第3話 世の中の落とし穴にはまってはダメ

 親バレ対策アリバイ会社なんていうのも、あるらしい。

 しかし、親に内緒にしてまで金儲けする必要があるのだろうか。

 親というのは、子供を全面的に信用して任せることなどできず、まず子供に降りかかる危険ばかりを考える。

 こんなことをしても、成功するはずはない。世間から利用され、世間に傷つけられて、世間の落とし穴にはまっても、面倒見切れないからね。

 親も年老いていくからね。

 親の心、子知らずというが、子供にしてみたら、親が自分を配慮しすぎるばかり、用心深くなるのを、ちっともわかっていない。

 ただ、高い時給という甘い宣伝文句だけに釣られ、水商売さえすればラクな方法で金が儲かると思い込んでいる。


 この頃は、少子高齢化の影響で、風俗の広告でもいわゆる五十歳以上のシルバー世代の求人募集もある。

 しかし、いきなり五十歳以上の人が風俗に応募するなど、あり得ないだろう。

 失礼ながら、風俗体験のある女性が多いが、一度体験してしまうともう他の職業にはつけなくなるという。


 キャバクラは、とにかく金がかかるらしい。

 チャージだけで、一万五千円、時間を延長するほど、チャージ料が上がり、指名するたびに指名料を取られるが、アフターは断られるケースは多い。

 それに、店の方もキャバクラだと一応固定客を払わなければならないが、風俗だと客単価しかない。

 特に風俗の場合、風俗嬢の約一割がスカウトマンの給料となるので、客を選出することはできにくい。


 実緒は、繁華街の待ち合わせ場所でそれらしき女性をよく見かける。

 昔は五十歳過ぎの地味なスーツのケータイを持っている女性が多かったが、現在は年齢相応のワンピースを着た三十歳くらいのスマホ片手の女性も見かけるようになってきた。

 現在は、闇金は犯罪であるが、女性である限り、一歩間違えればこういった奈落に落ちることはありうる。


 実緒は、少々緊張していた。

 いよいよ今日から、信田と組んで仕事をするのだ。

 海田から釘を刺されている。

「あの女は、お前はバカな女だとか言って、ケンカを売ってくるわ。しかし、決して言い返してはダメよ。そうやってケンカさせることで、相手を傷つけ、貶めようと思っているんだから」

 まあ、そうだろう。ケンカは先に手を出した方が負けなのだ。

「信田は、身体が弱いのか、脳の方も弱いのか、力仕事はまるでダメで、相手に尻ぬぐいをさせようとするの。なのに、相手に感謝するどころか、恩を仇で返す罰あたりな野郎よ」

 人の恩を仇で返す人は、自分の無能ぶりを認めたくない悲しい人だ。

 そしてそういった人は、闇の世界の入り口が待ち構えている。


 信田の仕事は、地下一階で材料の仕込みー野菜や肉を切ったりすることと、その仕込んだ材料を、一階に上げることが仕事だったが、信田は、荷物運びの方はまったくしようとしない。

 いや、できないのかもしれない。

 実緒は、信田には誠実に丁寧に接してみようと思った。

 そうすれば、少なくとも誠意は伝わる筈だ。

 童話の世界にも、北風と太陽の話があるじゃないか。

 冷たい風を吹かせビュービューと相手を攻撃よりも、あったかい光で照らした方が、相手も心を開くものである。

 いくら、風俗出身で精神異常であろうと、信田とて人の子だ。

 しかし、実緒のそんな考えは、信田には全く通用しないということを、思い知らされた。


「あのう、この荷物、上に持っていってもいいですか」

 実緒は、おずおずと信田に尋ねた。

「あたり前じゃん、あんた佐伯といったね。そんなこともわからないの」

「はあ」

 なんだ。人が尻拭いをしてやってるのに、その失礼な態度は。

 ひょっとして、こういう人格だから、風俗に堕ちるんじゃないか。

 実緒は、心の中で毒づいた。

 信田は、それを見透かすように言った。

「あんたは、バカなんじゃからな。それを知っといた方がいいよ」

 信田は、確か山陰地方の出身だと聞いている。

 なんだか、野暮ったい方言だ。

 それとも、相手にバカにされないための先制攻撃だろうか?

 風俗という地獄をみた女は狂うのだろうか?

 まあ、相手にしないに限る。

 しかし、実緒は、信田の過去を知りたいと思った。


 嘘だと、信田は山陰地方の田舎の出身で、三人の息子を残して離婚させられ、大阪に出てきて、騙されて風俗の世界に身を堕としたという。

 まあ、田舎出でなんの取り柄もない人間が、都会でスムーズに生きていけるほど世間は生やさしいものではない。

 多分水商売など、客のツケが払えなくなってそういった世界に、行かされる羽目に陥ったのだろう。

 信田が、実緒をバカなどと平気で言うのは、それが原因なのかもしれない。

 人を指さしていう人の、四本指は相手を指しているが、残りの親指は自分を指しているのだ。

 信田は、自分が恐ろしい目にあってきたから、その腹いせを他人にぶつけているのか。

 それとも、ケンカを売っているのか。

 

