第9話

 一月九日が愛歌の命日である。愛歌の両親は既に亡くなっており、親戚とは疎遠。  お墓の前には二人だけしかいなかった。

 ひしゃくで墓石に水をかけ、花を差し替える。線香に火をつけて合掌。もう九回目になるこの行為は既に手慣れたものである。ただ、今回は決定的に異なる点がある。それは、信二の周りでうろちょろするカラフルなナップサックだ。

 墓地まで連れてくる気はなかったが、何度家に押し戻してもくっついてくるので(最終的にはクローゼットに閉じ込めるという荒業に出たが、それでも諦めずに中から激突を繰り返しやがったので)、仕方なく連れてきた。墓場の静かなる空気を徹底的に壊していく能天気な振舞いは、最初こそ二人を大変困らせたが、次第にその存在が心の負担を減らしてくれていることに気がつき、むしろありがたく感じ始めていた。

「これがきっかけかもね」

 新花が呟く。

「どうかな……でも、愛歌は笑ってくれそうだ」

 新花は肩を落とした。期待を込めて返答を待つ。その度にずれた答えが返ってくる。このじれったさ、悲しさ。

 信二も肩を落とした。

 これがきっかけなわけがない。

 もう一度墓石にひしゃくで水をかけると、ナップサックが宙に浮かんで水を舐めようとした。慌てて首根っこを掴む信二。

「おい、濡れるだろ」

 ふてくされたように、あるいは怒ったようにナップサックはトマト色に染まった。赤系統の色になったときだけ、上向きの矢印模様の色が白色に変わることに、ついこの間気がついた。ことあるごとに色を変化させるナップサックだが、象徴されるのはいつでもこの矢印。空に向かって矢先を伸ばすその姿。

 線香に火をつけ、目を閉じて合掌する。信二は暗闇の中で愛歌を探した。そうすると、いつも愛歌がこちらを向いて笑いかけてくれる。だが、直近までまばゆく光る誰かさんを見つめていたせいか、瞳の裏にはぼやけた閃光が絶えず運動していて、愛する妻の姿が見えない。眉間に力を込めてみても、光が増えて悪化するばかり。やっぱり光るナップサックなんかを連れてくるんじゃなかった!

 不意に新花の穏やかな息遣いがはっきりと右耳に入り込んだ。その息遣いが、やけに信二の心を潤した。目の中のまばゆいホタルがどこかに消え、信二の前にはっきりとした一本道が姿を現した。一ミリもずれていない、一かけらも欠けていない、どこか見覚えのある道。

 新花は目を開けた。横を見ると、信二はまだ目をつぶっている。

 目を開けない。

 目を閉じたまま。

「パパ」

 躊躇いがちに声をかけた。二人で会話をしているのかもしれないが、あまりにも長すぎる。

「パパ!」

「わかってるよ、新花」

「ん?」

 信二は目を開けていた。

「話すから」

 新花の目が大きく見開かれた。無意識的にナップサックを抱きしめる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る