第124話 マゾッホ・サドンデス③

「奇特な方ですねぇ。普通に生きてたら、まず味わえない快感を貪るチャンスなのに。それでもアタシを倒そうとするなんて」


 こちらを指差しながら少しずつ後ずさりするエロースの姿を、カムダールはジッと見つめる。不用意には動けない。時間もあまりかけられない。快感はすでに極限にまで高まっている。


「う……ふふ。それとも、もう『死の快感』を味わいたくなっちゃったとか? 本当にせっかちさんなんですねぇ」


「いいえ。あいにくウチにとっては刹那的な感覚より、穏やかな気持ちで安らぐほうが好きなので。それに、そういった快感に溺れて破滅した人を間近で見ていますから……」


 快感を我慢して、あえて喋る。そうやって、刺激の少ない行為から少しずつ慣らす。脳を騙す。


 自分の心の芯となる部分をあえて口に出す。そうやって、少しずつ闘志を高める。快楽とは別の感情を作り出す。快楽に変換する速度に追いつかれないように。


「この戦いで負けたなら、ウチは一生自分を許せません」


「も、もう、どうなっても知りませんよぅ! 後悔しても遅いんですからね!」


 エロースは、サッと身を翻すと林の中に身を隠した。


 途端に静寂がカムダールを包む。エロースの言っていた通りだ。降り注ぐ月の光、微かに聞こえる虫の音、肌を包む着物と空気さえもが彼女の全身を愛撫する。こうして、そのことを改めて自覚した。


 ──この感覚とあえて向き合え。それでいて客観視しろ。他人事のように。


 まだ相手の動きはない。このまま時間を稼いで、こちらが根をあげるのを待つつもりだろうか。カムダールがそう考えていたその時──林のほうから無数の針が勢いよく伸びてきた。


 ──なるほど。なかなかリーチの長い魔術のようですね。


「もう一度だけでも刺されば、失神間違いなし! 根性とか負けたくないだとかの、くっだらない精神論で耐え切れるものではありません!」


 ──ですけど。


 カムダールは一歩だけ動く。少しだけしゃがむ。ほんのちょっぴり首を傾げて、人差し指と中指の間を小さく開く。そうした紙一重の、最小限の動きで全ての針を避け切った。


「はひぇッ!」


「なんとも軌道が正直過ぎますね。アンちゃんの【旋回、貫く信念タービュランス】のほうが、もうちょっとずるい動きしますよ。それに……」


 カムダールは完全に開き切った瞳孔で、エロースのいるであろう方向を見つめた。


「アナタのくれた快感が、ウチの神経を研ぎ澄ませてくれる。今の針の攻撃も、揺れる空気の動きを快感として察知できたからこそ危なげなく避け切ることができました」


 ──いやいや、いやいやいや。


 林の中に身を隠したエロースは困惑しっぱなしだった。


 ──理屈としては、そういうこともあるかもしれませんけども! 実際にやってのけるなんて、どういう神経してるんですか!


「あなたの魔術は恐ろしい能力ですが、あなた自身はまるで戦い慣れしていない。今の攻撃や、身を隠しているのにわざわざ声を出して場所を教えてくれているところを見れば、一目瞭然です」


「うるさいです! いつもアタシは、戦う前に勝ってるだけで……!」


 それに──と、呟くカムダールはエロースの目の前ですでに刀を振りかぶっていた。


「こうやって、すぐにムキになってくれるところとか」


「舐めないで、くださいっ!」


 すんでのところでエロースは刀を避け、大きく跳躍した。場所がバレているなら動きにくい林の中はかえって不利になる。木々を足蹴にしながら彼女は先ほどカムダールと向かい合っていた開けた空間へと舞い戻った。


「アタシだって、一芸だけで七服臣セブン・ミニスターズまで上り詰めたわけではありません!」


 地面に危なげなく着地し、彼女はすぐさま自分の来た道を振り返る。こちらを追いかけるカムダールの姿が目に入った。


「アナタも人のこと言えませんよぉ! 猪突猛進! 馬鹿の一つ覚え! 飛んで火に入るアナタは、針のむしろ……ですッ!」


 限界ギリギリまで引きつけて、一気に針を放つ。二度同じ間違いはしない。複雑な動きを絡めて、確実に当てる。今度こそ、カムダールは無数の針にその身を貫かれた。


「えっへへえ! 全弾命中! もう観念して……」


「よく見てください。足には刺さっていませんよ」


「ふぇ?」


 エロースはカムダールの足元に目を向ける。確かに、足に向けた針は全て避けられている。しかし、その程度はただの誤差だ。何を言っているんだと考えているうちに──カムダールが一歩踏み出した。