「堕ちるつもりか、同じ世界へと。戻るしかない、元の世界へと」

 海田の言葉が身に染みる。

 信田のケンカ相手になるということは、実緒も同じ風俗に堕ちるということなのか。

 実緒には想像もつかない世界だが、好きで風俗をする女性などいない。


 実緒は、昔読んでいた本を思い出した。

‘閉ざされた履歴書’というタイトルで、新宿歌舞伎町で、風俗嬢のケアをしている女性が著者である。

 ファッションヘルス、セクキャバ、ソープ嬢に至るまで記されている。

 なかには、お定まり、アウトローが後ろにつき、暴力をふるわれている女性も多い。


 しかし、こういう職業の人は、精神に異常をきたしている女性も多いので、感謝されるどころか、くそ女とかバカヤローなどとのののしられることも多いという。

 感謝もされないのに、どうしてそんな女性達のケアをするのか?

 実は、著者は中国人で戦時中、慰安婦にされかかったことがあったという。

 そのため、男性の格好をし、顔には炭を塗り、女であることを捨ててまで、兵士まら逃亡したという。

 そのときの恐怖感と屈辱感から、自分の二の舞を出すことはしまいと決心し、ケアを始めたのだという。

 しかし、正義の味方というのは、いつの時代にも迫害されるものだ。

 面倒みている女性の家族から、誤解されたりすることもあるらしい。


 実緒は私だったら、真似できないだろうな。

 世の中の暗い地獄のような裏街道に身を置き、誰かに感謝されるといった名誉もなく、あまり金にならない。

 しかし、女性だったら一歩間違えれば、誰でもこうなる危険性はある。

 女性の人生は、綱渡りのようなものだ。

 その防衛本能から、女性はカンが鋭く、用心深く記憶力が優れているのかもしれない。

 しかし、こういったことは、頭ではわかっていても、いざ信田と接するとなると、気分が重くなるのだった。


 信田は、毎日のように、実緒にケンカを売ってくるようになった。

 実緒が、信田の仕込み材料を取りにいくと、頭に手を当てて

「あんたの家ではどうかは知らんよ。でもあんたはバカなんじゃあから、それも度の超えたバカなんじゃあからな」

 それって、信田の人生そのものじゃないか?

 けなし文句は、馬鹿としかいえないとは、まさに馬鹿のひとつ覚えじゃないのか?

 実緒と、信田とは共通点はなかった。

 年齢は、信田の上が一回り上。出身地も違う。多分、信田は学もないのであろう。。

 だから、違った世界の実緒を、言葉で傷つけることで、自分が勝利するとでも思っているのだろうか?

 不幸街道まっしぐらであるが、この地獄道はどこまで続くのだろうか?


 実緒が、かまどでバイトしてから一か月たった。

 ようやく、信田の嫌味と異常ぶりも慣れてきたせいか、驚きと怒りを感じなくなってきた。

 今日は週に一度の朝礼の日だ。

 店長が発言した。

「佐伯さんは、今日からホールにまわってもらう。よろしく」

 信田は一瞬、実緒を呪うように、顔を歪めたのを海田は見逃さなかった。


 海田は、実緒の耳元で声を潜めて言った。

「ホールに回れば、信田がヤジを飛ばしてくるよ。相手にしないことだね」

 しかし、どうして信田は実緒を目の敵にするのだろう。

 だいたいライバルというのは、似たような能力の者同志をいう。

 信田と実緒とは、違った世界に住んでいるはずだ。

 それとも、信田は実緒を、同じ世界―風俗へと沈めようと思っているのだろうか?


「いらっしゃいませ。ご注文は?」

 客に注文を聞き、実緒がそれをカウンター越しの調理場に通す。

 信田は、かまど特製のしゅうまいをつくっている。

「チキンライス二人前」

 実緒は、カウンター越しに注文を通すと、とたんに信田のヤジが飛んだ。

「なんだあ、その偉そうな言い方、そんな言い方して楽しいかあ」

 実緒は、もちろん無視を決め込んでいる。

「有難うございました。はい、いらっしゃいませ、ご注文は?」

 このリピートで実緒は、接客に慣れていった。

 信田は、そんな実緒のテキパキした姿に反感を感じたらしい。

「もっと早くなれ、シャキシャキせい」

 実緒が接客するたびに、ヤジを飛ばす。

 少しでも間違えようなら、まるで鬼の首でも取ったか、週刊誌のスクープ記者がネタを探しだしたように

「もっとしっかりやれ。あほ、なんじゃあ、そのふてくされた態度は。

 ごちゃごちゃ言われるのは、お前がトロいからやろが」

などと、失礼なヤジを飛ばしてくる。

 店長は、呆れたような顔で見ているが、店としては信田家族に、弱みを握られているので、店の存続のためには、露骨に叱りつけることもできない。

 とすると、信田はそれを承知の上で言っているのだろうか?

 なかなかの知能犯なのか、それとも単に人間が下劣なのだろうか?


「ちょっと、あのおばさん、さっきからうるさいんだけどな」

 とうとう中年の男性客が、実緒に文句を言った。


 

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