第12話 生者の温度
優しい笑顔があった。
賢くて、強くて、憧れで、大切で、大好きな――両親の温かい笑顔があった。
『いいかい、デュレイン。大人しく待っているんだよ』
『母さん達はすぐに帰ってきますからね』
夫婦は子の頭を愛しそうに撫で、力強く抱き締める。それはどんな言葉より雄弁な、愛情の表現。
だからデュレインは寂しさを堪え、気丈に答える。
『分かった。じゃあ皆が帰ってくるまで、僕がこの家を守るよ!』
固く約束は交わされた。
そして二人は、更に他の屋敷の住人――血の繋がらない兄姉達も、知らない大人達に連れられ、何処かへ行ってしまった。
両親も皆も、魔術師としての大切な仕事である。
デュレインは留守番だ。
まだ幼いが、大丈夫。この屋敷の跡取りとして日夜励んでいるのだから。それに
名門の誇りを胸に、数日を過ごす。
やがて彼らは言葉通りに帰ってきた。
四人は温度を失った
「……っ!」
暖炉の火に照らされた闇の中、デュレインは最悪な気分で目覚める。
懐かしい夢を見ていた。人の心を蝕み抉る、過去の深い傷痕。未だに慣れず、動悸が収まるまでにしばらくかかった。
更にいえば、気分の悪さは夢だけが原因ではない。
体が重い。怠い。鈍い疲労感に包まれている。
濡れた布の感触が冷たい。薬の苦味が口内に残っており、匂いが鼻につく。
幾度も経験した感覚。また、魔力の過剰使用により気絶したのだ。
だが、問題無い。
スタンダーが無事に治ったのだから。ならば自分の身がどうなろうと。
そうだ。今は、今度こそは、守れているのだから。
誇りと自負、満足感を持って彼は笑う。真っ直ぐで純粋で、しかし暗く淀んだ危うさをも含んだ顔で。
「デュレイン殿」
「ぬほぅっ!?」
珍奇な悲鳴があがり、表情はおかしく歪んだ。
突然アリルの声がすぐ近くから聞こえて驚いたのだ。余計な負担で喉が痛む。
どうやら彼女は寝台のすぐ傍、隣に置かれた椅子に座っているらしい。
逃げ場が無い。そもそも今の体調では逃げられない。緊張から唾を呑み込み喉が鳴った。
「そのままで結構です。私も、このままで話をしますので」
恐る恐る目を動かせば、姿勢よく伸びた背中があった。その為顔は見えない。
背中を向けているのは今まで散々喚いていたデュレインへの配慮か。
確かに幾分か話はしやすい。が、それはそれで悔しい。複雑な自尊心故に寝台の上で唇を曲げる。
ところが、その閉じた唇はアリルによってぽかんと開かれる事となった。
「…………貴方は、愚かな方です」
「ぬ?」
原因は脈絡もない悪口。
あまりにも唐突で、怒りよりも戸惑いが勝る。そしてそこから立ち直る間もなく、更に彼女は混乱の種を蒔いた。
「しかし優しい方でもあります。故に私は貴方とこの屋敷の方々に多大な恩があります」
「むう……?」
今度は真逆。小さく唸るデュレインは理解に苦しむばかりだった。
前置きなのだろうが、先が読めない。身じろぎひとつしない背中はただただ真っ直ぐで、無意味な戯れ言ではない事だけを伝えてくる。
仕方ないので大人しく話の続きを待った。
「皆様は、私の命を助けて下さいました。温かい気持ちを下さいました。愛情というものを思い出させて下さいました。いずれも皆様が優しい心の持ち主だったお陰です」
「……覚えが、無いな。そこまで大した事は、しておらぬはずだ」
少女の背から目を逸らし、謙遜でなく本音で反論。
そもそも最初に死人扱いした失礼な男なのだ。寒さでも苦しめてしまっている。様々な埋め合わせはしたとはいえ、デュレインは今の賛辞を素直に受け取れるような薄い人間ではない。
この否定に思うところがあったのか。無反応ながらしばし間を置き、それからアリルは先へ進める。
「……私の事情が解決するにせよ、そうならない場合だろうと……未来がどうなろうと、私はいずれ、ここを出ていきます。上手く進んだなら、謝礼を返せるでしょう。私達はそれで終わる、貸し借りだけの薄い関係なのでしょうか?」
「……それが、当然ではないか」
当然。これもまた偽りの無い本音。
理由が無ければ、わざわざ死霊術師や生屍に関わる事も無い。事情があれど高貴な立場ならば、尚更。
貸し借りの無関係な友人も素晴らしいが、惜しくはない。彼女は客人。自然と疎遠になるのは世間でも珍しくない話である。
しかしアリルは自らとデュレインの台詞を、
「いえ、私はそのような恩知らずにはなりたくありません」
断固とした調子で否定した。
静かだが強い声音にデュレインは息を呑む。また迫力を感じ、興味を引かれて凛とした後ろ姿を眺めた。
「私は今後も縁を切らずにいたいのです。遠方からだとしても、悪い知らせは聞きたくないのです。ですからどうか、お体は大事にして下さい」
ああ、と納得するデュレイン。
この内容によって、彼はようやく合点する。
生屍達が全てを話したのだ。
命の刻限。幾度も説得を試みられ、幾度も断ってきた話だ。まだ諦めていなかったのか。
たちまち気分は不機嫌に。そして嘲笑めいた表情で拒絶する。