「え?」


 また一歩。


「え? え?」


 そしてまた一歩。針がその身に深く刺さるのも構わずに向かってくる。


「何やってるんですか! 本当に死んじゃいますよ!」


 それがただの脅しではないことをカムダールはすでに感じている。快楽を処理し切れない頭の中で大事な血管が切れているような気もするし、そこからジワリと何かが流れ出している感覚もある。だが、その前に決着はつく。


「そもそも、何で歩けるんですか! 気持ち良すぎて、絶対自分からじゃ動けないはずなのに!」


「──人間とは、度し難い生き物なんです」


 虚ろながらも、カムダールの視線はエロースの目を見つめ返していた。


「刺激というものに、どんどん順応していく。快楽でも、痛みでも、だんだん平気になっていく。好んだものを飽きるまで求め続け、飽きたらより強いものを求める。そう言った欲望をある程度叶えるアナタの魔術はある意味ライデンちゃんやプロテインちゃんよりも恐ろしいかもしれません」


「やだ、来ないでぇ!」


 エロースは針を引っ込めようとする。しかし、全く動かない。カムダールが刺さった部分の筋肉を締め付けて針が抜けないようにしているためだ。逃げられない。


 カムダールの顔が、もう目と鼻の先にある。


「アナタ。この針で自分の体をいじったことはありますか?」


「そんな経験あるわけないじゃないですか! こ、怖いですし!」


 チラリと針のほうを見やるカムダールの言葉をエロースはすぐさま否定する。


「そうですか」


 カムダールの手が目にも止まらぬ速さで動いたかと思うと次の瞬間には、折れた針が彼女の手の中に握られていた。


痛みを快楽に感じてしまうんでしたよね」


「えっ、あっ、なっ、何を」


「あなたは今までまともに戦ったことがないのでしょう。いつも先制攻撃で絶対優位な状況に持ち込んでいたから。だから、こんなことをされたこともない」


 針を──エロースの腹部にあてがう。


「ま、待って……」


「どうかご遠慮なさらずに〜。ウチのこともアナタのこともレジーちゃんに治してもらうつもりなので〜、どうか安心して痛い目……いいえ、気持ち良い目を見てください」


 ゆっくりと、針が侵入する。


「ひぎゅ……!」


  【痛いの痛いの気持ちいいのマゾッホ・サドンデス】──体毛を伸ばし、硬化させ、それに刺された者が受ける刺激を快楽へと変換する魔術。通常、一度でも刺された者はその快楽の虜となり、その時点で勝利は確定したも同然である。故に、反撃を想定しておらず、防御の面には一切リソースが割かれていない。


「にゃ、にゃにこりぇえ……!」


 そのため『術者自身には能力が効かない』という都合の良い例外も、残念ながら──。


「むり、むりむりむりむりむり! お゛っ……」


 ない。


「ほおおおおおおおおおおおおおッッッ!」


「こんな魔術を使っておきながら、あなた自身は……」


 慣れていないんですね、快感に──イタズラ心が働いて、カムダールは先ほどの意趣返しとばかりにエロースの耳元で囁いた。


「やめてぇぇ……フーッてしないでぇぇ」


「今からレジーちゃんを起こせば、二人一緒に治してもらえるかも知れません。クセにならないうちが華だと思いますが〜〜、どうします?」


 カムダールの雰囲気が柔らかなものとなり、糸目に戻る。もちろん快感は未だ持続している。だが同じ快感でも『勝った』という気持ちは他のそれとは違い、彼女を安心させるのに一役買った。


「にゃ、にゃおじでぐだざい! た、たじゅけて!」


「じゃあ、この針引っ込めてくれます?」


 カムダールが言い終わらないうちにエロースの体に伸ばした針が収納された。


「そうと決まれば行きましょ〜〜。ほら、ウチの手に捕まってくださ〜〜い」


「にゃああっ! 力強いぃ! もっと優しく握ってえッ!」


「あはは〜、ごめんなさい〜」


 ──カムダール・スロウスロウス。仲間に痴態も醜態もさらすことなく、七服臣セブン・ミニスターズの一角を単騎で撃破。マッドに引き続き『黒い石』を破壊していない状態の臣下を確保することに成功した──。

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