第7話
信二は娘を見送りながら首を傾げた。
朝食を食べながら、箸を持つ自らの腕が重いのを感じる。
昨日は散々だった。きっかけが電車に乗らない選択をし、近場だと思わせておいてそこからまさかのバス乗り継ぎ。県を何個も何個もまたいで、気づいたら富山県。帰りのバスと電車がなくなり、タクシーで帰る羽目に。
いや、一昨日も酷かったぞ。確か、長崎で昼食を食べるのに夢中になっていたところ、きっかけを逃がしてしまい、大捜索と大追撃を長時間行うことになってしまったのだ。結局捕まえはできたが、全ての体力を使い切り、なんて不毛な時間だったのかと怒りがとまらなかった。……まぁ、これは俺が悪いわけだが。
ともかく、今日同じようなことをされたらぶっ倒れる自信がある。
憂鬱な気持ちで釣り堀に向かう。信二たち釣り手には定休がない。「今日は釣れないな」と釣り師が言ってくれた日が休日になる。今日がその日であってほしい。
釣り堀に入ると信二の遅刻を咎めるように女性が腰に手を置いて待っていた。そしてすぐに言う。
「もう釣れてるよ」
……。
女性が持ってきたかごの中でナップサックが暴れていた。これが今日のきっかけらしい。赤、青、黒。数秒ごとにナップサックの色が変わり、凝視していると目がどうかしてしまいそうだ。また、そのナップサックには上向きの矢印模様がプリントされており、そこだけは深紅色のまま変わらない。
「眩しい」
「街中でこれ背負っている奴いたら嫌ね」
かごの蓋を開けると、水不足の犬のような荒い息をしながらナップサックが飛び出てきた。女性が掴むよりも早く飛び出たので、逃げられることを恐れたが、その心配は無用であった。なぜなら、ナップサックはまっすぐに信二の元に駆け寄ったからだ。自らの紐を信二の腕にからませてなすりつく。
「ん?」
女性は首を傾げた。
「ん?」
信二は唇を前に出した。
ナップサックは相変わらずコロコロと色を変えている。女性が呟いた。
「もしかしてこれ……信二さんのきっかけ?」
日程的には一日の休暇を手に入れたことになるわけだが、肉体的な疲労よりも厄介な問題に頭を悩ませることになったわけだから、良かったのか悪かったのかわからない。投げ飛ばしても蹴り飛ばしてもナップサックは喜んで帰ってくる。
無視することも選択肢としてはある。実際に、具現化したきっかけを受け取っても無視したり、切り刻んで捨ててしまう人もいる。家の柱に縛ってついてこれないようにしたり、中には土の中に埋めてしまった輩もいるという。それが何かのきっかけだったと言われればそれまでだが、きっかけをどうするかは自分の裁量に全て委ねられているわけで、今の信二のようにわざわざ悩む必要があるわけではない。
だけど、気になる。自分が何を望み、どんなきっかけを抱いたのか。いざ手元にきっかけがあると期待がとまらない。きっかけは今考えたってわからないと、何度も何度も自分で言ってきたはずなのだが……。
ナップサックは矢印を空に向けながら、ぴょこぴょこと信二の周りを跳ねている。
黙ったまま座っている信二の傍で竿の整備をしていた女性だが、何を思ったか、不意に口を開いた。
「ねえ」
信二は顔を上げた。
「……そろそろ話すべきよ。愛歌さんのこと。隠してるんでしょ」
「そのためのきっかけかな」
「それはわからないわ。きっかけを理由に何かをしようとしてはダメよ。きっかけは後からの理由づけに使うんだから。きっかけを勇気にして全てをやるの」
「……」
「いつかは話す日がくる。真実を話せば楽になる」
「俺が楽になっても、娘が苦しむ」
「二人とも楽になるわ」
「まさか。そんなことはない」
女性がため息をつき、それに続いて信二もため息をつく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます