第5話 ハナエ
少しクラクラとしたが、二階から一階を見下ろすことが出来た。最初来た時よりも人がかなり増えていた。ウィンドーからは、明るい陽射しが入り込んでいた。
文夫は、それを眺め、「ふーっ」と大きくため息をつくとのどが渇いていることに気付いた。
二階から一階へ降りる長いエスカレーターを降りながら文夫は、外国車のショールームに隣接したカフェを見つけた。 まだ、お客さんは少ないようだ。
――ああ、なんか飲んでいこう。 のどがカラカラになってる。
壁の上の方に書いてあるメニューを眺めながらもうカフェオレと決まっているのに、他はどれがなんだか分からないから見てるフリだけで、悩んだあげく決めましたよっていうタイミングでレジの女性を見た。
「カ、カ、カフェ、ユリエ?! 」
やや、大きな声で叫んでしまった。
――ユリエだろ? 髪型は違うけどユリエだろ。 今、確かに反応したじゃん。 もう見つけてしまった。 いいのか? こんなに簡単に見つけても。
文夫がユリエと叫んだその女性は、目が切れ長で、まつ毛が長く、色白で確かに顔はユリエに似ていた。 文夫が、「ユリエ」と叫んだ時、確かに少し驚いたような表情を一瞬みせたがすぐに平静を取り戻して普通に返答をした。
「いいえ、私は、ハナエです。 申し訳ございません。 ユリエというメニューは当店にはございません」
――ここも下の名前かぁ。 このビル全体がファーストネーム化しているのか?
「いや、注文ではなくて、あなたがユリエさんじゃないかと」
「分かります。 ジョークです」
ハナエと名乗ったその女性は、にっこり笑って答えた。
――やっぱりユリエ?
文夫の家に来て冗談も言ったユリエとその笑顔を再び思い出し、ユリエであってくれと願った。
「私は、ユリエではありません。 ハナエです。 ユリエという人が私に似ているんですか?」
「そう言いながらユリエなんでしょ?」 文夫は、勝負に出てみた。
「私はハナエです」
「お待ちのお客様お先にどうぞ」
「あちらの隅で待ってていただけますか、もうすぐ交代が来ますから後でお話お伺いします」
「は、はい。分かりました」
ハナエと名乗るその女性は、あくまでハナエと言い放ち、後ろで注文を待っていたお客を先に回して文夫に隅で待つよう伝えた。
――やっぱりユリエだぞ。 だからぼくとさしで話してくれるんだな。
文夫は、そうブツブツと心の中で呟きながら隅の席に着いた。
――やった、ユリエと話ができる。 なんだかのどが渇いたなあ。いや最初からのどが渇いてここに来たのでは?
しかし、文夫は、のどの渇きを我慢してハナエに言われた通り隅の席でじっと待つことにした。
二〇分ぐらい待っただろうかハナエが制服を私服に着替えて、トレーに飲み物を乗せてやって来た。
「お待たせしました。アイスカフェオレで良かったですか?」
「えっ、どうしてカフェオレが飲みたいと分かったのですか?」
「何年もレジをやっているとだいたいお客様が注文するもの予想がつくようになったんですよ。 オレンジジュースもありますからどちらを選んでもらってもいいですよ。 私はどちらでも構わないです。 あっ、これは、私のおごりです」
――やっぱりユリエだな。 このあと言うぞ。『実は、私はユリエです。あの時はすみませんでした。お詫びの印と言ってはなんですが、飲んでください』とかなんとか。
文夫は、カフェオレを持ってきてくれたことにも驚いていたがすっかりハナエは、ユリエだと信じ込もうとしていた。
「ありがとうございます。 カフェオレを頂きます」
「違いますよ。 私は、ユリエではないですよ。 まだ、ユリエだと思っていらっしゃるんでしょ? そんなに私、ユリエに似てますか?」
ハナエは、椅子に座りながら言い出した。
――どうしてユリエを呼び捨て。 ユリエと知り合い?
