第11話
『ライド。この子に仇討ちを遂げさせるつもりかい?。』
「遂げても構わない。そう思っている。放っておけば無駄に挑んで死ぬ。どちらが死ぬのかの違いだ。」
ライドはちらりと闇の中懸命について来る子供を見る。闇の中、小さなランタンの明かりを頼りにライドを追う。「知覚」の素養はない。しかし、やる気があれば難しい技術ではない。育てるなら最低限、「知覚」を含め、獣から生き延びられる技術は身につけさせたい。
『そこは・・・大人の教育次第だ。』
ソドムは少し悩んだ末に、そう答える。
『復讐に駆られる領民は見てきた。統治の側から言わせて貰えば復讐は領地を弱くする。外に敵を作れば一時的に統治は楽になるけど、続くと生産性と思考能力が壊滅する。しかも伝染し易い。領地は悲惨な末路に転げ落ちる。』
ソドムの言葉にライドは同意する。取り憑かれた集団は声を上げるだけだ。要求だけで何も生み出さない。
「選ぶのはミンウだ。自分の問題だからな。一応、準備の場は用意したいと思っている。」
ソドムはその考えについて、説明を求めるが、その前に、ライドにも確認しておきたいことがあった。
「先に確認したい。」
『なんだい?。』
「ロニは今回、里とナリアラ大きな危険を与えた。なのに自分が罰を受けるとは考えていない。ナリアラもロニの罪には無頓着だ。異常に見える、里にロニの罪は伏せているが、ロニに対する態度はあからさまに違う。理由は何だ?。」
『薄々感じてたけど、やはり驚くな。君の故郷には貴族に相当する存在がない。もっと小声で話そう。』
貴族の生まれは、神の時代の終焉に始まると考えるのが常識だと話し始める。通じない言葉と同じで、それ以外の意見は有り得ないと言われる水準だ。
『貴族は神に代わって人の統治を代行する存在だ。でもこの建前は権力の維持に使われるもので、貴族の価値を示すものじゃない。ライドが感じた違和感は貴族の価値に関わることだと思う。血統や血筋って概念はあったかい?。長の子は優秀と言う考え方だね。』
「ある。」
ライドはソドムの言葉にうんざりする。血筋を主張する子供が引き起こすいざこざや、集落間の選民意識は騒動の種だ。3代続けて指示する立場が継承されると、苦労を知らない3代目は自分の価値を勘違いする。故郷ではそういった類の悪口として「三代目」といえば、馬鹿の代名詞だった。
ソドムはライドの評価に同じだと笑う。苦労はしているが、そこは教育と実践に放り出すことで補える部分も多いという。
『血統はある。足の速い馬の番いの子馬は足が速い仔馬の出生率が高い。それは馬でも人でも同じだ。より優秀な番いからは、より優秀な子を成す可能性が生まれる。貴族の価値は、未来に発展を齎す血を育て、可能性を高めることだ。これが貴族の根幹の考え方だよ。』
平民が死に絶えても、貴族が生き残れば人としての種には影響が無い。そう言っている。
『後継から外れた子供は降格し、娘なら降嫁する。その度に貴族全体の質は底上げされる。男爵の利権から溢れた貴族は平民になる。その元貴族は、平民として子をなし、平民の資質を底上げさせる。それが領地の地力に繋がり、ひいては世界の人資質の向上に繋がる。貴族はそう考える。上の爵位の子作りへの圧迫は下から見ていると怖いほどだよ。』
「強い戦士は皆、貴族の血を引いているのか?。素質があっても鍛えられなければ廃れる。血を守ると言うことは、ロニのように前線に出る貴族は例外だろう?。戦場に立たない貴族の子に戦の資質を確認できるのか?。」
『君の言う通り、貴族は流血の役割から遠ざけられる。貴族の血を引く「英雄」は、物語の中心人物として喧伝されるけど、現役の貴族であることはまずないね。それでも貴族の血を引くと分かる英雄は2割程度いる。平民から生まれる確率の数百倍だよ。それに訓練場で最強の剣士といえば、英雄を含めても貴族が多い。しがらみが無ければ貴族は最強を争う英雄になりうると思う。』
そうだろうか?。食事や環境の差も相当な違いだろう。
ライドはローレンの大通りを歩く人の姿を思い出す。色とりどりの衣装を纏う者と簡素な布一枚で歩く者。どちらに才覚を育てる余力があるかは一目瞭然だ。
『ただ、これは確率の問題だ。貴族も阿呆はそこを勘違いする。貴族からも不具合を抱える者は生まれ、平民の中には必ず貴族の中でも才覚を羨む者が生まれる。平民の1万人の中で優れた者は、男爵100人の中で優れた者に等しい。平民10万人なら子爵100人の中で比較する。私の頃はそう言われた。』
「命の選択を迫られた時、男爵の命は平民100人に相当するのか?。」
『平民と同等の才を示す者に過ぎない。平民は巨大な海だ。その中に何がいるのかは分からない。侯爵と渡り合える商人は常にいる。ただの指標だ。ただ、追い詰められた時、貴族はライドの言う通り、その指標で判断する。昔は才が高ければ、平民でも命の価値は男爵や子爵並に扱われた。今は分からないが。士爵位とかいう名前だ。そういう一芸に優れた貴族を色付きと呼んだ。跡取りになれなくても一代限りはその活躍に応じて子爵以下の身分と扱いをうける。貴族の中で純粋な統治機構を持つのは伯爵以上だ。子爵以下はその領内の委任統治者になる。』
ソドムは色のない上に平民からの繰り上がり貴族だ。陰口や差別は凄かったと笑う。それでも伯爵の利権を手に入れ、統治の側に回った。
