第4話 死人の温度

 ――私は今、どんな状況にいるのでしょう?


 雪のように白い肌と煌めく金髪と黒檀の瞳を持つ美しい姫――だった、かつてのファリエム王国王女スノウリアは素朴な疑問を抱いていた。


 目覚めてから周りに流される事しばし。いつの間にか目の前の食卓には、パンと鮮やかなソースがかかった肉料理と湯気のたつスープが並んでいたのだ。

 何処の誰とも知らない者が用意した料理だ。万一を考えれば警戒すべきである。

 だが魅力的な香りは、疲労の溜まる体を容赦なく刺激してきた。喉が思わずごくりと鳴ってしまい、腹の虫も直に鳴き出しそう。原始的な欲望が警戒心を呑み込む程に膨れ上がっていた。


 となれば、疑問は後回し。

 食欲に従って、しかし品性は持ったまま。スノウリアは王族の気品を失わない程度に手早く食べ始める。

 味は素晴らしいの一言だ。食材も料理人の腕も良く、一口ごとに幸福感に包まれる。今の彼女の境遇では考えられないご馳走。空腹からの落差を踏まえれば、生涯でも最高の食事だった。


「ふう……」


 ある程度落ち着き、改めてスノウリアは考える。

 父である国王が崩御し、暗殺の罪を着せられ、逃亡し、追手の襲撃で手引きしてくれた近衛騎士とはぐれ、森で遭難しかけていたはずが、いつの間にか立派な屋敷で豪勢な食事にありつけているのだ。


 食事はいいとして、何がなんだか分からない事が多すぎる。

 そもそも不気味な森も不可思議だったが、この屋敷も相当おかしい。なにしろ中は外同様、どころかそれ以上に寒いのだ。重ねた防寒具と暖炉があってようやく落ち着ける程。とても人が住める環境ではない。


 だからこそ、住んでいる者達は普通ではない。

 まず、目覚めた時にいた少年の言動が意味不明かつ情けなくて不憫だった。人相は悪いが一瞬で恐ろしいとは思えなくなり、逆にこちらが悪いような気持ちにさえなった。精神年齢がかなり低いのだろう。


