第134話 メッセージ
マッド・ラビットは、今はなきボンヘイのスラム街で生まれた。覚えているのは自分の名前だけ。誰が産んで、誰が育てたのかもわからない。物心ついた時には一人でゴミを漁り、食べられるものとそうでないものを判別できるようになっていた。
生きるためなら、なんでもした。もし、力があれば『殺し』だってやったかもしれない。
物に自分の精神を投影できる彼の魔術は『盗み』のために役立った。果物や肉、魚に自らの魂をコピーし、店先から落としたり転がしたりしながら自分の下まで持ってくる。これがなかなかうまくいった。
だが食後にはいつも、複製が感じた『喰われる』という恐怖の感覚が本体の自分に帰属する。ゆえに彼の食事には常に土と、それとは違う何だか気持ち悪い味がつきまとった。
「その才能、もっと有意義に使いやがれ」
犯罪行為ぐらいでしか世間と繋がりがなかった彼は、そう話しかけてきた生意気な子どもがこの国の王となっていたことも知らなかった。
「手ェ出せ。俺サマと握手しろ」
「くいもの、くれるか?」
マッドはその時、数えて十七になろうという男だったが、明らかに年下の子どもに物をねだる浅ましさも当然わからずに、自分が知っている数少ない言葉の一つを口にした。
「俺サマの下につけば腹一杯食わせてやるよ」
マッドは黙って手を差し出した。信じ切ったわけではないが、相手が身なりのいい子どもであることは確かだ。タダ飯にありつける可能性が少しでもあるなら、断る理由もない。ただ土やらゴミやらで汚れきった自分の手を躊躇なく握ろうとすることについては妙な感じがしたが。
手を握った瞬間、マッドは洗脳された。もちろん本人に自覚はない。ただ『自分は目の前にいる、この子どものために生を受けたのだ』という感覚は確かに植えつけられた。
その子ども……アイスキャロルという名前であることは後から知ったのだが……に連れられて、マッドは初めて王宮の扉をくぐった。
「メシだ。一人分。少し多めに頼む」
「かしこまりました」
「お前は、こいつを風呂に入れてやれ」
「はい」
「手ェ空いてるヤツは着替えを見繕え。体格が合えば何でもいい」
「承知」
アイスキャロルの指示に大人たちは、しのごの言わずにテキパキと従う。その様子が尋常ではないことは、マッドにもわかることだった。
わけもわからぬうちに風呂に入れられ、上等な執事服の予備を着せられた。長机に並ぶ豪華な料理の数々をマッドは席にもつかず、獣のように手当たりしだいに喰っていった。
「うまいか?」
テーブルマナーなど責めるような素振りもなく、アイスキャロルが尋ねる。笑っているわけでもなければ、蔑んでいるわけでもない。その感情は、無表情という膜に隔てられてよく見えない。
もちろん、うまいに決まっている。マッドは止めどなく涙を零しながら、貪り続けた。料理の腕が良いのはもちろん、『喰われる』というあの恐怖が少しもない。
マッドはこの時、生まれて初めて『くいもの』の本当の味を知り、洗脳によって植えつけられたものとは別の……心のどこかでアイスキャロルに一生ついて行こうと決めた。
彼に言われた任務をこなして人をさらい、臣下にする。別にそのことをおかしく思う常識は備わっていない。褒美がたくさんもらえるので働くことは、むしろ楽しかった。
命令されたわけではないが『言葉』も──路地裏にいたころよりかは──人間的な生活を続けるうちに自然に習得した。口調が主君に似てくるのは仕方ないことだったろう。
しかし、言葉を覚えるうちに、人間らしい感覚をつかんでいくうちに……。
「マッド。俺サマはな……」
いつの日か、あの王が語った理想がひどく寂しいものだと気づいてしまう。
「てめぇを兵器生産担当大臣から解任する」
自分と主君の思想の違い、そして受けた恩との間で忠誠心が揺れ動いていた時、そんな決定を告げられた。マッドが二十五、アイスキャロルが十八の時のことだ。
「ど、どうしてだよ! 王! オレ、なんかヘマでもしたか?」
「てめぇは良くやってくれてる。他のやつ以上にな。だが、俺サマのすぐ下で仕事すんのも嫌になってきてんだろ」
嫌というわけではない。しかし、そこで言葉に詰まってしまった。ほとんど見透かされている。
「俺サマがくれてやった恩以上のものをお前はすでに返した。気負うことはねぇ。てめぇの好きなようにしろ」
マッドは近くにとどまるのも、遠くへ離れることもできず、アイスキャロルの下に付きつつも第一線からは退いた。
──アンタの理想が仮に叶ったとして、アンタが笑えねぇんじゃ意味ねえだろうが。
胸に秘めたその言葉も伝えられずに。
それから四年の時が経ち──現在。
『──誰も、お前の思い通りになどなりたくない』
『あったり……めぇ、ですッ!』
『──またね、あるじ』
『アイスキャロル・ドライプライドに対して、だなんて言っちゃいないぜ』
この世界に現れ、王の標的となった彼らは幸運に助けられながらも一度は王を退けた。
危険なヤツらだ。王の障害になるに違いない。彼の見えないところで始末しておくに限る。マッドはそう思っていた。
『──ワシは、どうしたら……いい?』
思っていた。
『ワシとなら楽しくトークできるぞぅ』
──思っていたん、だがな……。殺すのは、やめにした。
『あとお前さんさっき若者だとか言っとったが、そんな歳でもないじゃろ』
──ムカつくのはマジだけどな。オレまだ三十も超えてねえっつーの。だが……。
『ありがとう、みんな。マッドもな』
──思っちまった。こいつなら王のことを助けられるんじゃないかって。オレの中には無い『何か』を持ってるお前なら、王の考えを変えられるかもしれないって。
だからお前は──。
──こんなところで死んじゃいけねえんだ。
オレは不可視の光線が向かう線上に向かって飛び上がる。せっかくの奇襲だってのに、何かと指を差したがるのはアンタの悪いクセだぜ、『最優』の七服臣サマ。
「……!」
見ろよ、あの顔。引きつってやがる。完全に予想外ってツラだ。
「マッド、お前さん……なんで……」
タクトの野郎も光線を受けて作り変えられていくオレの姿を見て、呆然としていた。アホか。大した付き合いでもねえのに何を打ちひしがれてやがる。
「なんで、ワシなんかを……!」
色々言いてえことはあったが、どれもオレの性に合わねえ。
千の言葉を飲み込んで、たった一言だけを口先に残す。最後の質問の答えを。
『──ワシは、どうしたら……いい?』
「──知るかよ、バーカ」
ただ、お前はもう持ってるはずなんだ。オレとは違って、立派にやっていけるための鍵を。
「タクト、お前の武器は──」
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