ソドムはこれを、戦時中で運が良かったと評する。ソドムの話を聞く限り、そんな程度の特例ではなさそうだ。
「まとめよう。つまり、貴族であるロニの命は、才が認められていない平民の集まる里の中では何百の命より重い。だから罪は問われない。」
『そうだね。ただ貴族としての評価は下がる。一定以下の評価と見做されれば、男なら平民に落とされて放逐。女なら格下の家にその身に流れる血の可能性を捧げる為に降嫁される。』
「命に対する罰がそれだけか?。嫌な存在だな。」
『貴族も平民からそう見られる自覚がある。でも、貴族は怖い。でも平民だって貴族は怖いんだ。貴族は平民と接すれば嫌でも自覚することがある。価値があるのは自分の血であって、自分の能力はその価値に達していないことさ。平民に能力で上回られ、背後に数を従える代表の相手をするのはいつだって恐ろしい。だから真摯に対応する。まあ、ハッシュベル駐屯地でディーンの話を聞くと、そうじゃない貴族も増えたみたいだね。平穏が続いて変なのが出てきたかな?。それに昔と変わらず、戦争で利権を増やしたい貴族はいるようだ。彼等は多分、貴族を仕分けして、区別を始める。相手が貴族に相応しくないと難癖つける。その動きを抑えられなければセレ国は分裂するよ。』
ロニは今回、自分の命の価値を示した。最早ロニなしで里の者が犠牲を抑えることはできない。そして、犠牲になる命が、将来ロニと同じ価値を生み出せるのかと言われれば難しい。それがロニが罰されない価値と理解する。
しかし、故郷では除くことのできない年齢の可能性が持つ要素が見当たらない。そこに命の扱いの違いを感じる。
ソドムの意見を元に、ミンウの復讐について考える。目に沸る憎悪はただの復讐だ。そして、復讐は権利ではない。
ライドは、歩調を緩め、距離を置いていたミンウを待つ。光のない闇夜の中、遠くの篝火の光だけを頼りに歩くには慣れがいる。
「ミンウ。お前の狙う相手はまだ里にいる。でも今は狙うな。やっても俺が邪魔をする。」
「怪我は治ったのかよ。首とか紫の斑点があったり膿んでる場所もあったよな。気持ちわりぃ。はっ。そんな病み上がりがおれの邪魔できる気かよ。見縊ってんじゃねぇ。」
「その細腕だと老人の命にも届かない。老婆相手でも取り抑えられる。見縊られるのがミンウの現実だ。」
ミンウは反論しかけて止める。その顔を逸らして俯く。弱さは自覚しているか。
「ミンウ。お前は何才だ?。」
「13。おっさんは?。」
「18だ。」
「は?。嘘だろ?。何食ったらそんなにでかくなんだ。」
「よく食べ、よく鍛える。ミンウは13にしては少し小さいな。」
ミンウは戦士として生きたことがないと確信できる。この地域の数え方で身長は1.4メール、体重は40キ程度。
「今後の話をしよう。復讐相手が複数いるお前は、誰にも知られず相手を仕留める必要がある。どうする?。」
「爺婆は難しくねぇ。ローレンには孫がいるって言ってたからな。」
「そうか。老人と人質は逃さず処理しなくてはな。ミンウの存在が知られれば次の獲物は狙い難くなる。だが孫はミンウより年下か?。年が近いとミンウには技術もない。厳しい相手になる。その後、人質を使って何処に呼び出す?。ジジババとやらでも呼び出されれば里の狩人に助力を頼むだろう。弓矢ならば離れた場所から、狙撃できるからな。犯人を生かす理由はない。そして、ミンウにはそれから流れる体の強さも、経験も、技術も、頼める仲間もいない。」
弓矢は、故郷では護身用のおもちゃだが、戦士でない者に対しては強力だ。一方的に相手を攻撃できる。
「揚げ足かよ、おれは命をかけんだ。そんなテキトーな奴に負けるかよっ。」
「無計画か。」
「おれは家をくれるっつうからついてきたんだ。口出しはいらねぇ。」
誰しも明日生きている保証はない。
奪った者を許す義理も認める筋合いもない。だから、ライドはミンウの復讐の行為を肯定する。だが、ナリアラが言うように、ミンウの衝動的な決意には救いがない。何故ならミンウが奪われた価値は、ミンウにとって自分の命より軽いからだ。
生きる上で重要だった命の損失。ミンウは命をかけると豪語するが、自分の意思で自分の命を焚べる気概があるから強気なだけだ。復讐が成功すれば次は奪われる立場になる。ミンウが直ぐに「人質」を思い浮かべたように、勝手に舞台に乗せられるのは、自分の命と複数の大切な命だ。そこに制限や期限はない。
その時、ミンウの主観で考えてきた奪ったものの価値より、大きな価値を狙われ、吠えるだろう。等価で対応しろと。無様な要求だ。物の価値は主観でしかない。だから、ナリアラは止めようとした。ミンウの覚悟では復讐は成り立たない。
なら殺した相手の得で終わるのか?。そんな結末を認める必要はない。そしてこの地では、割りに合わせる手がないとは思わない。
例えば此処では主張を正当化し、負債を押し付ける力がある。権力だ。権力は平民に対して年齢や数の論理が働かない程強い。貴族相手には使えないが、ミンウの大切な人を奪った下手人に狙いを定めるなら利用できる。
(道具の多い社会だな。)
しかし、落ち着いて考える時間は必要だ。新たな生活基盤を得た上で、結論を出して欲しい。
ライドの考えた道は復讐を行う為の道であると同時に、時間をかけて落ち着かせる道でもある。復讐はふとした切欠で強烈に燃え上がる火種になる。しかし、それを維持し続け、準備できるかは別問題だ。何年もやる気を維持し、全ての時間を捧げ続けるのも簡単なことではない。
