第7話 ネットは危険なものになりうる

 実緒は、もっともだとうなづいた。

 アルバイトのミスは、店長のミスであり、責められるのは店長である。

 このご時世で、性質(たち)の悪い客だったら、会社側には内緒にしてやると脅され、店長に損害賠償をさせたりするらしい。

 要するに、信田の醜態は店長の責任でもあるのだ。

「信田さん、一応今は、佐伯さんに補助にまわってもらってるけど、どういう具合かな?」

 信田は、私が自分の補助をさせられているということに気付かず、また自己中心のわけのわからないことを言いだした。

「私、この佐伯野郎、大嫌い、まあ向こうもだけど」

 私も店長もポカンとして、宇宙人を見るような目で信田を見ている。

 そして、宙を向いてにやにやしながら、発言した。

「私には、三人の息子がいる。この佐伯よりもずっと、きちんとしてるよ」

 どうやら、信田は勘違いしているらしい。

 実緒は、信田の尻ぬぐいをさせられているのに、信田はそれを、実緒自身の仕事だと信じて疑わないのだ。

 やはり、信田は堅気仕事をしたことがないので、協力して仕事をするということがわからないらしい。

 実緒は、背筋がゾ~ッとする思いだった。

‘堕ちるつもりか同じ世界へと 戻るしかない元の世界へと’

 綱渡りの女稼業の一歩、いや半歩先は、まっさかさまの闇の下

 実緒は、信田とは住んでいる世界が、根本的に違うと思った。

 また、信田は地獄へと舞い戻っていくのだろうか。哀れな女だ。


 ひょっとして、佐伯は信田にとって、地獄に垂らされた一本の‘蜘蛛の糸’(著 芥川龍之介)のような救いだったのかもしれない。

 地獄で苦しむ盗賊がいた。

 しかし、この盗賊は地上でいいことをした。

 それは、蜘蛛をいじめている子供から、救ってやったことだった。

 それを見ていたお釈迦様は、この盗賊はひょっとして極楽に行ける見込みがあるのかもしれない慈悲深い男だと、地獄の火の中でもだえ苦しむ盗賊を哀れに思って、極楽から一本の蜘蛛の糸を垂らしてくれた。

 盗賊は、これ幸いとばかり、糸をよじ登っていった。

 半ばよじ登ったが、下を見ると他の地獄にいる人も、われもわれもとばかり糸とすがっているのだ。

 こりゃやばい、糸が切れてしまう。

「おーい、お前ら降りろ。お前らがよじ登ると、糸が切れてしまうじゃないか」

 これを聞いたお釈迦様は、ああ、この盗賊は自分の利益しか考えていない。こんな人は、極楽に行く資格がないと、天国から垂らした糸を、っ二つに切ってしまった。

 盗賊は元の地獄に逆戻りだ。

 その姿を、お釈迦様は悲しそうに眺め、背を向けて去っていった。

 この場合、信田が盗賊、そしてお釈迦様が垂らした蜘蛛の糸が実緒かもしれない。


 ある日、信田は風邪をこじらせたのか、仕事を放棄し、店長から解雇を言い渡された。とうとう、バッテリー切れがきたのだろうか。

「信田さん、辞めたよ。もう明日から来ないよ」という言葉を聞いた時、皆からほっとしたような安堵感がもれた。

 信田は、救いの糸を自ら断ち切ってしまったのだった。

 やはり、信田は私とは別世界の人間でしかなかったのだ。


「ねえ、実緒姉ちゃん聞いて、この前の子の話だけど」

 夕食のとき、奈緒が愚痴をこぼしてきた。

 奈緒は、実緒にとっては姪にあたるが、やはりかわいい。

「この前の子って、実緒ちゃんをクラブに誘って来た子のことかな?

 その子のクラスメートが、初対面の実緒ちゃんに、その子の愚痴をこぼしていたというちょっと困ったちゃんのことでしょう」

「そうよ。さすが奈緒さん、よく覚えていてくれてるわね。その子がさ、ちょっとショックなことを言いだしたの」

 実緒の体験上、たぶん困ったちゃんは精神不安定なのだろう。

「その子の話によると、この前マックしたクラスメートがもう、私の顔も見たくないなんて言ってるのよ」

 奈緒が返答した。

「その現場を見たわけでもなし、困ったちゃんが勝手に言ってるだけでしょう。

 気にしない方がいいわよ。これって、精神不安定の特徴なの。多分、困ったちゃんは、自分が悪口を言われてることを知ってるでしょう。

 だから、先手を打って、人にケンカを売ったり、第三者が悪口を言っているのだと被害妄想になり、その結果、身近な人を傷つけるという特徴があるのよ」

 このことは、実緒が信田から学んだことである。

 実緒は、思い切って奈緒に訴えた。

「もう、その子とは絶交しちゃったほうがいいかな?」

「そうねえ、実緒ちゃんがどこまでその子を理解して、許せるかにかかっているわ。私だったら、個人的友人としてつきあうのは、無理でしょうね。

 まあ、同じクラスや職場だったら、必要の範囲で接するしかないわね」

 実緒は、ふと思う。

 もし、そんな子が増えてきたら、日本の未来はどうなるのだろう。

 しかし、なかには自分の意志ではなくて、だまされたり、暴力や強制で麻薬を打たれた人もいる。

 中高生の間では、出会い系サイトなどで大麻を手に入れるグループも多いという。

 なかには、女性をドラッグ漬けにして、売春させその売り上げをくすねる人もいるという。

 国会議員の発言では、そういった言葉でホテルに連れ込まれ、DVDを撮影されている女子が増加傾向にあるという。

 実は、実緒も出会い系サイトとは程遠いが、歌詞ネットでコメントをもらったことがある。

 歌詞ネットというのは、素人が歌詞を投稿して読者からコメントを頂くという、コーナーだがときどき「あなたの歌詞をすべて読ませて頂きました」ここまでは、嬉しいコメントだが