 そしてなにより受け入れがたいのが――


「お口には合いましたでしょうか、お客人」

「……え、ええ。とても、素晴らしい味です」

「それはようございました」


 食堂の入り口近くで丁寧に頭を下げる、異様に青白い顔の老女――生屍アンデッドだ。


 生屍。

 死霊術師ネクロマンサーによって造られた、仮初の命を生きる死人である。

 死霊術とは悪魔に魂を売った者が扱う、異端の呪術であり忌まわしき邪法。生屍とは体が醜く腐敗した、生者を妬んで襲い、術者に使役される化け物。

 それがスノウリアの知る、宮廷魔術師から教わった知識だ。


 ただ、今目の前にいる彼女は、そんな事前の知識と印象からはかけ離れている。見た目も言葉も行動も、全て。

 だから、初めは違和感こそあっても正体は分からなかった。

 気づいたのは食堂に来る際の、肩を支えてくれたその体温が異様に冷たかったから。そこで、それは何故か、と問いかけたところ言われたのだ。


 はい、生屍ですので、と。


 確信していても確かめてしまう程に、「少し変わっているだけの人間」と言われていたら信じていただろう程に、彼女は人間だった。


 ただし、それでも、やはり彼女は違うのだ。


「味付けは心配していたのですよ。ここ十年近く、食事をする方は一人しかいませんでしたから」

「……貴女は、食事の必要が無いのですね」

「はい、生屍ですので」


 サラリと当たり前のように言われた言葉で、決定的に違う存在なのだと思い知らされる。

 こんなにも、近くにいるのに。


「納得できない。そんな顔をしていますね」


 全てを見透かすような、生気の無い目線がスノウリアを貫いた。

 彼女は言葉に詰まる。図星を指されたから、それ以上に生屍の暗い瞳を恐れた自分がいたからだ。

 あんな事を思っておいて、恥知らずだと自嘲する。


 ただし、一方の老女は表情を全く変えずに手を上げるだけだった。


「ああ、お気になさらず。生屍とは本来恐れられるべき存在。それは正しい知識ですので」

「……しかし、貴女は、その正しい知識とは違う生屍なのでは?」

「はい。ワタクシ共は生前の意識と記憶を全て残した、高等な死霊術による生屍です。坊っちゃまはそこらの動屍ゾンビしか生み出せないような下劣な死霊術師とは違うのです」


 それは自慢するような、誇りを語る口調だった。固い表情からも穏やかな笑みが窺える。

 先程は無下にしていたが、主に対する愛情めいたものはしっかりあるらしい。厳しさは裏返しなのだろうか。

 だとしたら、なんとも微笑ましいではないか。


「……あの、婆やさん」


 ほとんど意識せずに口が開いた。

 興味が湧いたからか、好奇心がうずいたからか。もしくはよく知る事で安心したい、安全だと確信したいからか。

 どれにせよ、この住人を好ましく思っているのは確かだった。


「この寒さも、貴女方の手によるものなのですか?」

「はい。暖かいとワタクシ達の体の腐敗が進みますので、坊っちゃまが冷気の魔術を生活範囲全体に施しているのです」

「外の森ごと?」

「はい。森ごと」


 簡単に言われたが、桁違いに大規模なそれは桁違いに高等な魔術だ。

 あの少年は相当な腕の持ち主という事になる。国中から選ばれた宮廷魔術師と同等以上の。


 が、驚くべきはそこではない。

 確かに生屍ならば温度を感じず、腐敗を抑えるという利点しか無いだろう。生屍だけならば。


「……しかしそれでは、あの死霊術師の方は」

「はい。御自身よりワタクシ共を優先して我慢しておられるのです」


 スノウリアは更に体が冷えたように感じた。言葉が出ない。

 あの、子供じみた少年は、一体どれだけの苦難を抱えて生きているのか。

 それでは、まるで――


「婆や、ここに居るのか?」

「はい、居りますよ」


 思考を断ち切るように、部屋の外から少年の声が聞こえてきた。当の死霊術師である。

 スノウリアはつい反射的に身構えてしまった。


「なあ、婆や。も、もう大丈夫か?」

「ええ、大丈夫でございます。入ってきて構いませんよ」


 え?

 と、スノウリアがそう思ったのも束の間。

 扉が開き、死霊術師が食堂内に足を踏み入れ――即座に大声が轟く。


「はぉわはぁぁぁぁぁぁ!」


 彼は扉を開けてスノウリアを確認した瞬間、無様にすっ転んだ。そしてそのままの体勢で抗議の声をあげる。


「なにが大丈夫なのだ!? まだ生者がおるではないかあっ!」

「ええ、大丈夫でございますよ。坊ちゃまの食事も用意が済んでおります」

「そっちはどうでもよいわあぁっ!」


 腹の底からの叫びが大きく響く。信頼していた身内に騙された、無念と悲哀すら感じる絶叫だった。


 しかもその身内は更に追い打ちをかけてくる。

 転んでいる間に婆やはススッと近寄り、主を起こしつつも入り口をさりげなく塞ぐ。そして言い知れぬ圧力を放ったのだ。


「さ、お席に着いて下さい」

「む……おい、そこを退いて……自分はお主の……ま、待て! 分かった、分かったからせめて向こうへ……!」


 必死に抵抗していたデュレインだが、無言で寄っていく婆やの迫力に圧されたのか結局食卓に着いた。せめてもの足掻きとしてスノウリアから一番離れた席を確保したが、その顔は実に不満げである。

 もしくは怯えを誤魔化す為の虚勢かもしれなかった。


「改めてご紹介しましょう。こちらが我ら生屍の主、デュレイン・グレイバース様です」

「……いえ、こちらこそ申し遅れました。私はアリルと申します」


 婆やの紹介を受け、スノウリアも淀み無くサラリと名乗った。念の為にあらかじめ決めていた偽名を、ごく自然に。一応、念の為に。

 二人に疑念を抱いた様子は無い。


 それよりもデュレインにとっての問題はこの状況。彼は苛立ちを隠しもせず、婆やを鋭く睨む。


「用は済んだか? ならばもう良いだろう。自分はもう行くぞ」

「何を仰いますやら。坊ちゃまを抜きにしてはアリル様の処遇を話し合えないではないですか」

「もう最低限の手当ては済んだのだ。町に送ればよいであろう?」

「本気で言っているのですか? 肌や髪も礼儀作法も一般庶民のものではありません。そんな方がこの森の奥にまで入ってきたのですよ? 何処からどう見ても訳ありではないですか」