「ミンウ。領主の戦士を目指せ。そこで誠実に職務を担う熟して信頼を得ろ。そして機会が来た時、職務として復讐を実行しろ。そうすれば、ミンウへの復讐へは権力が抑制する。仇であるジジババとやらの根っこは犯罪者だ。犯罪を犯させろ。襲撃して来た相手は貴族の下請けだ。まずは情報を集めて特定しろ。その相手が味方の時は絶対に手を出すな。敵の時に叩け。」
「いきなり何いってんだっ。お前こそ言ってることが犯罪者だぞ?!!それに、おれが復讐される?。逆恨みじゃねぇかっ!。大体平民のおれが騎士院に入れるかってんだっ。何より周りくどいぜ?。おれは子供だ。相手に油断させて刺す。それで終わりだろ?、逃げ足には自信がある。追いつかせる訳ねぇだろ。」
ライドはその場に膝をつくと、ミンウの肩を掴んで目を見る。
「足りない。ミンウの命は弱すぎる。命をかけたところで力にならない。例えば人を雇えれる力があるとする。その者は守るのも奪うのも自分の命をかけずにできる。里の者もお前が生きていると知れば、狩人に頼んで身を守る。同郷のよしみ、それも力だ。ミンウにはない。」
「なに言ってんだ?。」
「現状を正しく認識しろ。狙われれば相手も命をかける。足の速さなど役に立たない。」
「おれの足の速さ知らねえくせ何言ってんだ!。」
「ナリアラを思い出せ。カ、足、ミンウに劣る部分があるのか?。それでも逃げられない。何故逃げられなかった?。今奪い合いをするなら、ミンウより弱い命はない。負けるだけだ。だから先をみろ。この先、命の力を手に入れる伸び代はミンウより長い命は少ない。」
ライドの故郷であれば、子供の命を奪っただけで、周りが相手を追い詰める。しかし、此処では加害者が里に守られる。命の捉え方が違いすぎる。
なら自分で手に入れて行くしかない。組織の「人手」と「信頼」をだ。子供にはそれができる。
「仇を討つんだっ!」
「仇討ちなら、達成して墓前に報告しなければな。死んでいては報告できない。それではただの復讐だ。」
「赤の他人が会って早々に説教か!。」
「死んだ子の記憶は誰かに残っているのか?。覚えている家族は?。遺品は?。このまま死ねば、生きてきたこと全てがなかったことになる。残せるのはミンウだけだ。ミンウは自分が望む世界を見ながら、失われるものを無視している。自分は奪われた。だからこれ以上失わないとでも思っているのか?。」
「生き残れってのかよ!。その方がよっぽど都合がいいだろうがっ。現実見えてねぇのはお前だろっ!。」
「先もにも言った。ミンウの今の命をかけても力にならない。死んでも結果は変わらない。だから力をつけろ。身を守るより強い力を身に宿せ。その為の可能性は提供しよう。だがこの伝手は復讐に囚われた者は願い下げだ。憎しみは隠せ。笑顔で周りと馴染め。領主の戦士になる為の模範になれ。」
「くそっ。くそっ!。伝手って何だよ!。そんなのあるのかよっ。」
「ロニだ。お前にとっては馴染みのある相手かもしれないが甘えるな。お前が領主の戦士に相応しくないと気がつけば、ミンウを捨てる。物事を正しさで選ぶな。ロニや組織にとって都合が良いか悪いかで判断しろ。規則と前例に従え。周りに付け入る隙を与えるな。」
ライドの話にミンウが表情を失う。ミンウは俯くと、連れ出すと言った時と同じように笑顔を浮かべる。
その手は握りしめられ、微かに震える。子供なりに得難い機会であることは認識したようだ。
「・・・上手く行ったら感謝してやる。おれだって、選べるなら試してぇ。」
「戦士としてもそうだが、礼儀作法や態度でもだ。負けても努力を止めるな。人が休む時こそ逆転の機会だ。ただ真摯に打ち込め。挑発されても未来の為に踏みとどまれ。俺はロニの前でお前が復讐ではなく、領主の戦士を目指す者として紹介する。お前の友人を殺した里の者にもた。それ以外にも、必要があればミンウの親でも貶す。」
「・・・受け入れてやら。おれは必ず奴らを殺す。それまでは我慢する。」
「殺気を知られるな。心の底に閉じ込めろ。別の人格のつもりで仮面を被れ。その為に人といる時は笑顔を作れ。」
ミンウが頷くのを確認して、ライドは崩した大蟻の入り口に向かう。
『教育と生活を与えて復讐を止めるのか。面白いね。』
「止めるとは限らない。この線は難しいか?。」
『ロニ嬢も生き残ったミンウ君に負い目を感じている可能性はある。後はわからないな。ただ私の時代には貴族の三男以降の訓練所だった。今はその役割を学院に取られてると言っても平民は公平に扱われるのか疑問だよ。武に秀でることは勿論、私刑に耐える精神力と、大怪我をしない身のこなしは必要だな。まあ、それ以前に、学費、道具、教材、寄付金。まとまったお金がいる。かと言ってライドは預かられる身だ。稼いでも1、2割が返済。その他は教会に吸い上げられる。考えてるか?。』
「ロニの後援を得る道は?。」
『私もそれしかないと思うけど、よくそんな言葉知ってたね。』
「故郷でもあったからな。」
ライドの提案に、賭程度の案ならある。とソドムは即答する。十分だ。
(俺の都合の為には、そっちの方が有難い。でもミンウにはこの地の技術を学ぶ機会を作りたいな。)
ライドは老婆心ながらそう思う。ミンウには全力を傾ける純粋さがある。それが今だけのものか分からないが、見ていると協力したくなる。