「ユリエを知ってるんですか?」
「私と似ているユリエなら知っていますよ。 ユリエと会ったんですか? 実は、私もその辺のところを聞きたくて待ってもらったんです」
――ああ、ユリエじゃないんだ。 ユリエは、もう一人いる? いや、この人はハナエと言っている。 名前は違っても同じならどちらでもいいのでは?
文夫は、危うく最初の目的を見失いそうになった。
「どこでユリエと会ったのですか? いつですか?」ハナエが尋ねた。
――えっ、ここでダッチワイフを注文したらユリエがやって来たなんて言えない。 どうしょう?
文夫は、嘘はつけない性格のため、ややためらいながら答えた。
「一週間前です。 一週間前にユリエがうちにやって来ました」
文夫は、なんとか嘘無しで答えた。
「ひとりで? 何をしに来たんですか?」
―ああ、もうだめだ。
矢継ぎ早に尋ねてくるユリエそっくりなハナエに見つめられながら文夫は、正直に全て話す覚悟を決めた。
文夫は、顔を赤くしながら答えた。
「実は、恥ずかしいんですが、ここのスウェック社にダッチワイフを注文したんです。そしたらユリエがうちにやって来たんですよ」
「ひとりで来たんですか?」
「いや、後で技術部長の研三という中年男性も来ました」
「研三」
ハナエは、明らかにその名前に反応した。
「あなたが、正直に話してくれたから私も正直に話しますね」
――何故正直に話したと分かるんだ?
文夫は、心の中で呟いたつもりだったが、
「分かりますよ。そんなダッチワイフを注文したなんて冗談でも恥ずかしくて言う人いないですよ」
文夫の顔はまた真っ赤になっていた。 そして続けてハナエが
「研三は、私の旦那なんです」
――えーっ? ユリエと同じ顔のハナエの旦那が研三で、研三と一緒にいたハナエと同じ顔のユリエの旦那ではない。 分からない。
文夫は、また混乱していた。
「じゃ、やっぱりあの時来たのは、ユリエじゃなくてあなた、ハナエ?」
――そうか、そうだったのか。
文夫は、一瞬、解決した様な気がししたがハナエがすかさず否定した。
「違いますよ。 私はどこへも行ってないし、研三とは、ここ二年会ってない、一緒に住んでないわ」
「じゃ、ユリエは、誰なんですか?」
「研三を寝とった女よ」
――えっ。
文夫は、声には出さず冷静を装った。
「私とそっくりの顔をした若いユリエが私の旦那を寝とったの。 研三には、何よりも研究が優先だということは、分かってはいたんだけど、いくら研究だからと言ってもわざわざ私とそっくりの子を見つけて来てしなくてもいいじゃない。 しかも私たちのベッドで、私は、私一人で充分だわ。 そう考えるとどうしても許せなくなって家を飛び出したの。 そうね、それがもう二年も前のことよ。 まだユリエと一緒にいたのね」
「そうだったんですか。 あなたの旦那の研三をぼくが捜しているユリエに寝とられたんですね?」
「そうよ、あの女許せないわ。 いくら仕事のためとはいえ」
「すみません」 なぜか文夫は、謝ってしまった。
「あなたが謝ることないわ」
「はい、でも仕事のためって、ユリエは、やっぱり娼婦ですか?」
「やっぱり?」
「いや、仕事で研三さんと寝てたんでしょ?」
文夫は、なんとかごまかした。
「ユリエは、たぶんスウェック社の社員よ。 あれよ、あなたが言ってたダッチワイフの研究をふたりでしてたのよ。 ベッドの上でね」
――スウェック社の社員というのは本当だったのか。社員の女性とベッドの上で仕事? 羨ましい。 なんて凄い会社なんだ。 郵便局ではあり得ない。 文夫は、口には出さなかったがそんな風に思った。
「それで、どうしてハナエさんは、スウェック社があるこのビルで働いているんですか? 会いたくなくて飛び出したんじゃないですか?」
「最初はね、もう会いたくなかったから離れていたけど、段々と恋しくなってしまって家まで会いにいったのね。 そしたら家にはもう誰も住んでいなくて荷物もなかったの。 携帯も繋がらないし、会社に聞いたら辞めたって言うし、どうせ働かなきゃいけなくなってたし、ここで働きながら研三を待つことにしたの。 そしてもう二年になるけど、あなたが初めての手掛かりよ」