 現実を突きつけられ、スノウリアは顔を強張らせた。


 遂に来てしまったのだ。一時の安らぎの終わるが。

 死霊術師と生屍。一般人とは言い難い彼らだが、面倒事に巻き込む訳にはいかない。これ以上甘えてはいけない。

 目を伏せ、細く芯の通った声で告げる。


「……ええ、その通りです。私は問題を抱える身。迷惑をかける訳には」

「このような、貴人に恩を売る絶好の機会を逃す訳には参りません」

「いきませ……え?」


 自ら丁重に退こうとしたところ、思わぬ言葉に直面してスノウリアはうろたえる。

 予想外だが内容自体は納得出来る上に有り難い。しかしだからといって――。

 脳内は堂々巡り。彼女は静かな、されど大きな混乱に見舞われていた。


 それとは反対に仰々しく、明らかな憤りを見せたのがデュレインだ。


「だからなんだというのだ。逃してもよいではないか!?」

「よくはありません。ワタクシ共は先代の頃の栄華を取り戻したいのです。それともなにか問題でも? 坊ちゃま以外は生屍ですので食料も衣服も部屋も余っているではありませんか」

「生者がおっては自分が安らげぬではないか!」

「坊ちゃま。上に立つ者は時として、その身を犠牲にしなければならないものです。みっともない理由では先代に顔向け出来ませんよ」

「んぎぎぃ……」


 婆やの言い分に反論を返せず、憎らしげに歯ぎしりするばかりな屋敷の主だった。

 対するのは厳しく冷たく容赦無く、理知的で口の回る生屍。


「坊っちゃま、お静かに。次はアリル様に確認せねばなりませんので」

「何を言うかっ! 自分はまだ納得しておらんぞ。話し合うと言ったのはお主であろうが!」

「では訂正致します。坊ちゃまがいなくては御報告が出来ないではないですか」

「話し合いはもう終わっておると言うのか!?」

「はい。坊ちゃまがアリル様を屋敷に連れてきた時に」


 手強い。

 婆やはデュレインを軽くあしらい、彼を涙目にしていた。生屍ながら堂々とした貫禄のある彼女は敵無しの老将にも見える。

 分が悪かったのだ。経験の浅い少年では。


 しかしスノウリアは、婆やが主を評した時の自慢げな声を聞いている。愛情を知っているのだ。

 だから受ける印象は、まるで駄々をこねる子供を相手するような。厳しい祖母が聞き分けの無い孫を諭すような。互いに対等な、気の置けない友人同士のような。

 とにかく賑やかで、深い繋がりが感じられるものだった。


 失礼だとは分かっている。自分の未来に関わる大事な場面だというのも分かっている。

 それでも彼らのやり取りは、異端の術師と化け物のそれではなく、なんだか普通の人間らしくて。それがおかしくて。おかしくて。


「ふふっ」


 だから自然に笑みが溢れたのだ。

 幸せな過去に戻ったように。両親が存命だった頃のように。本当に久し振りに、彼女は笑顔になった。


「……お、おおおい。お主、失礼では……」


 デュレインが、気分を害したらしい苛立ち混じりの声をかけてきた。

 婆やと言い争っていた時とは違いしどろもどろになって、睨むというには外れた場所を見て。

 しかし、


「…………どうした? 何故……そんな顔をしておる?」

「え……?」


 しかし彼の声音は途中で、気遣わしげな心配げなものに変化した。


 それによりスノウリアは気づく。目から溢れる冷たい滴に。

 笑いながらも、勝手に涙が流れていた。無意識に泣いていたのだ。


 そして一度意識したからか、涙は流れの勢いを増す。雨から滝へ。小さな滴から大粒の真珠へ。

 止まらない。止められない。

 安らぎと愛情。そこからの連想。

 失った幸せが思い出されて、喪失感を改めて噛み締めて、感情が制御出来ないでいたから。




 声もなく一人、泣き続ける少女。

 彼女から離れた食卓の反対側で、彼女を刺激しないよう静かに、彼女を話題に囁きが交わされる。


「おい婆や、あやつ大丈夫なのか?」

「はい、心配は要りません。直に落ち着くでしょう」

「いやしかし……あれはもしや病にかかっておるのではないか?」

「ですから、そんなに慌てる必要はありません。これは恐らく……」


 そう言いかけて、婆やは何かに気づいたように言葉を切る。

 スノウリアを見て、デュレインを見て、もう一往復して、しばし思案。それからキッパリと口を開いた。


「いえ、やはり坊っちゃまの仰る通りです。クラミスに言って薬を煎じさせてきましょう」

「うむ、そうか。では任せた!」

「ですからその間、坊ちゃまにはアリル様をお願いします」

「うむ、任された! ……むぅ?」


 これで解決出来ると思考を手放したのがいけなかった。

 勢いで答えてから、遅れて意味を理解する。慌てて婆やを視線で追いかけるも、その先には閉まった扉しかない。


「……むむぅ?」


 食堂には、少女と少年の二人だけが残された。

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