第22話 ホテル・ドミネイター③ Bathroom

 相変わらず、シャワーの音だけが響いている。そのことを拓人とレジーは風呂場の扉に耳を当てて確認した。


 拓人は、いよいよ妙だと感じ始めた。誰かが中で動いているような物音も、気配もない。本当にただただシャワーの、と言う音だけがあるのだ。


「アン、入るよ。いい?」


 レジーは風呂場のドアになるべく顔を近づけながら言った。……三秒待っても返事がない。


「いいね⁉︎」


 レジーはより大きな声で再度呼びかけ、ドアを開けた。同時に生暖かい空気が逃げるように風呂場から飛び出してくる。



 アンの姿は、なかった。



 レジーが室内を見渡しても、拓人が浴槽よくそうのぞいても、いない。念のために開いた扉の後ろも確認したが、誰もいない。ただ、風呂場の床にアンのものと思われる赤毛が何本か落ちているばかりである。


 水場であるにも関わらず風呂場の床も、浴槽も、扉も木造だったが、それを気に留める余裕は今の2人にはない。


「アンだけじゃなく、アンをおそったヤツもいない……」


 ベッドを離れ、すでにいつもの不機嫌そうな表情に戻っているレジーは、出しっ放しになっていたシャワーを止めながら、さらに眉をひそめた。


「どどど、どういうことなんじゃ⁉︎ もう逃げた後ということか?」


 拓人は、おろおろした様子でレジーに尋ねる。


「あるじ、何か変わったことはない?」


「はえ?」


「アンの身に何かあったとか、そういう直感的なもの!」


「それはないが……ただ、動悸どうきがする! めっちゃ動悸がする! 不整脈かもしれん!」


「そうか。落ち着こうね、あるじ。そういう直感がないなら、ちょっぴり安心。本当に、ちょっぴりだけだけど」


「? どういうことじゃ?」


「精霊術師……つまり、あるじがボクたち精霊に魔力を送ってるって話は、ギフトから聞いたよね」


「あ、ああ」


「ボクたちは見えない『へその緒』で繋がってるみたいなもの。ただ本当のへその緒と違うのは、切れた時にちゃんと感覚があるってとこ。それは動悸とかじゃなくて、もっとハッキリした直感だったり痛みだったりするんだけど……そういうのは感じない?」


「う、うむ、ない。感じない」


 レジーは小さく息をついた。


「なら、少なくとも死んでない。まぁ簡単に死ぬようなアンじゃないし、当たり前といえば当たり前だけど」


 レジーの発言を聞いて少し動悸がおさまった拓人だったが、それでもアンが消えたという現状は変わらない。下手人げしゅにんさえ、どこにいるかわからないのだ。


「……ワシは隣のギフトさんに助けを求めてくる。レジーは、どうする?」


「もちろん、あるじについて行く。バラけるのは、なんとなくまずい気がする」


「よし、そうと決まればさっさとここから出よう。この風呂場に留まっとるのもよくない気が……」


 拓人が風呂場から出ようと身をひるがえし、レジーから視線を外した……その一瞬後。




「あっ」




 ……レジーが、何かに驚いたような声を上げた。


 すぐさま拓人が振り向くと、レジーは消えて……は、いなかった。ただ、引きるような顔をして硬直している。


「ど、どうした?」


「あ、足が……」


「足ィ?」


 拓人がレジーの足に視線を落とすと、ぎょっとした。風呂場の床が、床が! 粘土のように、触手のようにレジーの足に絡みついている!


「レ、レジーその足……うっ!」


 拓人はその言葉を言い切る前に、出現したシャボン玉の中に押し込まれた。


加速アクセル!」


 拓人を乗せたシャボン玉がレジーの指令とともに風呂場の外へ飛び出したのと、誰も触れていないにもかかわらず風呂場の扉が勢いよく閉まったのは、ほとんど同時だった。


「うわあああああああッ!破裂クラッシュッ、破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂ッ!」


 拓人は扉越しに悲鳴のような幼女の指令と、それに応じた破裂音を聞いた。


「やだっ、やだあっ! 触らないで! 気持ち悪い……やめて、やめてよぉ……ひっ、た、す、けて、アン……」


 すぐに、悲鳴も、物音も聞こえなくなる。風呂場の扉が、今度はひとりでにギイイ、と開いて……中は空っぽ。誰もいない。



 レジーも、消えてしまった。



「ひ、ひいいいいいいいいいいッ!」


 シャボン玉も消え、拓人はいずるように脱衣室を出て、部屋の出口へと向かった。


 何が起こったのか、まるでわからない。ただ、逃げなければ、助けを求めなければ。


 レジーが言っていた直感らしきものは、まだ感じない。二人はまだ生きているのだろう。しかし、ゆえにこそ『自分が捕まると、どうなってしまうのか』という恐怖は絶大だった。


「ワ、ワシが殺されてしまったら2人は……」


 死ぬ。守ると誓ったばかりであるはずなのに。


「ギフトさん! ギフトさんギフトさんギフトさんッッ!」


 拓人は出口に向かいながら、狂ったように叫んだ。だが、壁一枚隔てた先から返ってくる言葉はない。


 出口にたどり着き、すぐさまノブを回す。


 開かない。回らない。


「なんでっ⁉︎ なんで、なんでなんでなんでなんで!」


 すっかり気が動転していた拓人はノブから手を離して、扉にタックルしようとした。その小さな身体で体当たりをしたところで、扉を破れるはずもないのだが、そのささやかな抵抗さえ許されることはなかった。


「あ……」


 握ったノブに、手のひらが、すっかりくっついている。まるで溶接されたかのように、ぴったりとして離れないのだ。


 拓人は今さらながらに悟った。アンを襲ったのは壁抜けだとかの能力などではない。


「これは、この宿全体が……」


 だが気づいたところで、もう遅い。自分が今立ち尽くしている床にみ込まれる感覚を味わいながら、拓人の意識はそこで途切れた。

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