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黒い前髪は目にかかるほどの長さで、手に持ったコーヒーカップを彼女が覗き込む度にさらりと流れてレースのカーテンのように俺の視線から彼女を守る。意識していないと思わずそのカーテンを彼女の耳にかけてしまいそうで、そうならないよう俺は自分のカップをぎゅ、と握りしめた。
今日初めて会ったこの女の子はスズノ・サキサカという名前で、日本から来たらしい。同じ国出身の知り合いがいるからその国のことはそれとなく知っていると彼女に伝えると、彼女は一瞬だけ不思議そうな顔をした。けれど「まあいっか」とでも言いたげな表情を浮かべて沈黙してしまったため、俺は深く詮索しないでおこうと視線を下げて手元の黒い液体を眺めることにする。
「アルノルトさんはこのあたりに住んでいるんですか」
不意打ちの質問に内心驚く。目の前の彼女に自分の心情などばれていないと分かっていながらも、つい癖でからかい口調の言葉がついて出る。
「なーに、気になる?」
「常連さんってことはこのあたりの人ですね」
「待って」
他の女の子なら「揶揄わないでよ」とか「気になりません」とか、そんなことを言って頬を膨らませたり赤らませたりするところを、彼女は斜め上の返答をする。
「俺はキミのことをもっと知りたいんだけどなあ」
拗ねたふりをしてみれば、彼女はふっ、と息をこぼして笑う。
「質問なら受け付けますよ」
「何でも答えてくれるの?」
「もちろん」
「……それは不用心だと思うけど」
「そうですか?」
きょとんとした顔でこちらを見つめる彼女はやはり不用心に見える。見えるのだけれど。話してみれば多少は相手のことが分かるはずなのに、俺はどうしても彼女のことが掴めなかった。黒に近い茶色の瞳に正面から見つめられるとこちらが心の奥底を覗かれる気がして、彼女の方は油断も隙もないように感じられる。けれど、彼女は同時に人を信じすぎているようにも思えたのだ。
人を容易に信じるということは、そのまま隙ができることを意味する。そのような善良さは、人を弱者にする。
「じゃあさ」
俺はいつも通りの声色と、いつも通りの笑みを意識する。
「キミはなんでここに来たの?」
そういえばまだ尋ねていなかったと思い、彼女にそう問う。
「えーっと」
少し考え込んだ後。
「知らない場所に行きたくて。ハルシュタットは友人に勧められた土地なんです」
言葉を選びながら彼女は答える。
「ああ、ここの景色は綺麗だもんね」
「はい。けど、友人は多分景色の良さだけで選んだわけではなくて」
「へえ?」
「友人が最近気に入っているゲームの始まりの場所らしくて。恋愛シミュレーションゲームだか乙女ゲームだかの」
聞き慣れない言葉に疑問を抱かないわけではなかったが、それでも俺は彼女の話を遮らずに目で続きを促した。
「主人公がある日旅行でハルシュタットを訪れるんです。そうして町中をふらりふらりと歩いている主人公の姿を、一人の男性が見かけるところから物語は展開していきます。男性が主人公に話しかけ、旅の目的を尋ねたところ、主人公は恥ずかしそうに『死に場所を探しているんです』と答えます」
「え」
「そういう反応になりますよね、分かります」
初対面の人間に突然そんなことを言うなんてどうかしている、と彼女は息をついた。いやいや、そもそも主人公が死にたがっているところから始まる恋のゲームっていう設定が変じゃない?
