第5話 すぐそこに忍び寄る麻薬の魔の手

 実緒は、親戚の姉さん奈緒に答えた。

「なんでも、その子は外国製の睡眠薬を使ってるんだって」

「やばいんじゃないの。さっきのニュースで言ってたよ。ある紅白歌手が、薬物中毒ではないかって噂を」

「そういえば、あの人、睡眠薬とかしてたらしいね。あれって、やめられないんでしょう」

 実緒はうなづいた。

「実緒ちゃんを可愛がってくれていた私の亡くなった母親が、真夏に冷房がなく、暑苦しさに耐えかねて精神安定剤を服用してたの」

 奈緒は、亡き母を思い出すように言った。

「そういえば、よく飛び出すしかけ絵本とか買ってもらったなあ。今でもまだ、記念に本棚に置いてあるよ。そういえばお母さん、身体が弱いらしくて、上半身はタンクトップ、でもおへそから下はロングスカートをはいてたなあ。

 なんでも上半身はカアーッと暑いが、下半身は冷えるとかよく言ってたなあ」

「よく覚えてるね。母は、精神安定剤を飲みだしてから、身体のバランスが狂ったのそして、温度の変化についていけなくなって、お灸を始めたのね」

「そういえば、お母さんの膝や肩には、腫物のようなお灸のあとが数か所あったね」

 奈緒は、昔を懐かしむように言った。

「お灸って、火を身体に入れることだから、刺激が強すぎるの。その副作用で、免疫力や自然治癒力がなくなってしまうのよ。

 だから、ますます温度に対する抵抗力が弱くなっていくのよ」

「結局、その悪循環ね」

 奈緒は、真剣な顔で実緒に尋ねた。

「さっきの紅白歌手は、三十過ぎにもなって、人と会話するとき自分のことをちゃん付けなんだって。薬物の悪影響が脳にでてたのかな?」

「うーん、それはわからないわ。芸能界って浮き沈みも激しいし、甘えたい一心で、薬物に走ったのかもしれない。

 でもあれほど、美人で歌もうまくて、ドラマも司会もできる人が、薬物で警察の厄介になり、プロダクションも解雇され、人生棒に振っちゃったものね」

 奈緒は、真剣な表情で実緒に言った。

「まさに、麻薬やめますか、人間やめますかの世界ね」

「その真実を実緒ちゃんみたいな若いうちから、肝に命じなきゃダメよ。

 そして、そういう道に入る人を阻止しなきゃね」

 奈緒は、考え込むような顔をした。

「さっきの話だけどさ、さっきスマホにかかってきたクラブに誘った子とは、あまりつき合わないほうがいいかなあ?」

「そうねえ、まあ、実緒ちゃんがその子に利用されてもかまわないと思ってるなら、誰とつき合おうと、それは実緒ちゃんの自由よ。私がどうこういう問題ではないわ。

 始めから、利用され傷つけられるということをわかった上で、付き合うんだったら、腹も立たないし、そう傷つくこともないでしょう。

 でも、実緒ちゃんは外国製の睡眠薬になど、手を出しては絶対ダメよ」

 実緒は、納得したような顔で言った。

「さあすが、奈緒さん、人生体験が長いだけあって、奥が深い。こういうのをまさに、亀の甲より年の功っていうんだよね」

「まあ、学生時代の友人は、そのときだけのケースが多いからね」

 実緒は、親戚の姉さんにあたる奈緒に質問した。

「ねえ、高校のときの友は一生の友っていうけど、本当かな?」

「人によるわね。確かに地方の高校を卒業して、都会に出ていく人だったら、田舎の思い出として残るけど、都会育ちの人はどうかな?

