第123話 マゾッホ・サドンデス②

「そうだ。アタシの足ぃ、そのまま舐めてくださいよ」


 その言葉を聞いたカムダールは舌を出し──その先端を強く噛み締めた。穴が空くほどに。それでいて噛み切らないように細心の注意払って。


「! へえ……」


 快感を上回る痛みを感じることができれば、今よりは冷静に頭を働かせることができるだろう。そう考えたがゆえの行動だった。


「いるんですよねぇ。そういうカッコいいことしちゃう人。でもぉ……」


「! はぁ……あっ!」


 カムダールはエロースの魔術を『術者から受けた攻撃による痛みを快楽に変える』ものだと思った。いや、思いたかった。この絶対的に不利な状況に追い込まれた今、希望はそこにしか残されていなかった。だが、事実はそうではない。


「針はすでに刺さった。刺さりさえすれば──。もちろん、自傷行為も」


「すべ、て……?」


「言い間違いではありませんよぉ。痛みが強い刺激だから快楽もまた強いってだけの話で、本当はそれよりも下位の刺激でも感じちゃってるんです。思い出してみてくださいよ。自分で自分の行動振り返って見て、おかしいと思いません?」


 モヤのかかった頭でカムダールは自分の行動をなぞる。確か、エロースの気配に気づいて一対一の状況になった。そして、妙な焦りがあって先制攻撃を──。


「まさか!」


「そうでぇす。アタシはアナタと真正面から向かい合う前に小さな針を投げて、刺してたんです。アタシの魔術の特性上、痛みはありませんし、おしりの辺りに軽くプスッとしただけなんで気づかなかったんでしょうねぇ。もちろん程度は軽いですが、その時すでに『全てを快楽として捉える状態』は始まったわけです。今も聞こえる虫の音も。降り注ぐ月の光も。衣服や空気に触れることや呼吸さえも、全て」


 なら、あの妙な焦りの正体は──カムダールのその思考を見透かすかのようにエロースは嘲るような笑みを浮かべた。


「『欲情して、アタシのことを襲いたくなった感覚』。真面目で鈍感なアナタは、それを不安と勘違いしたわけですねぇ。あはは! おっかしー!」


「……ッッッ!」


 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。今まで到底味わったことの無い羞恥がカムダールの心を襲う。何より、その屈辱さえも『気持ちいい』と錯覚させられていることが一番恥ずかしかった。この魔術は、精神すら蝕み始めている。


「そもそも一対一の状況に持ち込んだのも、仲間に気づかれないようにアタシのことを貪りたかったからじゃないんですかぁ? それともぉ……」


 貪られたかったんですか? ──態勢を屈めたエロースのささやきを受けて、カムダールの腰が思わず跳ねた。


「とにかく、もうこうなってはアタシに勝つ方法はありませぇん。大音量でみっともないあえぎ声を上げれば、仲間の方たちが助けに来てくれるかも知れませんけど。ただ、その場合一生気まずい状態になり続けるでしょうけどね。いひひ」


 エロースの無邪気な笑い声がカムダールの耳朶じだを打つ。自分は今『調教』されているのだということに彼女は初めて気づいた。抵抗の術が無いことを一つ一つ丁寧に思い知らされている。蝶の羽を手始めに二つともちぎりとって、そのあと足を一本一本もぐような周到さ、そして残酷さがそこにはあった。


 ──溶けていく。ウチの自信も、屈辱も、好意も、憎悪も、怒りも、喜びも、悲しみも。今までの全部が一緒くたになって、ないまぜになって、刹那的な快楽として消費されていく。気持ちわるすぎて、気持ちい。


「うふふ。最初見た時は殺気ビンビンでちょっと怖かったですけどぉ。こうなっちゃえば可愛いもんですねぇ。どんなに強い人も『快感には勝てませんから』」


「……?」


 一つ、違和感があった。エロースの声も、言葉も、全てが情欲をかき立てているはずなのに。


『快感には勝てませんから』。


 その一言だけが、どうしてか。神経を集中させ、言葉を反芻はんすうする。何か、快楽とは別のものが湧き上がってくる。


 カムダールは、とっくの昔に知っていた。美味そうに薬を飲み、家族のことをないがしろにして、快楽に、イヴィルヘルムに負けた両親にんげんのことを。彼女の心の中に、あまりにも巨大に居座ったそれは、とても快楽に変換し切れるものでは……ない!


「! なっ! どこに……」


 エロースの目の前で先ほどまで倒れ込んでいたカムダールの姿が消える。後ろを振り向くといつの間にか肩で息をしているカムダールが立ちつくしていた。その手には先ほど彼女が取り落としたはずの──刀。


「ひ……っ。や、痩せ我慢はやめたほうが良いですよぅ。アナタのその高速移動! アタシの魔術と相性最悪ですからね!」


 カムダールは忠告されるまでも無く、そのことをすでに感じ取っている。肌を打つ風で体が痺れて、とろけそうだった。彼女だって、今の一瞬で勝負をつけられるなら、つけていた。これ以上は危険だという本能が働いたために中途半端なところで止まってしまっただけだ。ならば──。


 ──あとは、このセーフティをいつ、どうやって外すか。


「【痛いの痛いの気持ちいいのマゾッホ・サドンデス】の効力は時間が経つにつれて強烈になって行きます! あんまり無理して動き回ると、じきに快楽を処理し切れずに脳が焼き切れて──」


 自身のほうを指差しながら後ずさりするエロースの姿を見据えて、カムダールは静かに言った。


「ご心配なく──その前に、決着は付くでしょうから」

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