ロニは今、大蟻の巣の前にいる。行くなら今だろう。ライドは立ち上がるとミンウに進むよう促す。
『ロニがか。大蟻の警戒かな。外したくない一手だ。でも誰かに指示して欲しかったね。住民側の警戒は彼女にしかできない。住民に接触して何か仕掛けを作るなら、今は自由にできることになったね。隙を見せた。』
包囲の行動は、住民を助けるようにも受け取れる。赤大蟻を解き放つ相手が誰なのかを忘れて舞い上がるかも知れない。
しかし、この包囲の行動は、何処からかわからない攻撃への緩和策だとソドムは読む。
赤大蟻の封印解除という準備のない変更を強行した結果、軍の末端に意思が届がなくなった。しかし、この欠点を「本陣」と「前線」を分離し、情報の錯綜のない集団を後方に備えて動ける人員を確保した。
この地域の常識を知らないライドには結論と状況が繋がらない部分もあるが、ソドムの解説は今のところ外れていない。
「前線だけで赤大蟻を止められる。そう判断しているんだな。」
精鋭が1人か2人しかいない軍で。これはライドに小さくない恐怖を与える。ライドが巣穴の中に感じる赤大蟻の「気配」は、見た目より強い。4メールの体躯で、足元を這う子蟻のような速度で動き回っている。故郷の並の戦士長では一度に4匹も相手にすれば、戦士の歩法を止められ、命が危ないだろう。そんな存在が約2000匹だ。
『技術は流石に500年の差だ。比較にならない。』
追手の自信は過信ではない。ソドムはそう言っている。一貴族の分隊であるにも関わらずだ。
「今後の見通しは?。」
『予定通り詰んだよ。そして予定通り、赤大蟻に人手と時間を割かれる追手には、この局面でこれ以上対応できる手がない。此方が相手を逆に詰める展開だ。君が対応し切るのが条件だけどね。」
追手はナリアラ女史とロニ嬢に仕掛けてくる。人材は豊富だ。
シャルという足枷を初手で使えればナリアラの制圧は容易。ロニに至っては今、住民内に仕掛ける余裕があるという。
「知覚」も範囲が知られれば簡単に対応される。つくづく以下略だ。
『無視されてるけど、ロニ嬢には生き延びても政治的な落とし所に利用価値がある。この指揮官は本当に時間重視偏重だよ。』
尋ねれば、ソドムは自分の見ている景色を惜しげなく提供してくれる。助かる。
追手はもう、ナリアラの行動に虚実を疑う必要がない。そして、追手は「虚」を使う必要がない。もうどんな手を打っても終わらせられる。
しかし、ライドにとって肝心なのはここだ。ロニの準備が整う前の赤大蟻解放の阻止だ。
住民の生存者を制御できれば追手に負けはなくなる。逆転はできない。此方も負けないだけだ。それでは足りない。此方はこの局面で勝たなくては、次の局面でナリアラ、シャル、ロニに未来がなくなる。
今回の件は、ライドがいなければ、犠牲者はナリアラ1人。多くてもさらにシャルが追加されるだけだった。それが里の住民の住居を奪い、子供2人を信頼していた者から害されるという死に様を与え、里から離れない選択をした者と逃げ遅れる住民に赤大蟻に食われる最後を齎し、生き延びた者には餓死の危機を迎えさせることになった。
『次の手を避ける道はあったけど難しかったな。』
ソドムは「知覚」も使わないのに多くのものが見えている。追手は予測通りに動き出したと確信している。軍が前後に分かれた情報からだ。意味がわからないが、それはライドの無知ゆえなのだろう。
そのソドムは、ナリアラとの夕食の時点で、ロニとの非接触を先に切り出せれば可能性はあったと見る。
現実には話合いそのものを食事をネタにはぐらかされた。
『信頼があれば、向こうから切り出したろうがね。』
今はナリアラとロニは互いに接触を避けている。ソドムはそうそう現状を読む。説明されれば単純だ、ナリアラ女史は逃げたい。態々身を晒して、人手に包囲されやすい場所に来る選択はない。ロニ嬢には住民の支持がいる。ナリアラ女史と合流した後、ナリアラが離脱すれば、それを止められなかったロニ嬢への反感は高まる。自分の身を守ってくれる戦力が減ることを住民は受け入れない。相手の都合は関係ないからだ。
それをあの食事の時にまとめられなかったから、奥の手の出番が回ってきた。
『「前線」担当でもなければ、動き始めは読めないね。』
ソドムの言葉にライドはため息をつく。ライドはそれ以前だ。常に無知であってはならない。無知では咄嗟の判断で選択しなくてはならない機会が分からないし、選べない。しかし、機会は常に一瞬で、その時は過ぎ去って戻らない。
今回残した奥の手も、相手の動きを読んだソドムが居たから残った手だ。ライドが精鋭だと早くに気付かれれば、追手はライドに罪を被せて里を殲滅に出た。態々相手に口実を与えて楽にする愚策だ。発見されたばかりの時越えの人など、その性質を後付けできるカモでしかない。相手を仕留められなくても世の中は圧倒的に貴族を支持する。
今だから、気が付かれていい。もう、軍が赤大蟻に飽和され、この局面で次の手を打てる機会がない今だから追手は利用できない。
『ロニ嬢との会話が終われば私は一旦視界は散らす。安全になったら合図はよろしく。』
奇襲に武器の材質や技量の差を考慮する必要はない。求められるのは猟師らしく、一撃で戦況を変えて逃げることだ。
追手の3箇所の攻撃は、精鋭なしで行われる。この行動をライドが走り回って潰す。自由に動ける精鋭を対策のない戦士が抑える手段などない。