 私も高校の友人とは、今は年賀状のやり取りだけで、会おうと思えば会えるけど、でもお互いなかなかそんな気になれないな」

「やっぱり、就職して住む世界が違ったりしたら、疎遠になるのかな」

「そうねえ、共通の話題もなくなるし、結婚して家庭を持ったら、もっと疎遠になるわよ」

「そういうものなのかなあ」

 実緒は、考え込むように言った。


「あのう、この荷物降ろして下さい」

 実緒は、ようやく‘かまど’で慣れてきた。

「今、降ろしとんじゃあ、あほう」

 だみ声で聞こえてくる。

 こんなバカげた、いや気違いじみたことを言うのは、信田しかいない。

 最近、信田の異常ぶりはますますひどくなる一方である。

 もう、店長すらも扱い兼ね、距離を置いているようである。

「佐伯さん、トイレから入ったあと、何で拭いてるの」

「ハンカチです」

「フーン、汚い女だな」

 実緒は、あっけにとられた。

 ハンカチで拭くのが、何が汚いんだろう。

「言われて腹がたつのか、それとも傷つくとでもいうのか」

 なんだか、冷静な物言いである。

 ケンカを売っているのか、それとも自らの体験上からなのだろうか?


「こういう状態を、瞬間精神分裂症というんだよな」

 実緒は、知り合った年輩男性に、信田のことを包み隠さず話した。

「大変な女がいたものだな。相当頭がおかしいんじゃないか。

 瞬間精神分裂症というのは、瞬間的に思考が分裂するんだ。よほど、ショックなことがあったんだろうな」

 思考が分裂するというのは、よほどの恐怖体験をしてきたのだろうか?

「その女性は、ひょっとして風俗営業をしてたんじゃないか?」

「噂によると、そうらしいです」

「性病の毒が頭に回っているんだろう。まあ、何を言われても相手にしないことだ。間違ってもカッとして、言い返したりしちゃダメだよ」

「なんだか、その先輩女は意味不明なことを言うの」

「その女は精神異常だからな。もしその女は、刃物を振りかざしたとしても、軽い刑にしかならない」

‘堕ちるつもりか同じ世界へと 戻るしかない元の世界へと’

 実緒は、バイトの先輩 海田から言われた言葉が、ひしひしと身に染みる。

 対岸の火事というよりも、実緒には想像もつかない世界。

 そのもっとも底辺の恐ろしい世界の女性が、同じ職場にいる。

 しかし、世間というものは、世間には知られていない底辺から成り立っているのが現実である。


 女性だったら、レイプなどで誰でも底辺に堕ちる危険性はある。

 失礼ながら、風俗の女性は大抵、レイプ体験があるらしい。

 また、その反対に痴漢の冤罪をかけられ、人生を狂わせた人もいる。

 痴漢の冤罪というのは、車内で女性の方が、この人痴漢ですと男性の手を上げ、目撃者が一人いたら、痴漢に仕立て上げることも可能である。

 警察や取締り役の人は、痴漢を注意するだけが仕事ではなくて、犯人を検挙するのが仕事であり、それによって評価が決定し、出世に関係するのである。

 取調室まで連れていかれたら、前科のない善人ほど緊張してガタガタになる。

 警察にしたら、そういう人ほど思うツボだという。

「お前がやったろう。自白しろ」ときつい調子で何度も言われたら、思わず言いなりになってしまう人もいるだろう。

 勿論、正直にやっていないと反抗する人もいるが、留置場に入れられるといわれると、やはり気弱になる。留置場から、刑務所に入れられたらどうしようという、恐怖感にかられる。

 その気弱な心理状態を見計らって、刑事ドラマでみる温情派刑事がやってきて、まあまあと制し「まあ、誰でも魔が指すこともあるさ。五万円払ったら、保釈できるよ。前科一犯など、黙ってたら誰にもわからないさ。

 本当にやってないんだったら、裁判でやっていないということを、証明すればいいんだ」と誘導してくるらしい。

 しかし、裁判で無罪を主張したとしても、それが確定するということは100%不可能に近い。その誘導に引っ掛かって、五万円の保釈金を払ってしまう人も多いが、これで前科一犯が成立する。

 こういう尋問は、強気一方の前科〇犯のいわゆる玄人や、アウトローほど引っ掛からない。

 結局、ひっかかり、警察の言いなりになるのは、気弱で無知な素人おぼっちゃまである。


 


 

 


 


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