「そんな主人公に対して男性は何かを言うんですよね。提案をもちかける。彼の言葉に同意を示した瞬間、主人公は気付けば見知らぬ場所に立っていた」
「急な展開だねえ。その男はどんな提案をしたの?」
「忘れました」
悪びれる様子を全く見せず、スズノはきっぱりとそう言った。その素直さというか無頓着さが清々しくて、俺は思わずくすりと笑いを溢す。
「私が覚えているのは、主人公が辿り着いてしまった場所が不思議なお屋敷だということくらいです。世界中から集まった、魑魅魍魎の住む大きな館」
え、と声を発しそうになり、けれどすんでのところで息が漏れ出るにとどめることに成功する。
「主人公が最初に出会ったのはのらりくらりと生き続けるヴァンパイア。彼はその屋敷の住人の一人で、ウェアウルフや天狗、人魚やジャック・オー・ランタンと住んでいたんです」
ちなみに全員男性キャラクターです、乙ゲーなので。そうスズノが付け加えた言葉を耳の端で微かに捉えるも、つまりはそれくらいのことしかできない程に、俺は動揺していた。
「アルノルトさん?」
彼女の声に気遣いの色が感じられ、はっとする。
「あ、ごめん。少しぼーっとしてた」
「私の方こそすみません。よく分からないゲームの話なんかして」
「待って待って。つまらなかったわけじゃないから。話の展開にびっくりしただけ」
少し不気味なくらい親近感のある、その内容に。その偶然に、驚いただけだ。
「ちなみにさ、その後の物語はどうなっていくの?」
完璧な笑顔を作ることを意識しつつ、俺は彼女に話を振る。
「この続きが知りたくば、ゲームアプリをインストールせよ」
「へ」
「と、私は友人に言われました。その友人には他にも色々と話を聞かされましたが、彼女はもともとそのゲームを本来の用途で楽しんではいないので。多分あの話の大半があの子の妄想なんじゃないかな」
話はおしまい、と発する代わりにスズノはコーヒーカップに口をつけた。自分としては気になる点が多すぎるが、これ以上掘り下げようとするの俺らしくないかと口をつぐむ。
その後何を話したのかは正直なところあまり覚えていない。きっといつも女の子たちに発しているような文言を、ぺらぺらと意味もなく並べ立てていただけに違いない。スズノはと言えば、そんな俺に対して文句を言うでもなく、けれど相変わらずさっぱりとした態度で付き合ってくれた。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
果たして本当に楽しかったの、その顔は。ほとんど表情筋を動かしていないように見える笑みを浮かべるスズノをみつめながら、俺は内心そう拗ねてみる。
「いーえー。こちらこそ、キミみたいな可愛い子と話せてラッキーだったな」
「ははは」
目が笑ってないんだよなあ、と苦笑する。二人の間に少し沈黙が流れ、しかしすぐに俺はそれを破った。
「あのさ」
くっきりとした二重がついた彼女の瞳が、俺を見つめて控えめに揺れたように感じられた。深い黒の目はよくよく見ると茶色がかっており、淹れたてのコーヒーを光にかざしたときもこんな色彩だったとふと思い出す。
「俺のものにならない?」
軽薄な笑みを貼り付けて、軽薄な言葉を吐き出す。真面目そうで人のいい彼女なら、軽蔑を俺に向けるだろうな。そんな予想をしていると。
「いいですよ」
表情を変えず、スズノはあっけらかんと返答した。
「…やだなあ、冗談に決まってるじゃん」
とっさについて出るものは、やはり軽くて薄っぺらい声だけで。
「まあ、そうでしょうね」
返ってくるのはまたしても平然とした声色の言葉だ。
「わあ、お見通しってわけね」
「案外長い時間一緒にいましたからね」
長い、か。お互いの時間の感覚が大きく異なっていることを、そんなたわいもない単語で意識する。
「また機会があればお会いしましょう」
「俺は夜まで一緒っていうのもありだと思うけど」
「遠慮しておきます」
「ざーんねん」
「でも楽しかったのは本当ですよ」
下から俺を覗き込み、彼女はふわりと微笑む。わあ、かーわいー。
「それじゃ、また」
「うん、また」
くるっと踵を返し、彼女はこちらを振り返ることなく去って行く。すっと背筋を伸ばした後ろ姿は初めて見たときにも思ったけれど、本当に綺麗で。
また、なんてものはないのにね。
「あーあ。やっぱりもっと食い下がればよかったかな」
なーんて言ってみる。
「ってやめやめ。俺らしくもない。さ、夜のお相手でも探しに行こっと」
俺もスズノに背を向け、そこら中に秋色をばら撒く夕日に照らされながら橋を渡り。
誰に気づかれることなく、静かに姿を消した。
不老な軽薄は死にたがりの陽キャを救えるか 憂 @chanson-douce_2U
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