ただし、この行為でライドは存在を認知される。次の局面ではどうなるか分からない。相手は数が力なのだ。とっくに次の局面の為に動いていると見るのが自然だという。そこで捕縛され、故郷がこの地に認識されたらどうなるだろうか?。今の故郷の状況を知らないが、蹂躙される気がする。受け入れ難い未来だ。更にライド自身の欠陥が公になれば死の危険もつきまとう。
だから、この手は避けるのが正解で、当たり前の選択だ。しかし、ライドは実行する。例え死が背後に立ち、目の前で故郷が蹂躙されてもだ。先の未来はその時潰す。そんな意味のない猛りが止められない。
戦士の矜持が聞いて呆れる。
程なくライドとミンウは、大蟻の巣である崩れた入り口に辿り着く。崩れた入り口の側にある篝火の前で、長柄の棒を振るうロニがいる。闇の中で動く上半身が赤みを帯びて浮かびあがる。何かと戦っている訳ではない。
普段のロニは赤髪を肩口までおろし、その先の端を背中側で紐で縛るが、今は兜をつける時のナリアラのように、後ろに結い上げていた。
「クレイルか。」
ロニが背中越しに目を向けずに声をかける。迷いがない。「知覚」が広くなったか?。
ミンウと違い、ライドは足音を立てていない。それでもロニは断定した。ロニの「力」は戦士長候補止まり。戦士の歩法が使えるのは一瞬。その評価を訂正する。動きに重さと柔軟さを感じる。余裕があると言っていい。身体から力みが消えている。これが本来のロニか?。だとすれば演技下手にも程がある。師であるナリアラは出会った瞬間に信用できないとため息をついたのかもしれない。
「日々の鍛錬か?。」
「動きの確認ね。間合い管理と体捌きおさらいだよ。」
ロニは一瞬ライドを探して振り返る。
「知覚」に慣れていない時期に見られる行動だ。正面に見えると錯覚する。ライドもこの時期、避けたつもりの穴によく足を突っ込んだ。
「受け止めればいいじゃんか。」
ミンウの言葉に。ロニは目を向け、表情を緩める。汗ばむ顔を布で拭くと近づく。化粧気のない姿だ。その目は澄み、ライドを見る目にも険がない。
「ミンウ、無事で良かった。弟と友人は残念だった。すまない。勝手に弔わせて貰った。後で場所を教える。」
ミンウは堪えるように下を向く。しかし、数呼吸後、顔を上げたミンウは柔らかな笑顔を浮かべた。その様子に、ロニは「強い子。」と呟く。
「棒状武器で刃を受け止めると指を切り落とされる。鍔がないからね。棒の表面に沿って刃を走らせ、振り抜くだけでいい。相手が棒を使うなら、常に意識するといいわ。持ってる武器が刃のないものなら叩き折るつもりで振り下ろす。棒が曲がれば相手の動きを止められる。」
「何だよ。受けたらダメなんじゃん。、回りくどいな。なら、近づかれたらどうすんだよ。」
「そうさせない為に足を使って動く。棒状武器の守りの強さはこの間合いの広さ。見ての通り中央寄りに持ち手をとっても細剣並みの長さがある。端を掴んで振り回せば、ご覧の通りね。」
ロニはさっと持ち変えると一連の動作で振り抜いて見せる。ぴたりと止めた穂先の周りで風が起き、砂が舞う。
動きに冗談のように無駄がない。ロニは今、態と見せる為に動いた筈だ。ライドの目にも動きの委細はっきり見えた。小さな円がさらりと描かれたような印象だ。それでいて、動きの全容が掴めない。ライドはロニとの間に確かな技量の差を認識する、
「この広さで振るえば、先端は力強い打撃になる。両手で掴んで前に繰り出せば、隙の小さい突きにも命を奪う重さを乗せられる。この汎用性と攻撃力が棒状武器の利点。欠点はミンウの言う通り、間合いを潰せる技量のある相手には、この長さが不利になること。掴まれると相手攻撃を躱し難いのに、棒を掴むのは簡単でしょ?。掴ませるような状況にさせない為、掴まれた時に反撃する為、どちらにも体術が必要ね。押引き蹴り殴り投げ捻り。自分の立ち位置と立ち回りを活かせれば、相手との間における自在に動かせる障害物に変えられる。その為には訓練あるのみっ。」
ロニはミンウの問いに実際の動きを交えて答える。ソドムの言う通り、ミンウへの罪悪感が見える。
「ロニ。ミンウは逃げずに守れる力を欲している。ローレンの領主の剣になる為、教育の機会が欲しい。」
ライドの提案に、ロニは動きを止めて、ミンウを一瞥する。
「今は先の話をする時では無い。私なら今、赤大蟻の崩した壁を取り除いて夜のうちに解放する。」
ライドの言葉に、ロニはため息をついて、ライドとミンウを見る。
「それを私に話すということは、私の後援で、ということか?。なら、残念だけどミンウは無理よ。後援になれば私の立場にも影響がある。ライドが乗り換えてくれるなら歓迎するけど?。」
「ミンウだ。13歳のミンウはいつまでに鍛え上がればいい?。後援できるかの判断はその時でいいだろう?。その約束が形で欲しい。」
ロニは少し悩む素振りを見せるが、首を振る。ライドは他に言葉はないかと頭を巡らせる。
思いつかない。ならミンウに示せるものは?。チラリと「知覚」を走らせるが思い当たらない。
『この問題は今片付けないと有耶無耶になるよな。一か八か、協力しよう。惜しい時間だけどね。』
ソドムがため息混じりに、言葉をなぞってくれと言う。辿々しい言葉で説得力が出るとは思えないが、試したいと。
