第3話 愛は倒錯を重ねて

ウサミがイザベラになる瞬間。

練り香水を指で舐め取り、薄く首や手首に伸ばす。

暗い照明の中でも美しく輝ける様に、普段よりも厚く化粧を塗る。

眼鏡は客のウケが悪いので、コンタクトに変えた。

彼女は変身をする間、決まって彼女の事を想う。

「鉄火のマリちゃん…」

鉄火のマリちゃん。彼女は生まれつきのレズビアンという訳ではなく、人並みに男との付き合いもしてきた。

やはり命を救われた経験が、彼女を永遠のヒーロー像として崇める事に繋がり、恋心へと昇華したのだろう。或いは、陳腐な退化。


彼女が再就職先に飲み屋を選択したのも、もしかしたら鉄火のマリちゃんの行方が知れるかもしれないと思っての事だった。


バイガイマンの訃報には驚いた。

それから、当然の報いだと思った。

自身や生徒、町の住民を何度も困らせる愉快犯。愉快犯で済まされない様な場面も多々あった。

マリちゃんや、アイバイマンがいなければ落としていた命もあるかも知れない。


しかしながらーー。

前職は教師、人に物を教える立場の人間としては、この単純すぎる問題の解決法にいささかの疑問を感じずにはいられなかった。

バイガイマンが人を困らせる。

何故?

人々がバイガイマンを嫌う理由。

バイガイマンが人を困らせる理由。

アイバイマンが賞賛されていた理由。


結局は人々の自己保身が招いた結果ではないかと思った。

バイガイマンは、単にそれでしかコミュニケーションを取れなかっただけではないかと。

暴力に暴力で贖う事に本質的な解決などあるのだろうか。

まあ、今となっては、どうでもいい事だ。

一昨日店に来た、元教え子のロバオ君の顔を思い出して、吐気が込み上げる。

「あの子の鼻の穴、臭いのよねえ……」

親か誰か、気付かせてやれよ。

もっとも、私も何も言えない人間側なんだけども。


空はまだ明るい。ウサミは青空を眺めるのが好きだった。平和の象徴であると感じたし、どこかでマリちゃんが暮らしているんだと再認識出来るから。

額の汗を、前髪が崩れない様にそっと拭う。指先が少し冷たい。


以前勤めていた学校から数キロ先に、飲み屋街がある。

何となく空を見上げながら歩いていると、空を走る物体が見える。


「サラヘ! ウサミ先生!」

サムギョプサルマンだった。

キラキラした笑顔に釣られてつい愛想笑いをするが、同時にバイガイマンの顔が脳裏をよぎり、不完全な笑顔になってしまった。

「どうも、こんにちは、いえ、こんばんは、かな。パトロール中ですか?」


「サラヘ! そうだよー、悪はバイガイマンだけじゃないからね、市民の安全を守る事が、僕の使命さ!」

「あ、バイガイマンの事、ネットで見ました。その……」

「なに、許可は降りてたんだ。シャムおじさんからね。でも泳がせてた。僕も無駄な殺生は嫌だからね。子どもの教育にも良くない。でも彼は改心しなかった。だから仕方ない」

それじゃ!

サムギョプサルマンはどこかへ飛び立っていった。バイガイ王国の見える方角へ。


「サムギョプサルマン、ねえ…」

ウサミは無意識に呟いた。

正義のヒーローである事には、客観的に見て間違いがないのだろうが、私にはどうも…。

マリちゃんの様には、未だに親しみが持てずにいる。

「マリちゃん、貴女ならどう思うかしら」

彼女と会話をしたい。白い肌や、美しい黒い髪に触れたいと思った。

お店に来ればいいな、と殆ど妄想に近い希望を胸に、今日もウサミはイザベラとなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る