主人公様は世界を救えない

 突然の出来事だった。


 思えば、僕が生きる世界が変貌した日の前日から、世界の様子はおかしかった。

 何の変哲もない長閑のどかな村の、何の変哲もない平凡な一日。


 その日の空は、どんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。

「今日は洗濯物が出来そうにないわね」と、母さんが苦笑いを浮かべて、得意の裁縫をしようとしていた時。


 ――急に、空気が変わった。


 ぞわりと総毛立った身体が危険を伝える。反射的に椅子から立ち上がった途端、ぐにゃりと視界が歪んだ。

 思わず床に膝をついた。顔をしかめながら、母さんの様子を伺う。母さんも、両膝をついて頭を抱えていた。


「母さん」と呼んだ声は、かすれていた。母さんは、うめき声を上げて苦しんでいた。このままではまずいと、必死に母さんの傍へ行こうとした。けれど、ガンガンと頭痛がして、その場でうずくまるしかなかった。


 母さん、母さん、母さん!


 心の中で、何度も叫んだ。耳の奥で、家を叩き付ける、容赦のない雨の音と雷鳴がとどろく。いよいよ、世界の終わりのような気さえした。

 意識が遠のいていく。

 最後に、「ルカ」と僕を呼ぶ母さんの声が、聞こえた気がした。



 ◇



 目を覚ました時には、僕は豪華絢爛ごうかけんらんな広間に立っていた。

 目の前には、立派な椅子に座り、悠然と僕を見据える老齢の男がいた。赤く大きなマントを羽織り、頭には金色にきらめく王冠。男の傍には、腰に剣を提げた青年が控えている。青年が、王冠を被った男の護衛だろうとは、一目でわかった。


 家で気を失ったはずの僕が、なぜこんな場所にいるのだろう。

 母さんは、どうなったのだろう。

 異変が起きたのは、僕と母さんだけだったのか。

 村の人たちは無事なのか。


 疑問ばかりが浮かび、冷静になれない。

 酷く混乱している僕の様子が見えていないのか、それとも見ない振りをしているのか。王冠を被った男――おそらく、この国の王様は、重々しく口を開いた。


「よくぞ参った」


 僕には、自らこの場に訪れた覚えが、まるでない。王様の言葉が僕に向けられていると理解するには、時間がかかった。茫然ぼうぜんと王様を見つめていると、王様はどこかぼんやりとした瞳のまま、空気を震わせた。


「勇者よ」


 ――勇者?

 またもや、「勇者」が僕を指す言葉だと理解するには、時間がかかった。ここで王様と対峙している人間は、僕だけだ。つまり、王様が話しかけている相手は、僕以外に考えられない。


 僕が、勇者だって?


 王様の言葉は、確かに耳に届いている。けれど、理解はできなかった。僕はますます混乱するばかりで、王様の口から飛び出す言葉の羅列られつを、ひたすら受け止めるしかない。……いや、全身のあちらこちらに、ただ言葉をぶつけられているだけだ。本当の意味では、受け止められていない。

 目の前の光景が、自分とは切り離された遠い世界のように思えた。


「今こそ魔王を打ち倒し、この世界に平和をもたらしてほしい」


 なぜ、僕が? 

 浮かんだ疑問は当然のものだろう。僕は、ごくごく平凡な男で、特段何の特徴もなければ、取り立てて得意な技もない。生まれ育った村で、死ぬまで穏やかに暮らしていくのだろうと思っていた。それに大した不満も持たない、本当に平凡な人間だ。

 ぽかんと口を開けている僕の顔は、とんだ間抜けに見えるに違いない。けれど、王様は気にした様子を微塵みじんも見せない。


 王様は、傍に控えていた青年に耳打ちした。青年はよどみない動きで、僕の視界から消えた。と思えば、さほど待たせもせず、大剣を持って再び現れた。青年は王様の傍には戻らず、僕の元へ歩いてくる。


 青年が、僕の目の前に立った。大剣が、僕に差し出される。大剣の鞘には、つるのような紋様が金色で装飾されている。

 金色の装飾があるだけで、ここまで華やかに見えるのか。夢心地な気分でぼんやりと眺めていると、青年は大剣を僕の胸元まで差し出してきた。

 もしかして、大剣を手に取れと言われているのか。いかにも重そうに見える大剣を、おそるおそる受け取った。


 手に取った瞬間、僕は大剣の軽さに目を見開いた。身体の一部かのように手に馴染む大剣は、羽根のように軽い。本当に、今まで欠けていた身体の一部が戻ってきた心地だった。

 僕の様子を見守っていた王様が「おお」と感嘆する。


「やはり、宝剣は勇者の手にあってこそ。――この世界の未来を、託したぞ」


 託されても困る。率直に、そう思った。

 なぜ僕が勇者なのか? そもそも、なぜ王様は、僕が勇者だとわかるのだろう。魔王を倒せと言ったって、これから僕はどこに、何をしに行けば良いんだ?