「そうなんですね。 ユリエそっくりなあなたがユリエと一緒にいる研三を捜していて、あなたとそっくりな研三と一緒にいるユリエをぼくが捜していて、あなたとぼくが今ここで話しているってことですね。 でも、ぼくは、今日初めてここに来ただけで、彼女たちのことは、何もわからないし、スウェック社の人も何も分からないと言っていました」
「そうなの。 スウェック社の人も分からないって言ったのね。 研三は、研究ばかりで、友達いなかったからね」
文夫は、ハナエの話を聞きながら段々変な気持ちになっていた。 顔は、大阪までわざわざ捜しにきたユリエとそっくりな女性が目の前で話しをしている。そして、研三の妻で、今は一緒に暮らしていないと正直な素生を話してくれている。 ユリエは、嘘をついたし、今どこにいるかも分からない。 もう、ハナエでいいのでは? という気持が込み上げ始めていたのである。
そんな文夫の気持ちを読んだかの様にハナエが続けて
「もう、ユリエじゃなくて私でいいんじゃない?」と言った。
――えーっ、なぜ?
「いえ、そんなわけには」
文夫は、びっくりして反射的に答えてしまった。
「冗談よ。 でも、それもいいと思わない? 検討してみて。 私は、付き合っていいわよ。 でも条件があるわ。 私と一緒に研三を捜して欲しいの」
「捜します、捜します」
文夫は、また反射的に答えてしまった。 いつもの文夫の正義感からすれば、人妻と付き合うなんて許されないことである。 しかし、なんだか
誘導されたように付き合うことになってしまった。
嬉しいような、困ったような感じだったがあえて深くは考えなかった。 それほど、ハナエも魅力的で、文夫の考え方に変化を与えていた。
「じゃ、決まりね。 付き合いましょう。 先ずは、名前教えてちょうだい。それから携帯もね」
――名前も知らないのに付き合うと決めるのか、ハナエは。
「は、はい。 文夫です。 堀内文夫です」
「文夫ね。 私は、ハナエ、平原華絵。 よろしくね」
――そうかあ、研三の妻だから平原か。
文夫は、心が少し痛んだ。
「どこから来たの?」
「熊本です」
「へーっ、そんな遠くから来たんだ。 ユリエたちもそんな遠くまで行ったってことね。それで、文夫さんは、何をしてる人?」
どんどん聞いてくるハナエの質問攻めは、女性と付き合った経験の少ない文夫には、初めてであったがとても心地よく感じた。
「郵便局に勤めています。 局長です」
「正直ね、局長がダッチワイフを買ったのね」
――えっ、鋭い突っ込み。 買ってない。 何も残ってない。 お金も返ってきた。 文夫は、心の中でそう呟いていたが言い訳は出来なかった。
「は、はい。 そうです」
「じゃ局長さん、これからよろしくね。 今度はいつ来るの? 毎週土曜日だったら私も土曜日、休めるようにシフトを変えてもらうわ。 また来週の土曜日ここで待ち合わせしましょう」
文夫とハナエは、お互いの電話番号を交換してハナエはまた仕事に、文夫は、街を少し探索して17時の新幹線に乗って熊本へと向かった。
新幹線の中で文夫は、今週一週間の出来事を最初から思い返していた。
ユリエの衝撃的な可愛さに目がくらみ560万円も振り込んでしまったけど、結局ユリエにもダッチワイフにも逃げられ大阪まで捜しにやって来た。
お金を返してもらうためじゃない。 お金は返してもらった。 人を騙してでも生活費を稼がなければならなかった可愛いユリエをなんとかしてやりたい。 自分は、何十年ぶりかに女性に惚れているかもしれない。 それを確かめるために大阪まで行ったような気がする。 しかし、ユリエは、ハナエから研三を寝とった女。 不倫である。 そんな女を正義感あふれる文夫が捜しに来てしまったのだ。 文夫は、悩んでいた。
――あーっ、ぼくが捜しにきた女性は、不倫女だったのか。 騙された?
