第6話 世間の綱渡りから外れると ワナに堕ちる

 なかには、何年もかかって刑事裁判をし、無罪を勝ち取った人もいる。

 しかし、そののちの人生が今まで通りの平穏な生活を送ることができるということは決してない。

 痴漢の嫌疑をかけられたときから、会社は退職金と引き換えに解雇され、家族とはぎくしゃくする場合が多い。

 ましてや、普段から、素行の悪い人、浮気や遊びをしていた人ほど、家族との関係は悪化する一方である。

 満員電車に揺られてる男性は、いつこの危険にさらされるかわからない。

(参考図書「僕は痴漢じゃない」新潮文庫 著 鈴木 健夫)

 決して、対岸の火事ではないのである。


 しかし、痴漢の冤罪よりも、強盗の冤罪の方が深刻である。

 実緒は、五年前に元公務員から聞いた話だ。

 深夜の繁華街を歩いていると、いきなり手錠をかけられた(手錠というのは、もがけばもがくほど手首に食い込んでいる)

 そして警察に連れていかれ、強盗前科二犯の容疑をかけられ、違いますというと机や椅子で殴られ、深夜でも寝られないように、懐中電灯を目に当てられるほどの拷問にも似た仕打ちを受け、拘置所に入れられた。

 ところが、ラッキーなことに、拘置所に入れられた二日目に、真犯人が見つかったにも関わらず、警察側からは、規則としてあと二週間入っとけと言われー法的には拘置期間は十五日と決められているー入らされたが、同質がアウトローで、三食支給される弁当をみな奪われ、餓死寸前だったという。

 結局その人は、公務員も退職せざると得なくなったという。

 まことに悲劇的な話である。

 人間、一寸先は闇、綱渡りの一歩、いや半歩手前は奈落の底が口を開けて待っている。


 信田もその、綱渡りの足を踏み外した失敗者だったのかもしれない。

 最近は、店全員の人が、信田を嫌うを通り越し、気味が悪いといって近づきもしない。

 海田が声をかけてきた。

「皆、佐伯さんに同情の声があがってるよ。可哀そう、私だったら真似できないって。どうやったら我慢できるか、その秘訣教えてよ」

「まあ、ひとつは好奇心ね。麻薬中毒の女性が、どういう行動をとるかということを、知りたかったし、世間知らずでいてはいけないでしょう。

 人間、いつ何時、何が起こるかわからない。一寸先は闇だからね」

 海田が納得したように答えた。

「確かにそうね。今、ご主人がリストラなどで風俗に堕ちる奥さんが多いというわ。そういえば、繁華街の裏通りのホテル街というと、東北弁の人が多いわね」

「まあ、だいたい東北や北陸の女性ほど関西の風俗、反対に関西や九州の女性は関東の風俗、歌舞伎町に堕ちる場合が多いらしいね。

 人間、一寸先は闇というでしょう。いろんな人を見とかないとね」

 海田は感心したように言った。

「そりゃ、確かに理屈はそうよ。でも、たいていそういう人は、苦労人が多いというじゃない。たとえば、昔病弱だった人が、必死で努力して医者になったとか、十代の頃、不良だった人が大人になって、今までの体験を生かし、更生活動をしているとか、実緒さんは、そういう過去があったわけじゃないでしょう」

「確かに私は、そういう過去はないわ。しかし、私の知り合いに一人いたの」

「知り合いというだけで、親戚縁者とかでもないんでしょう」

「まあね。私は昔、同い年の元アパレル企業のOLが、美容学校にいく費用を捻出するのが目的で、親には内緒で地元のスナックでバイトしてたの。

 初めはよかったけど、ママさんの態度が嫌で、私に嫌な客ばかり押し付けてくると愚痴るようになったの。彼女はその時点でスナック勤めを辞めればよかったんだけど、今度は別の地域のスナックに勤めたりしているうちに、ある日、行方不明になったの。

 彼女の母親から、娘の行方を知りませんかと、何回も電話がかかってきて大変だったわ。まあ、一週間後、見つかったけどね」

 海田は、うなづきながら言った。

「嫌な客というのは、ワイ談ばかりしてきたり、触ったりする客でしょう。

 じゃあ、その客から逃れられた時点で、辞めるべきだったわね。

 でも、どうしてまた昼間のアパレル企業のOLまで辞め、美容学校の夢まであきらめて、夜の世界に舞い戻っちゃったのかな。不思議だね」

 実緒は、考え込むようにして答えた。

「私が思うに、水商売の世界にどっぷり浸かって、ラクして金がもらえるという感覚があるからじゃないかな? もう、昼間の世界に戻れなくなっちゃったんだろうね」

 実緒と海田は、あきらめ気味に納得したあとで、実は話を続けた。

「それから、その子はつまんない男と同棲したり、アウトローに引っ掛かったりして、散々な目にあわされたの。もう私の手の届かない世界にいっちゃったわ」

 海田は、恐怖に青ざめたような顔で言った。

「怖いわね。じゃあ、信田もそのパターンなのかな?」

「多分、そうでしょうね。人間、あまり怖い目にあうと、狂うというじゃない。麻薬に走ったりする場合もありうるわ。信田は、狂ってしまった不幸な人ね」

 海田は、感心したように答えた。

「さしずめ、佐伯さんは、地獄であえいでいる信田に、天国から垂らされた一本の蜘蛛の糸のようなものね」

「そんな大げさな。私は聖人君子でもなんでもないわ。

 でも麻薬で服役中の女性はもはや多すぎて、刑務所間でも余剰人員が4%を超えるというわ」

 海田は、実緒をしげしげと見て、感心するように言った。

「私には、佐伯さんの真似はできない。皆と同じように、そういう人から身を避けることしか、考えられない。それが自分と家族を守る唯一の方法だものね」


 翌日、店長が休憩中、実緒と信田を並んで座らせた。

「信田さん、私も今までは黙っていたが、この頃あなたのおかげで、客から苦情がきてるんだ。これは店長である私の責任でもある」

 




 

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