることでもありましたか?」

「イイエ、ナンデモアリマセン」


 どうか、おまわりさんに通報しないでください。寛大な方なら、心の声を見逃してくれますよね。泣き顔が見たいとか、ぎゅっと抱き締めたいなどという妄想は微塵もございません。

 

 願わくば彼らの成長を陰で見守りたいのです。やがて思慮をわきまえる者が、飛び跳ねて返事をしている貴重な時期を。誰かの顔色を気にせずにいられる自由を。


 どうしましょう。園長先生の視線が鋭いです。まだ失言をしていないというのに。お願いですから校舎に入れてください!


 本の読み聞かせの練習は真剣にやってきました。夢と希望を壊さないよう、選書は慎重にしたのです。


 推しカプで論争になることも、PTAから苦情が来ることも起きないはず。「ノアの方舟」には、カニバリズムも死体嗜好症も出てきませんよね。ノアと家族、動物だけが大洪水から生き残る話です。

 もしかして、神様による生命の選択が、読み聞かせに適していないのでしょうか。電話での打ち合わせでは問題ないと伺ったのですがねぇ。


 私は園長先生の言葉を待ちました。


「そう言えば、シスターはこの園の出身でしたか。懐かしい思い出もあるでしょう。校舎を見て、感傷に浸っていたのですね」

「はい。卒園して以来なので、先程から涙腺が緩みそうです」


 息をするように嘘をつく。ひねくれた大人になるとは思わなかっただろうな。ごめんね、昔の自分。


 読み聞かせるのはバラ組でした。在籍していた教室に入ると、思い出が蘇ってきます。切り絵を破いた相手にゲンコツを食らわせたこと。折り紙の手裏剣を使い、忍者ごっこをしたこと。あら、おしとやかな記憶はどこへ。


 昼休みの教室には、塗り絵や絵本を楽しむ子がいました。シスターの私を見ると、「読み聞かせのお姉ちゃんだぁ」と言って集まってきます。天使のお迎えは私の寿命を延ばしてくれました。


「みんな楽しみにしてくれたみたいですね。ありがとうございます」


 教室を見渡すと、一人の男子だけ俯いていました。手には黄色い紙片を持っています。私は近付き、優しく声をかけました。


「どうかしたの?」

「ぼく、悪い子なの。小鳥さんのくちばしを切っちゃった」


 な、なななんですとぉ? 


 いたいけな子に似合わない言葉が飛び出しました。

 サイコパスの芽は早急に摘んでおくべきですが、詳細を聞いてからでも遅くありません。どうか、私が失神しない範囲の内容でお願いします。舌切り雀はギリセーフでしたが、小さすぎる靴を履こうとするシンデレラの姉には拒絶反応が出たので。


「どうしてみんなみたいに、上手にできないのかな」


 隠していた鳥の折り紙を見せてくれました。くちばしになる部分を間違えて切ったようです。ハサミを使う工程があるなんて、難易度が高くないですか。折り紙というからには、折って完成させましょうよ。


「あのね、いっぱい練習しても失敗しちゃうの。チューリップはできるけど。それぐらいできて当たり前って言われちゃった。せんせーの言葉、ちくちくして苦しかった」


 誰だ、担当の先生は。お灸を据えてあげましょうか。こんなに悩んでいる子を追い詰めるなんて。

 名札には「みかみ のあ」と記されています。ノアを助けられた神様ほど偉くありませんが、私なりの言葉を授けます。


「ノアくん。苦手な折り紙をあきらめずに取り組むあなたを、応援している人は必ずいます。一人ぼっちではないのです。先生も、みんなも、あなたが上達することを見守っていると思いますよ。失敗は成功の近道です。『できなかったこと』から『できること』になるまで時間が掛かるのは仕方のないこと。いつか、きっと頑張ったことが実を結びます。あなたは、あなたのままで良い。主の慰めと癒し、強き守りがありますように」

「んっ……! シスターぁ」


 その言い方は犯罪臭がします。ぽわぽわと漂うハートマーク、少しだけ開いた唇が完全に事後のそれ。

 ひょっとして恋に堕としちゃいました?


 ノアくんは私の袖を引っ張りました。


「ぼく、いい子になる。折り紙を頑張ってみるよ。だからね。上手くできたら、シスターのお婿さんにさせて。支えてくれたシスターの力になりたいの」


 私の言葉が気持ちを楽にさせたのですね。明るい道に戻る手伝いができて幸せです。ヤンデレルートが開かれなくて良かった――いや、開いてる気がする。なんか、それっぽい属性が垣間見えます。

 重たい重たい。支えてくれたって、一度きりでしょうが! 気遣いを恋に変換されるのは、はっきり言って迷惑なのですよーーー! 私は一定の距離で愛でたいのです。結婚という言葉で縛らないでいただきたい。ぜぇぜぇ。


 この場合の最適解は何でしょうか。傷付けたくありませんが、言質を取られるのは癪です。


 私は微笑みながら言いました。


「貞潔の誓願と言って、神と人々のために一生独身で奉仕しなければいけないのです。ノアくんと結婚することはできません」

「そっかぁ」


 ノアくんは目を伏せます。私のことは忘れて未来を生きるのです。あなたの人生には、これから大きな虹がかかるでしょうから。


 時計を見ると、読み聞かせまで二分になっていました。そろそろ準備をしましょう。

 離れようとした私の手を、ノアくんが掴みます。


「読み聞かせするまで、そばにいさせて」


 だめかなと上目遣いをされて、私の肩に衝撃が走りました。ぐっ、振り払える訳ないじゃないですかぁ。


「ずるいよ、ノアくん」

「マリもシスターの隣がいい!」


 両手に華。ヤンデレルートから、幼児達に溺愛される結末に進みました。個人的にはハッピーエンドです。


 幸せすぎて呼吸困難になりかけましたが、読み聞かせは真面目モードに切り替えられました。集合写真は一生の宝物にします。

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