第27話
意外なことに、六破は名前も聞いたことがない島に住んでいるわけではなく、名護市の海沿いにあるアパートに滞在していた。より調べてみると、髪型髪色以外は名前も顔も生活態度も変わっていないよう。無防備な態度が癪に障った。悪事を働いて逃げ回る生活を送っているはずの男が、ここ沖縄では犯罪者の素顔を隠すことなく平気な顔で生活している。
まだ春だというのに、太陽が爛々と薄い海原に光を差し込んでいる。今日の沖縄は暑かった。近くも遠くも聞こえる波の音。うるさくはない。むしろ静かだ。
「ここで待ってて」
信二は光り輝くナップサックを新花に渡しながら優しく言った。新花は少し食い下がる雰囲気を見せたが、言葉では何も言わずに頷いた。
信二と時約の二人で、古びたアパートの二階、六破の部屋の前に立つ。ドアの前に立つ行為自体は仕事で何度も行ってきた。しかし、今回ほどこのドアが開く意味が大きいものはない。ドアを開けて始まった悲劇を、ドアを開けて終わらせる。
インターホンを鳴らす。
一回では出ない。
気持ちが音に出ないように堪えながらインターホンを連打する。
「はいはーい」
ようやく面倒くさそうな声が部屋の奥から響き、足音が玄関の前にきた。恐らくのぞき穴からこちらを見ている。二人はあらかじめ扉の両脇に立って姿をさらさないようにしていた。
「どちら様?」
先ほどより声がはっきりと聞こえた。このたった一枚の鉄がなくなれば、すぐそこに奴がいる。信二はそっと心臓を押さえた。
「東陸信二だ」
時約が目を文字通り丸くして信二を見た。信二もワンテンポ遅れて自分のとんでもないミスに気がつく。
何言ってんだ?
時約が口をパクパクさせながら喚く。
いきなり本名を言う奴がおるか!
「東陸……?」
幸い六破はまだ感づいていないようだ。素性を隠さず能天気に過ごしているだけはある。名字を聞いただけでは思い出さないのだろう。それはそれで腹が立つが、信二は早速修復を始めた。
「あぁ、すみません。宅急便です」
「東陸!」
いや、六破もそこまで危機察知能力が低い男ではなかった。慌てた足音が玄関から遠ざかっていく。
「ベランダから逃げる気だ!」
時約が叫び、信二が走りだした。
六破は靴下しか履いていない状態のまま、ベランダに飛び出す。ここは二階。多少の恐怖が体に縛りついてきたが、六破は飛んだ。着地に大失敗して地面で悶絶しているところに、信二が全速力でやってきた。
うめきながら六破も走り出す。
「くそが!」
崩れた走りで町の中に逃げ込もうとした六破だったが、そこには時約が待ち構えていた。老年とはいえ時約は柔道黒帯の持ち主だ。明らかに不健康に身を委ねている六破と対峙したならば、高確率で投げ滅ぼせるだろう。
しかし、六破はやけに肩幅の広い老人を視界に入れるとすぐ、その場に並んでいた自転車を一つ掴み、自転車を盾にしたまま時約に突っ込んだ。いくら時約とはいえ、自転車と正面衝突したら痛い。なんとか身を守りつつ自転車の進路を変えたが、自身は倒れ、また六破をそのまま走り去らせてしまった。
「大丈夫ですか?」
「追え!」
信二が数秒遅れて六破を追いかける。
倒れたときにポケットから飛び出たらしい。白い実をつけた綺麗な手鏡が、やや前方で太陽の光を反射させていた。それを拾うために唸りながら立ち上がる時約。痛む体。年齢を言い訳にはしたくないが、体はもう無茶を許してくれない。
すると、手鏡を誰かが拾ってくれた。
「これおっさんの?」
若々しい声に驚いて顔を上げると、そこには金髪に髭を生やした男とその取り巻きたちが立っていた。チェーンやネックレスのおぞましい煌めきのせいで、手鏡の光が弱弱しく見える。
「あぁ」
もう何十年もこういう人間たちと激しい攻防を繰り広げてきた。殴り合ったこともある。だが、それも今は昔。全ての若者を正しい道へ、と意気込んでいた若い頃の活力はもう湧き出てこない。どれだけ仕事をしても、必ず正しい道を外れる若者が出てきてしまう。そもそも、正しい道とはなんだ? 俺は半生をかけて、自分だけの意見を傲慢に社会に押しつけていただけなのかもしれない。
不意にこみ上げた自分の刑事人生への懐疑。嘲笑しながらちらりと横を見ると、信二がやや六破に引き離されている姿が映った。六破には危機感もあるし、土地勘もある。このままでは逃げられてしまうだろう。
金髪の男が手鏡を渡そうと前に出ると、再び鏡が光を反射させ、時約の目をくらました。
「あっ、すいません」
男たち全員が一斉に謝った。
時約も男たちも、まさか全員の声が揃うとは思わず、笑ってしまった。
自分の役割は終わりかけている。だが、人生をかけた自分の生き様は、時代に染み込んでいつまでも残り続ける。自分を舐めるな。終わりを求めるな。やるべきだと思ったことをやり続けるべきだ。そうすれば、目には見えなくても、世界の変遷に自分がどう関わったかを感じることができるだろう。俺は刑事であり、正義という曖昧な概念を世界中に繋げる使命を持っている。
時約は言った。
「一つ、頼みがあるんだが……」
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