「……あやつらの差し金か。無駄だ。意思は変えぬぞ。自分はこれ以上失いはせん」
「ええ、その気持ちはよく分かります」
思いがけず、肯定の返事。
またも戸惑い、だが易々と警戒は解かない。訝しんだデュレインは眉をひそめ、耳を傾ける。
「婆やさんは厳しくとも頼りがいがあって、スタンダーさんは人懐こく朗らかで、サンドラさんは明るく元気で、クラミスさんはお茶目で大人びていて、グロンとセディは愛らしく……私も、ここに住む生屍の方々は好ましいと思います。失いたくないと、そう思うのも無理はありません」
声だけで伝ってくる。彼女は一人ずつ思い浮かべながら、慈しむように笑っている事だろう。嘘とも企みとも違う。
まさしく共感。気持ちの共有。
我が事のように誇らしくなる。
だがデュレインとしては信じられない。疑念を込めて、低い声で問いかける。
「……愚かしい、幼子のような行いだから止めよ、とそうは言わぬのか? 悪い知らせは、聞きたくないのであろう?」
「ですから困っているのです。私にはあの方々を諦めろなどと言えません。しかし貴方にも命を捨ててほしくはありません。……皆様全員には出来るだけ長く笑っていて欲しいものですが、現実は厳しいようです」
「……全員が、出来るだけ長く、か。ならば現状維持するしかないな。それが最長だ」
「ええ、貴方はそう仰ると思っていました。ですから私に言える事は、あと一つです」
一度区切り、そしてアリルは柔らかく温かく、言葉を紡ぐ。
「貴方が亡くなれば悲しむ人間が、あの方々以外にもいる事を、どうか忘れないで下さい」
至極単純な、ありふれた忠告。
たった数日の繋がりに、単なる義理以上の感情を抱いて。
彼女の方がよっぽど愚かだ。
だがその愚直さは、だからこそ直接的に人の胸を打つ。純真な子供が懇願するような、尊く清らかな訴えだった。
脳裏が真っ白になったデュレインは、呆けた間抜け顔で後頭部を見つめ続ける。
「では、私はこれで」
「……あ……ま、待つのだ!」
彼女の声により我に返る。
荒く呼びかけ、立ち去ろうとしたアリルを慌てて引き止めた。離さないように手首をしっかり、強く強く掴んで。
しかし、
――何故だ?
デュレインは自問する。
自分でもこの行動の理由は分からなかったのだ。言いたい事は何もない。こちらからの用件は何もないのに。
なのに、ただ引き止めたい、離したくない、という謎の衝動だけがある。強引で無礼なわがままである。
無言で、言い訳の言葉を探す。
「……あの、なにか?」
「あ……いや……」
後ろ姿から促されても解決方法の見えないデュレイン。更に必死に、弁解の言葉を求める。
だったのだが、妙な異変に気づき、そちらに気をとられた。
「……ぬ?」
異変は掴んだ手にあった。
冷えた手がじんわりと温まっていくのだ。アリルの体温によって。脈動も感じる。心地よさすらある。
自分の両手をこすり合わせた時とはまた違う。他人から与えられる、熱。
それは懐かしい、幸せな過去を呼び起こす感覚だった。あれほど苦手であった生者のものなのに、得たそれは苦痛からは程遠い。
夢でも感じられなかった、生きた人間の感触。
あまりに斬新。あまりに衝撃的。
乾いた大地を雨が潤すように、デュレインが持つ許容量を満たして溢れる程の恵みが与えられた。
だから自然と、素直な呟きが漏れる。
「……お主は、生きておるのだな」
「ふふっ。今更そのような事ですか?」
振り返ったアリルは楽しげに微笑んでいた。頬が痩せこけていてもそれが悪く思えない、可憐な笑みだ。
初日にも見たが、その時と比べても、より輝かしい。
痩せこけていた体が食事で多少は改善されたから。それだけでは説明不可能な美しさがある。
だからデュレインは酷く酷く動揺した。
手が離れ、息が詰まり、口は開閉を繰り返す。真っ直ぐ見ていられなくて、なのに見たい気持ちもあって視線はさまよう。最終的に額へ逃がし、金糸のような髪の生え際辺りになんとか固定して、それから事態を収拾すべく動いた。
「……い、いいや違う、が……も、もう大丈夫だ、問題無いぞ!」
「そうですか? それでは、これで失礼します」
今度は引き止める手はない。デュレインの動揺を知ってか知らずか、あるいはいつも通りと思ったか、アリルは静かに退室していった。
そして寝室に一人。
デュレインは同じ姿勢のままで長い間、呆ける。
まだ衝撃が抜けない。落ち着かない。魔力不足の倦怠感など苦にもならない。
生者だという理解を、理屈ではなく初めて心で得たのだ。ただ見るだけでなく、会話するだけでなく、ようやく本当の意味で向き合えたのかもしれなかった。
それが、どんな結果をもたらしたのか。どんな変化を促すのか。
アリルの体温はとうに失われた手をそれでも見つめ、死霊術師は再び自問する。
「自分は何故……?」
答えは、まだ出ない。
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