何処に付け入るネタがあったのか。聞けば、陣営を運営するだけでも資金難のはずのロニに余裕があるのはおかしいという。ライドの後援ならできるという言葉に迷いはなかった。強い商人の貢献人がいる。ロニは味方と信じる資金提供者だ。
『教える教官には元貴族をつける。その上でミンウの後援中にできる支持集めの利点について話がしたい。』
棒読みながらもライドはソドムの言葉をスラスラと並べる。ロニは、決定は戻って相談するとしながらも、ミンウの後援の為の試験を2年後で承諾する。
『ディーンに伝えれば何とかするだろう。どうだい、ライド。私の仕事は。』
「見事。」
ちらりとミンウを見下ろせば、硬い笑顔を引きつらせ、文句が溢れそうな姿で小刻みに動いている。差し当たって、成績による足切りをつけたことか?。どの道1番て卒業しなければ領主の戦士への道は難しい。ならロニが周囲に相談し易い手土産を持たせる方が重要だ。ミンウの不満は無視する。
「交渉成立だな。引き止めておいて何だが、ロニには早めに住民のところに戻って欲しい。追手が住民の脱出をを失敗させるとしたら、今が仕掛け時じゃないか?。」
その指摘にロニはサッと顔を青くする。心当たりがあるのか。恐れの度合いが明確だ。
「ロニの人生だ。朝の開始の合図は任せる。住民が奮い立たったときに進め。その声から100数えて解き放つ。今から先ならいつでもだ。」
「任せるぞ。必ず生きて会おう。」
その言葉を最後にロニは斜面を駆け下りる。その姿にライドは故郷を思い出す。ロニの戦士としての気質は、故郷の若者に近い。
『慣れてるね。』
ライドはソドムの問いに曖昧に頷く。ロニがいなくなると、ミンウから想定通りの文句が聞こえてくるが、一位でなければならないと切り捨てる。
話す最中に、ナリアラに向かう動きを「知覚」する。同時にロニの帰った先で大きな音がする。
『ナリアラ女史の方は?。』
「同時だ。」
『神業だね。実式が成せる技かな。こちらには?。』
「誰も来ない。ロニが此処にいたからかもしれない。ミンウはそこで耳を塞いでろ。」
ライドはそういうと、足元の石を拾う。頑丈なこの岩盤のかけらだ。強度は申し分ない。ミンウから距離を取って「歪」を探る。
「歪み」の正面80メール程度のところに、大人の5倍はある裸の女が篝火に赤く照らし出されていた。髪で顔が隠れ、足元は球形。人の大きさの女の姿が沢山生えては消える。死ねば何も残さない獣の類だろう。そう思って「知覚」を伸ばせば足元の球の中に核が見える。
数は2体。
ライドは歪みの中に石を投げ込む。周囲に衝撃音が響く。戦士の歩法なしの投擲は音と風が激しい。石は巨大な裸体の足元の球を貫く。すると一体の異形の姿が空気に溶けるように消える。倒したのではない。逃げた。2体とも核には当たらなかった。だが今はこれで十分だ。元々2体でも倒すだけなら今のロニなら十分。しかし、今回は、住民に被害なく、短時間で、かつ恐怖を伝播させずに仕留める必要がある。その為の支援だ。
次はナリアラ方面の対処だ。ミンウが説明を求めているが、時間はない。
「見つかるなよっ。何処かに隠れろ。」
ナリアラがいる場所で火柱が上がる。ライドは崖の上に向けて斜めに走る。
「力」なしでも短距離なら壁を走れる。遠心力を利用した加速によるものだ。戦士の歩法なしで風の壁を超えるのは本来自殺行為だ。しかし、ライドの身体強化なら目や耳が痛い程度で無傷でいける。ライドは壁を地面に見立てて、ナリアラのいる方角、斜め下に蹴り出す。
爆音、目や呼吸にかかる強烈な圧力。同時に衣服は細切れに飛び散る。
ナリアラは今、左手でシャルを抱えて走っている。戦士の歩法は使えばシャルが死ぬ。そのシャルは抱えられ、意識が混濁している。毒か?。ナリアラの右腕は内側に深々と短剣が刺さり、武器は持っていない。少し前から「知覚」で注視していたが、気配を感じて武器に伸ばした時、その腕を狙われたようだ。武器に手を伸ばす動きは無意識。だから、能動的な対処が遅れた。襲撃者はナリアラの癖を事前に知り、誘発させたとみる。その直後、ナリアラの硬直を見越したかのように、シャルの足に針が立つ。これが毒だと思った理由だ。
開始一呼吸で、ナリアラはシャルを抱えて離せなくされた。これでは逆に勝ち目がない。たかが子供一人で、戦士の力をこうも簡単に抑え込む。
ライドは襲撃者の手腕に感心する。
ナリアラの仲間全て引き剥がし、今の状況を作り出す。幾重もの網から逃すことなく絞り切った結果が今だ。見事としか思えない。
その後、ナリアラは一隙に身を隠すが、襲撃者はナリアラの隠れた周囲一面に白い炎を作った。これが岩を走る前にライドが見た炎だ。地下空間で赤子の模倣が見せたそれに似ている。半径5メールに渡って木々が炭に代わりに、地面が赤く溶ける。周囲に火種が生まれる。
ナリアラは着弾より先に飛び出し走る。
追う襲撃者は、地面を動かして、走る足の動きで何倍も加速させる。それを補う程度には身体機能を高める「力」はあるのだろう。こんなディーンに毛の生えたような戦士がナリアラを追い詰めるのか。実式か精霊術か分からない技術をあやつる壮年の頭に毛のない男に、敬意を覚える。
襲撃者はナリアラの背後から短剣を振りかざす。ナリアラの格好は、初めて会った時に近い完全武装だが、胴衣はつけていない。完全に壊れて部屋の隅に捨てられていたのを思い出す。ナリアラは背中越しに短剣を払おうとするが、追う男はナリアラの動きの直前に、見計らったように口笛を吹く。