「あなたの輪郭というものが、見え始めてきました。あなたが、楽しんで歌詞を書いていますね」

 少し不気味だ。自分のベースにもっていこうとしているな。

「しかし、あなたの歌詞は応援歌にはなっていないと思います」

 個人的な批評であるが、少々攻撃的でもある。

「僕も誤解されやすい人間ですが、あなたには頑張ってほしいと思います」

 誤解されやすいということを、明記しているということは、他人からは自分の真意が伝わらず、悪意に解釈されているいじめられっ子という見方もできるだろう。

 口下手、コミュニケーション障害気味の男性かもしれない。

 まあ、年齢は三十五歳前後だろう。

 顔が見えない分だけ、長々と訴えられると怖ささえ感じる。

 実緒の体験だと、そういった男性は、大抵他人から悪意に解釈され、損な立場に追いやられてきた、かわいそうな人なのかもしれない。

 その欲求不満とこの世の恨みの感情を、ネット上の実緒にぶつけているのかもしれない。

 とにかくネットというのは、特殊な世界、異次元空間なのかもしれない。

 楽しみだったらいいけれど、それにどっぷりのめり込むのは危険である。


「ねえ、奈緒姉さんはネット上の人に会いに行ったことがある?」

 ふと実緒は奈緒が被害にあったらと、心配になってきた。

「ないよというより、それが小学生の場合、保護者同伴でなくてはいけなかったが、それもこの頃は、危険だから規制されているみたい。

 ネット上で会いたい人がいれば、たとえ女だと名乗っていても正体はわからないわ。だから、必ず私に相談しなさいね」

「はいはい、全く死んだママ同様、奈緒姉さんは心配性なんだから」

 ふと、心配性だった母親の気持ちが理解できるような気がした。

 娘が可愛いあまりに、身に降りかかる不幸ばかりを考えてしまう。

 女は弱し、しかし母は強しというが、子を愛するあまりに、たくましく生きることができるのだと痛感させられた。

「ねえ、奈緒姉さんの友達には、いわゆる出会い系の被害にあったりした子っているの?」

実緒は、心配になって聞いてみた。

 この年頃は、友人と同じ行動をとらなければ疎外されるのではないかという恐怖感から、内心嫌だと思っててもそれに合わせようとする。

 奈緒はそういったタイプではなく、どちらかというと一匹狼だと思うが、しかし孤独に弱いのが人情である。

 十代の子の人情というのは、自分に親切にして周りとうまくいってる子を取り入れるが、そうでない子を疎外したりする。

 人の本質などあまり見ようとはしない、自分の都合でしかない。

「さあ、わからない。でも、たとえばレイプされたとしても、そんなことそう言えるものじゃないし、ああ、そういえば担任の話によると、一週間前から家出してる子がいるの。何が原因かは私にもわからないけどね。

 その子のおかんは、病気で寝込んでるの。なにかあったら、連絡してくれとクラス全員に言ってたわ」

 実緒の推理だと、女性が突然家出をしたりするのは、裏に男が糸を引いているケースが多い。もちろん、家出中は家族や友人にも連絡させなくして周りから、距離を置くように仕向ける。

 家出というのは、目的先があるからだ。

 その目的先、未来を俺が担ってやるという、甘い言葉をかけてくる男がいて、その男に身を任せたというパターンが多い。

 まあ、水商売が関の山であるが、客のツケを払えなかったら、風俗行きで逃げないよう、覚醒剤を打たれる危険性大である。

「ねえ、その子、美人タイプのアイドルタイプ?」

「はっきり言って、ごく普通の平凡な子よ。演劇部に入ってるって聞いたわ」

 ごく普通の平凡な子というのが、いちばん危ない。

「その子とは、つきあいがあるの?」

「特にないわ。奈緒ねえちゃん、もしかして私も関係があると思っているの?」

「まあ、そこまでは思ってないけど、でもね、実緒ちゃんぐらいの年齢は、世間知らずの子が多いじゃない。

 たとえば、アウトローにさえなれば、組から給料が出るなんて信じ込み、麻薬に手を出す高校生も存在するそうよ」

 実緒は共感するように言った。

「ああ、聞いたことある。真夜中のクラブって危ないらしいわ。この頃、アウトローでもインテリが多いから、一目見ただけではわからないというわね。

 その反対に、暴走族上がりとかは、刑務所から出所したとたんに破門というケースが多いわ」

 奈緒は嘆くように言った。

「それじゃあ、ドラマの‘ムショぼけ’とまるっきり同じじゃない。

 利用するだけ利用して、あとは使い捨ておしぼりと同じね」

 しかし、奈緒は実緒に対して、あの子とつき合ってはダメだとは言わないようにしようと思う。

 世間でいわれる困った人というのは、本人が現在非常に困った状況に置かれてる人であり、傷ついた人をさらに傷つけるようなことをしてはならない。

 どんな子でも長所はあるし、第一自分自身も家庭環境など、まわりの環境が変わって今までの普通が普通でなくなり、日常生活が変化するにつれて、悪くなるといったパターンはどこにでも存在する。

「実は、私昨日健康診断を受けに、病院に行ったけど、インテリアウトローらしき人に声をかけられたの。もう見たってわからないわ。イタリア製のスーツに身を包み、勉強一筋のように知的なムードを漂わせてるの。

 これじゃあ、騙されるなという方がムリよ」


 

 


 

 

 

 

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