いやいや、騙されたと分かってて捜しに来たはずだ。 捜し出してどうすればいいんだ? 不倫女に交際、はたまた結婚を迫る? いやー、それはいけないんじゃないか? それよりも同じ顔のハナエでいいんじゃないか? ユーモアもあるし、話しやすそうだな。 待てよ、ハナエは、研三の妻、人妻? いかん、いかん、いかんじゃないか。 不倫じゃないか。 でも付き合うとかなんとか言ってたな。 不倫? ユリエも不倫? ぼくが追いかけきたユリエが不倫していて、追いかけてきたぼくも不倫? ミイラ取りがミイラに? フリンフリン物語。 いかん、いかん。そんなの絶対にいかん。
文夫の正義感が不倫に蓋をしようとした。 だが、しばらくするとハナエの顔が頭の中をよぎる。
――ハナエは、また、来週会おうと言った。そうだ、一緒に研三を捜してあげるだけじゃないか。 人助けじゃないか、良かった。 でも『じゃ、付き合いましょう』って言ったなあ。 ハナエさん。 やっぱり不倫? あー。
文夫の頭の中は夕暮れの景色の中をまるで新幹線がトンネルに入ったり出たりするように薄暗い景色と真っ暗なトンネルの景色を繰り返すようでもあった。 やがて考え過ぎた文夫は、遂には来週も行かなければいけないと自分に言い聞かせながら広島を過ぎた頃眠りに就いてしまった。 文夫の正義の糸がほころび始めた瞬間かもしれなかった。
翌週、無事に仕事を乗り切った文夫は、前の週よりもややウキウキとした感じで大阪へと向かった。 ただ、不倫ではないかという重い疑問は抱えたままだった。 会って一緒に研三を捜すだけなら、一線を越えなければ、という思いが文夫の正義感を辛うじて支えていた。
――研三とユリエを捜し出したらハナエと研三によりを戻してもらって、ユリエに交際を申し込もう。 そうすれば、フリンフリン物語ではなくなるんじゃないか? そうだよ、そうすればいいじゃないか。 ユリエと研三に不倫を止めさせて、ぼくがユリエに交際を申込む。 それを目指そう。 そう結論づけると安心して眠りながら大阪へと向かった。
毎週、スウェック社のあるビルのカフェで、待ち合わせたハナエと文夫は、最初のうちは、以前住んでいたマンションの周りに聞き込みをしたり、考えられる方法を一つずつ実行していったが、いっこうに手掛かりは得られず、一年が過ぎた頃からは、特に捜すところはなくなって、カフェでお茶、デパートで買い物、レストランで食事など、まるでふたりで毎週デートしているようで、研三やユリエを捜す目的だったことを徐々に忘れかけていた。
文夫は、土曜日だったり日曜日だったり、仕事の都合に合わせてほぼ毎週大阪まで通った。 だが、泊まることはなく、いつも日帰りだった。 また、ハナエが文夫を引き留めることもなかった。 そうしながらもふたりの間は、徐々に本当の恋人同士の様に熱くなりつつあるのをお互い感じていた。
そんなふうになって、ある三月の土曜日。ふたりで研三とユリエを捜し始めてから間もなく二年になろうとしていた春のことである。
「ねえ、チューリップがたくさん咲いてるカフェができたのよ。 行ってみない?」 ハナエが文夫に切り出した。
「チューリップかぁ、いいね。 好きなの?」
「うん、私、昔からチューリップ好きなの。 なんか元々は自然界の植物なんだろうけど、人工的にも見えて形も完ぺきでしょ。 色も人工で作ったみたいなんだけど、それをまた超えてるような色じゃない」
「ああ、そうだね。ヨーロッパから入って来た花だからそんな風に感じるのか、ぼくもそんな気がするよ」
「チューリップに限らず世の中の花は、徐々に人間の鑑賞用に変わっていってるのかもしれないけどね」
ハナエと文夫は、こんな話も普通の恋人同士の様に会話できる様になっていた。
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