伏せていた戦士が台座のついた鉄の弓から矢を放つ。微妙な時差のある鉄矢。その速度は戦士の歩法の8割程度の加速に達する。木製では不可能な速度だ。ナリアラは崩れた体勢と僅かな時間で一本は防具で受ける。しかし、無理な体勢でよろめく。
次の遅れた矢は腰を抉るだろう。
ライドが壁を蹴り、爆音を発したのがこの直前になる。
爆音と風。ライドの発した音は誰もが目を向けるほどの轟音であり、辺りに吹き荒れる嵐だった。
ライドはナリアラに向かう2本目の矢を掴むと、そのまま地面を足で削って離れる。止まらない。止まれない。下手に足を伸ばすと。再び跳ねてしまう。
ひたすら地面を抉る。
今は地面を掴めない。「歪」に映る地面に立ったまま手を突き立てて強引に止まる。60メールは離れたか?。
その間にも事態は進む。ナリアラは追手と打ち合い、短剣を防ごうとするが、襲撃者はナリアラの空いた右脇の下から刺しに行く。見えない筈の肋骨を綺麗に突き抜ける角度だ。ナリアラが素手でシャルを抱えているとはいえ、見事な運びだ。乱戦の技量に驚嘆する。ライドは「歪」からの見える地面に突き立てた手を、別の「歪」に通す。手を伸ばした先はナリアラの右脇の下だ。本来は追う男を引き倒したかったが、都合の良い場所か見つけられなかった。
それでもライドは、突き出された追手の刃を掴み、握って砕く。濡れた手触りは毒だろうか?。手に怪我はないから平気だろうが体内を活性化させ、浄化しておく。ライドは刃を砕いた手を戻すと、先程掴んだ鉄の矢を放り投げる。しかし、矢は横から水鉄砲を受けたかのように横に流れる。
精霊特有の気配はない。しかし、精霊術にしか思えない。
一瞬、追手と目が合う。細面の骨張った頭部に収まるギョロリとした目が印象的な中年の男だ。
離れた闇の中だというのに、その視線ははっきりとライドを見ている。「歪」は認識していない。
口笛。襲撃者はその合図で走り去る。
遠くでロニの声を聞く。ロニのその声は鬨の声だ。早い。獣を倒すだけでなく、この短時間に住民をまとめたか。
ライドはナリアラに走り寄ると、ナリアラの腕の一撃を顔面に受ける。痛痒はない。シャルごと抱え上げて、ナリアラの武器を回収しに走る。細く伸ばした「知覚」を振り回し、逃げた追手が赤大蟻の巣を目指していることを確認する。
「シャルが舌をかまないようにしてくれ。これから赤大蟻を解放する。作戦変更だ。向こうで話す。」
「クレイルかっ!?。」
ライドの目だの口だの乱暴に叩くナリアラは、そこで初めて自分を肩に担ぐ相手に気がついたようだ。ナリアラは左手にシャル、右脇にライドの頭を抱える形だ。ライドは左手でナリアラの両膝の下に左腕を通しで固定している。ナリアラが暴れようが、太ももを抑えてしまえばナリアラ程度の身体機能で解けはしない。
女の匂いがする。その体温と共に場違いな感想を抱く。
湧き上がったのは若者らしい衝動だが、自分の中から湧き上がったかと思うと驚く。やはり、情緒が衝動に左右されている、
ライドが走り出すと、ナリアラは進行方向に背を向けてシャルを抱える。自分の体を風除けにして、シャルの呼吸を助ける為だ。ライドの移動速度は、風の壁を越えないまでも、かなり早い。森の中、紐状とはいえ、「知覚」距離がなせる技だ。木々を避けて凹凸のある坂を駆ける。手前から辺りの木々や岩を弾き飛ばして急速停止の為に足を踏ん張る。
ナリアラを襲っていた襲撃者は、赤大蟻の解放に同時に人手を割かなかった。相手の事情はわからない。
赤大蟻の入り口に戻ったライドは、中途半端に岩の影に隠れるミンウの前にナリアラを放ると、手の甲を上に振り抜くように身体を斜めに向けて壁を殴る。
鬨の声からざっと「86」。しかし、後「60」数える前に、ロニは包囲の前衛と接触する。包囲は引く気はないようだ。ロニの判断は多くの住民置き去りにする可能性があった。しかし、走り抜けるなら、確実に包囲を抜ける選択肢だ。
その判断を信じるなら、赤大蟻の解放の頃合いは悪くない。そして、数を数える速さは人まちまちだ。ライドは行動を決意する。
理想の一撃。上に200メールは続く壁がすり鉢状に砕け、木々の中に降り注ぐ。絶壁に囲われたこの里に溢れた赤大蟻は、包囲を抜けない限り、別の場所には展開できない。すぐに砕けた岩の間から、強烈な蟻酸の臭いと共にガサガサ音を立てる個体が現れる。それは凄まじい速さで、壁から溢れる。
篝火が赤大蟻に倒されて消える。
「シャルの容体は?。」
「段々落ち着いてきたよ。軽い神経毒の類だね。」
ライドの問いにナリアラが距離を取りながら答える。
理由は分かる。篝火が消える前、照らし出されたライドは裸だ。奥から現れたミンウも目を丸くする。何故裸なのかと。
『眩しかったぞ。おぉ。岩壁が・・・。言葉に詰まる光景だ。でも色々聞くのは後だ。』
「まだ終わった合図は出してないぞ?。無事か?。」
『結構明るくなったよ。ライドの光は。まあ、その程度だから、確かに微量なんだろうけどね。これからどうする?。』
「予定通り穴に向かう。今ナリアラは斧槍が振るえない。連れて行く。ミンウには後で説明する。」
『まあ、冷静で何よりだ。ロニ嬢は?』
「もう移動している。あの鬨の声は合図だったらしい。この闇の中だが、ランタンをつけて強行している。」
ライドは篝火を手で振り払うと、ミンウを隣に引き寄せる。
「くっつくなっ!。裸の変人にくっつかれたくねぇよっ!。」
