33.精霊術師、自然体で行く


「レオン、何をするつもりなのー?」


「エリス、まあ見てなって」


 エリスが目を輝かせながら顔を覗き込んできた。俺がこれからやろうとしていることに彼女も興味津々な様子。


 ここで普通の喧嘩したところで、酒場で喧嘩なんて珍しくもないだろうし、無の下位精霊の興味を引くことはできないはず。


 だから俺は普段見られないような、かつ自然な感じの喧嘩のやり方を選ぶことにした。


「ひっく……おい、何黙ってんだよ、あ? 追放されるような下劣な人種の分際で、人様に喧嘩売ってんなよ?」


「…………」


 やつは沈黙している俺がカモと見たのか、酔いも手伝ってはいるんだろうが今にも掴みかかりそうな勢いになってきた。


 だが、こうして黙っているのはあくまでも焦らし行為にすぎない。当然、それは無の下位精霊にも向けられたものだ。こっちのほうがより吸引力を生むし、エリスの反応を見てもわかるように好奇心も引き出せるというわけだ。


 俺はなんの恩恵も得られないと思われていた精霊術師だから、そういう細かいところもわかるというか見えるようになった。地の精霊なんかは、道案内中に風が吹いたときに一瞬気を強くする。それは、風によって周辺の景色が乱れ、大地の匂いを掻き消されることで迷いが生まれるのを防ぐためで、自身が舐められないようにするためでもあるんだ。


「おい、だから何黙ってんだっての、ビビッてんのか? 笑えるな、こいつ」


「…………」


 まだだ。動くのはまだこのタイミングではないってことで、俺はさらに沈黙してやった。


「おい、いい加減にしろよ――!」


「――あれ、余裕がなくなってきたな?」


「こいつ、人様をおちょくってんのか……!?」


 やつが立ち上がって殴りかかってきたが、当然痛くも痒くもなかった。


「……あ、あれ……?」


 何度か拳を叩き込んできたあと、やつは自分の拳と俺の顔を交互に見て唖然とした表情になった。


「満足か? 俺はな、あんたをおちょくったつもりはない」


「……な、何……?」


「ただ、あんたのことが心底可哀想だと思っただけだ。グラスに映る自分の姿を見てみろ。顔は真っ赤で目は吊り上がり、鼻息も荒く、おまけに口も悪いときた。これじゃ、追放された人間のほうがよっぽど幸せに見える」


「ぐっ……」


「結局、あんたは羨ましいだけなんだ。追い出されても、自分の生き方を貫くような人間が。自分には何もないから、空っぽだから、汚い悪口を言う自分がようやく上になった気分でいられる――」


「――や、やめろおおおぉぉっ!」


 やつはグラスを割ると、そこから逃げるように立ち去っていった。周りから歓声や拍手が上がるのは、それだけ彼らがあの男に支配されていた証拠なんだろう。だが、俺は人助けなんかしたつもりはない。


「勘違いしないでくれ。俺はあんな自分勝手な人間を放っておけなかっただけでな、言われ放題だったやつも含め、今まで見て見ぬ振りをしたやつも同罪だ」


「「「「「……」」」」」」


 俺の投げかけた言葉に対して、みんな気まずそうに黙り込む。それは、無の下位精霊に向けた台詞でもあった。


「あっ……いる、近くにいるよ、レオン……」


「…………」


 エリスが呟き、俺は黙って相槌を打つ。遂にこのときがやってきたか。とどめの言葉を言い放つときが。


「お前は無の精霊じゃない。だ」


 その直後、ゾワッとした感覚が体中を駆け巡ったのがわかった。


 威嚇してきたんだとはっきりわかる。エリスでさえも青ざめた顔をしていることから、それがどれほど強力なものかが窺い知れる。


「……出ていけ……」


 まもなく、透き通るような声が脳裏に響いてきた。おそらく俺たちにしか聞こえないような小さな声だが、それでも充分すぎるほどに伝わってきた。


「ここに無の上位精霊がいるのに、挨拶もしないのか?」


「……関係ない……」


「関係はある。だから覗いてたんだろ?」


「…………」


「素直になるんだ」


「全部無駄……何をしても、虚しいだけ……」


「そう思うなら、何故ここにいる?」


「……そ、それは……」


「お前は求めていないようで求めている。虚しいと思うのは、見付からないからだ。自分の欲しいものが」


「……そんなの、初めからなかった。どこにも……」


「じゃあ、俺たちと一緒に見つけに行かないか?」


「…………」


 あ……俺の隣に、黒髪に黒いワンピースを着た黒尽くめの少女が現れるが、周りはそのことに気付いた様子がない。ってことは、この子は俺たちにしか見えてないってことだ。どうやら、ようやく無の下位精霊が姿を現してくれたらしい。エリスと姉妹じゃないかってくらい顔立ちとか雰囲気は似てるものの、表情がまったくなかった。


 まだまだ警戒してるのか強い圧迫感を覚えるし、ここからは俺だけでなく、エリスの協力も必要だろう。


「ねえ、一緒についてきて? わたしも、ずっと一人で寂しかったけど、レオンがやっと契約してくれたの!」


「……そう」


 無の下位精霊は一呼吸置いて淡々と呟いてみせた。


「私も一人だったし、興味はあるけれど……どうしたらいいのか、全然わからない。自信だって無い、役に立てないのに、ついていく意味がわからない……」


「ずっと独りぼっちだったんだから、わからなくて当然だ」


「…………」


「だから、とりあえずついてくるだけでいい。少しずつ、お互いにわかり合っていければいいだけだから」


 俺は彼女を無理に元気づけようとは思わなかったし、同情しようとも思わなかった。ただ一緒に来てほしい、その思いだけを台詞に込めることにしたんだ。そもそも相手は精霊だし、人間が上から目線で説教するのもおかしな話だから。


「……本当にそれだけでいいの……?」


「ああ。来てくれるか?」


「来てくれるー?」


「……うん……あ、あれ……?」


 無の下位精霊は片目から一筋の涙を流したあと、不思議そうにそれを拭ってみせるのだった。その自然な輝きを見て、俺は我に返った。彼女もエリスと同じようにオリジナル、すなわち生身の精霊なのか……。

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