 疑問は絶えなかった。だって、何もわからない。僕が疑問と疑念に塗れた目をしていると、王様だってわかっているはずなのに。王様はそれきり、何も喋ろうとしない。ただ、僕を見つめるばかりだ。

 たじろぎながらも、負けじと王様の目を見つめ返す。

 ふと、王様の目には、何も映っていないと気付いた。縫い付けられたように、王様の目に囚われる。


 虚無だ。そう思った。王様の目は、虚無だった。


 王様から目を逸らしそうになった時、王様の目が、ぐにゃりと歪んだ。思わず引きった声を上げ、後ずさった。それでも、誰も、反応しない。


「あの、王様」と、わずかに震える声で、呼びかける。

「この世界の未来を、託したぞ」


 王様は、さっきと同じセリフを繰り返した。表情も変わらず、目の色も変えず、一言一句間違えず。

 ぞくりとした。僕を見下ろす王様のうつろな目も、表情も、何もかもが、全身を粟立あわだたせた。


 王様に目を縫い付けられたまま、一歩、また一歩と後ずさる。そんな僕の様子でさえ、王様は微動だにせず眺めている。王の横に立つ青年もまた、口を開かず、表情をぴくりとも動かさず、ただその場に背筋を伸ばしたまま立っている。

 今僕が見ている光景は絵画だ、と言われたら、きっと信じる。それほどまでに、王様と青年は、作り物めいていた。


「王、様」


 震える声で、もう一度呼びかけてみた。応えるように、王様の唇が動く。その様子は酷くゆっくりに見えた。


「この世界の未来を、託したぞ」


 弾かれたように身をひるがえして、広間を飛び出した。腕に大剣を抱えて、一目散に駆ける。逃げる場面ではないはずなのに、僕は逃げていた。

 背後からじりじりと恐怖が迫ってくる感覚。足元がふわふわして、雲の上でも走っているみたいだ。上手く走れているのかわからない。それでも僕は、懸命に逃げた。


「――母さん……!」


 いつか絵本で読んだ御伽話おとぎばなし。ある日、主人公が別の世界に迷い込んで、冒険をする夢物語。唐突に、物語の内容が頭に浮かんだ。

 突然、絵本の中に放り込まれた気分だった。僕が今いる世界は、生まれ育った世界のはずなのに。

 まったく知らない世界に来てしまった感覚。王城に来たのが初めてだと言えば、それまで。けれど、それだけでは、決してない。


 僕は何か、とんでもない事件に巻き込まれている。目の前が真っ暗になりそうで、奥歯を噛んで必死にこらえた。

 気を失ってしまったら、また違う場所に飛ばされてしまうかもしれない。二度と僕の村に、母さんの元に戻れないかもしれない。僕の心には恐怖が芽生え、あっという間に根を張った。


 王城を出るまでの間に、数人の使用人や騎士とすれ違った。僕の顔には、恐怖が貼り付いているに違いない。顔面蒼白な男が廊下を全力疾走しているなんて、異常以外の何者でもない。なのに、誰一人として、僕の存在を気にも留めなかった。


 王城を飛び出し、堅牢けんろうな扉の前で、よろめきながら立ち止まった。両膝に手を付き、肩で息を繰り返す。

 酷く胸が苦しくて、気持ちが悪い。だけど、城の前にさえ、いたくない。僕は息も整わないまま、歩き出した。その間も、僕の傍には門番が立っていた。けれど、彼らもまた、僕を気にする素振りを見せなかった。


 街の中でも同じだった。僕一人だけが、険しい顔をして、よろめきながら歩いているのに。

 他人に無関心な街なのかもしれない。だとしても、大勢が行き交う街中で、誰もが見ない振りをするものだろうか。僕のような人がいたら、声を掛けずとも、ちらりと目をやるくらい、しそうなものだけれど。


 田舎で育った僕だから、街の様子に違和感を覚えるのだろうか。もしかして、これが普通なのか。何が正解なのか、冷静になれなくて、よくわからない。

 僕が思う異変が、僕の勘違いなら良い。けれど、「気のせいかもしれない」と自分に言い聞かせても、僕にまとわり付く恐怖は、欠片も拭えなかった。


「……とりあえず、このままじゃダメだ。街の人に話を聞いて、情報を集めてみよう」


 誰に聞かせるのでもなく、心の内を声に出す。悪い考えを振り払うように、大きく息を吐いた。


 勇者とは何か。魔王とは何か。この世界には、何が起こっているのか。

 王様は何も教えてくれなかった。ならば、僕が自分で調べるしかない。


「魔王を倒せ」と僕に命令しながら、何て無責任なのだろうか。大剣だけ託して、王様は、ただ王座に座っているのか。

 僕一人を魔王の元へ送り出すだなんて。仮に僕が勇者だとしても、僕だけで魔王を倒せると思っているのか。倒せると思っているなら、根拠は何なんだ。


 あまりの理不尽に、怒りがふつふつと沸いてくる。けれど、もう一度王城に乗り込んで、空虚な目をした王様に、文句を伝える気力もない。二度と王様には会いたくないし、王城にさえ、踏み入りたくない。


 僕は背後に迫る黒い影の気配を感じながら、受け取った大剣をぎゅっと抱き締めた。

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