「我慢しろ。」
騒ぐミンウと対象的に、ナリアラは立ち上がって、斧槍を背中に括り付ける。シャルを抱えたまま器用なものだ。右腕の刃は取り除かれ、それなりの量の血抜きをしたようだ。毒があったのか、警戒してかはわからない。しかし、その腕の止血も済んでいる。回復速度が異常だ。
「夜だが見えるか?。」
「気配は分かるよ。でも何で赤大蟻はが避けてくかね。壁でもあるのかい?。」
ナリアラの指摘の通り、赤大蟻はすぐ隣のライドを避けて広がる。既に見上げる程の大きな塊がひしめいている。
「威嚇を張っていた。万が一、岩をどかしてもすぐに出られないように。こんな使い方になるとは思わなかったがな。」
「威嚇を?。張る?。」
ナリアラの怪訝な声が、ソドムの声と重なる。ここでは「威嚇」とは言わないのだろうか?。
「獣の誘導は狩の基本だ。ロニに渡して貰った馬車の周囲にも仕掛けた。盗まれるとことだからな。」
ライドの言葉にナリアラがため息をつく。そして「助かった。ありがとよ。」と苦い声を出す。
「だが、この先シャルを預けられる人手がなければ、ナリアラは戦えずに死ぬ。分かったと思うが。どうする気だ?。」
「お前の気にすることじゃない。」
「その腕の傷は狙われてたな?。向こうにはナリアラの癖を知る者がいる。自分が死んだ後のことは諦めたのか?。」
ナリアラが苛々と周囲を見渡す。痛い質問だろう。しかし、避けようにも今のナリアラに赤大蟻の群れは突破できない。軟禁も同然だ。
「君を頼れとでも?。明日は敵か味方か分からない相手をかい?。それとも私を適当な甘言で釣って、足元でも見れば前払いでいい目を見られるとか?。だとしたら生憎だね。裸で待っても坊やにはやらないよ。」
一瞬、視線がライドの下に向いたようだ。少し方向を変えて隠す。
ナリアラの頭を少し屈んで齧れる位置に赤大蟻の巨大な顎が幾つも通り過ぎる。気持ちの良いものではないだろう。ナリアラの眉も曇りっぱなしだ。撒き散らされる体液が、地面を焼き、音を立てる。酸の分泌量は赤大蟻の表面を多い続けるようで、その分泌量は異常だ。威嚇の範囲も大分小さくなってきた。
もう赤大蟻の敵意はライドやナリアラを捕らえている。背中を押しつけるミンウが、時折すぐ頭上の音に情けない声を上げる。話す時間は終わりを迎える。
「服は風で千切れた。意図してない。」
「あの音の主かい。それでもいい気分じゃないんだ。追求は勘弁しとくれ。」
「提案がある。が、意味ないか。」
「私は受けるつもりないよ。」
命の舵取りを他人に委ねるようでは、大人としてどうかと思うが、人の多い此処では「信頼」の価値は相当高いと実感する。「信頼」のない相手に対しては寝食を共にするのも神経をすり減らす。特に社会的に「信頼」の劣る者にとっては。
社会的に「信頼」の勝る相手が劣る相手を蹴落とすのは簡単なのだろうか。特に違和感を覚えるのは社会的地位に対する大衆の「信頼」の高さだ。個人を表すものではない筈なのに個人への作用が高すぎる。社会的地位が高い者はそれだけ多くの情報に接する者。その者が判断した内容なら、従えば間違いは少ない。そんな大衆化した人々の盲目だ。
ライドはたった今、岩壁をすり鉢状に数百メール四散させることで、ナリアラが簡単に制圧できない存在であることを示してしまった。警戒されるのは当然か。更なる信用の低下にはこの格好も一役買っているだろう。我が身を振り返り、ライドを首を振る。
「穴に案内しとくれ。そして、その先は先行させて貰うよ。クレイルは外で蟻の相手。ついてくるなってことさ。」
「分かった。」
他の選択肢がない。
ナリアラはすぐ脇を走り去る赤大蟻を忌々しげに見ながら、ライドから精一杯離れた位置に立つ。
闇の中、包囲のあたりから立て続けに振動が響く。まるで重戦士の衝撃波のような音だ。それが数十。止まることなく重なり続ける。押し寄せる微風には蟻酸と共に焦臭さが混じる。包囲軍対赤大蟻の開戦だ。しかし、開始早々押し留めている雰囲気ではない。辛うじて赤大蟻の突撃を持たせているように感じる。
赤大蟻の移動速度は馬車の比ではない。ロニは既に軍の包囲より安全な後ろにいるようだが、住民がどれだけ間に合ったのかは分かりに難い。
ただ、ナリアラに必要な時間は稼げた。紐状の「知覚」範囲を振り回すだけでは見落としもありそうだが、実式の「捜査」の担当者は撤退した。
監視の目が失われた。
「地下なら潜伏に慣れればそれなりの期間、安全を確保できる。まずはそこで次の策を練ってくれ。俺はこの里で子供を2人も犠牲にした。取り零す相手はもう要らない。」
そういうと、ミンウを片手で背中に乗せると蟻の脚を掴んで、進行方向に投げる。体勢を崩し転がすと言った方が正しい。体重差があり過ぎて、足元を掴まなくては、持ち上げると足元が滑ってしまう。転がる大蟻のトゲの多い足が、数匹と絡まる。この密度が、折角の大蟻の速度を殺している。酸が手に付くが問題はないようだ。
背後でナリアラが威嚇して道を作らないのかと問うが、「威嚇」は未知の、知らない何かに対する恐怖を煽るものだ。先に仕掛けておかねば意味がない。
ここで使えば、効果は「挑発」だ。
「出来た道を進む。背後で互いを邪魔する蟻より早くな。裸で悪いがあまり離れるなよ。」
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