第29話

「こんなところにまでこないで」

 愛歌が腕を組みながら言う。六破はチケットを差し出した。

「安いアパートを見つけた。沖縄だよ。海が綺麗で、風も気持ちいい、快適なところだ。一緒に暮らそうよ」

 鼻で笑ってそのチケットを地面に放る愛歌。

「ねぇ愛歌ちゃん。俺は君を愛しているんだ」

「私は愛していない。私が愛しているのは、信二と新花だけ」

 六破はため息をついた。

「写真の意味はわかるよね」

 ボールを持って、木の陰からこちらを見ている小さな子どもに六破は目を向けた。

 何もわかっていないのだろう。きょとんとした目で首を傾げている。愛歌は下唇を噛んだ。

「新花ちゃんと一緒でもいい。まだ何も覚えていないだろうから、俺が新しい父親になっても……」

 愛歌は瞬間的に六破を殴った。

「私を本当に愛しているならそんなことは言えない。もうわかった。私の過ちはあなたと出会ってしまったこと。ここに残ろうが、沖縄に連れていかれようが、信二には凄い負担がかかる。新花には、もっと」

「俺が君を幸せにするよ」

「私は十分に幸せだった。これ以上はないくらい」

 愛歌が醸し出した不穏な佇まいに六破は困惑を隠せない。

「終わらせないと」

「そうだ。信二との関係を終わらせて――」

「私、死ぬ」

「は?」

 六破は口をだらしなく開けて固まった。

「ねぇ……遺書にあなたのことでも書いてみようかなって思うの」

 六破の顔はみるみるうちに青ざめ、愛歌を自分に近づけようと手を伸ばした。しかし、愛歌は冷淡にその手を弾くと、新花を探して抱きしめた。

「ダメだ、愛歌ちゃんがいなくなるなんてダメだ、そんなの……どうやって生きていけば」

「二人はしっかりと生きてくれるはず。信二は私に依存してるから、ちょっと悲しんじゃうかもだけど」

 悲しそうに微笑む愛歌。

「違う、俺がどうやって生きていけばいいかって話だ!」

 愛歌は新花を強く抱きしめた。

「新花、ごめんね。成長を見てあげられなくて。反抗期だって、嫌だ嫌だって言ってたけど、そんなことない。ちゃんと反抗して、いろんなことをたくさん考えて……いつか私のわがままも知ってくれたら嬉しい」

 後悔と諦めが混ざり、愛歌の笑顔は震えていた。流れた涙をすぐに手で拭き、立ち上がって新花の手を握る。

「さぁ、帰ろうか」

「違う、俺はどうなる。俺を置いていくの。ねぇ、愛歌ちゃん!」

 愛歌は振り返った。

「お前のせいだ。私と一緒にいたいなら、てめえもさっさと死ねよ」


 怒りはどこかを通り過ぎていた。それは、六破の言動の阿保らしさからか、知りたかった愛歌の思いが知れたからかはわからなかった。ただ、怒りとはもっと別の、何にも汚染されていない心の粗が感情として初めて表に出ている感覚があった。

 六破自身も、今までこの記憶を鮮明に留めつつも、思い返すことはしなかったのだろう。実際に言葉に出してみて、それが自らの過ちを浮き彫りにしていることに気がついた。脳内で反響する自分の言葉が記憶と混ざり合い、唇が小刻みに揺れ出す。

「俺だ。俺の頭がおかしかった……」

 信二は拳を握りしめてわなわなと震わせた。

 今度は誰も信二を止めなかった。その拳は殴るためのものではなかったからだ。拳だけでなく、同じように歯も噛みしめられ、瞳も感情を堪えるように凝固していた。

「そうだよ……そうなんだよ」

 新花も激しく涙を流す。

 浜辺の奥から、老年刑事がゆっくりと歩いてきていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る