Now Loading...
オーストリアのハルシュタットは世界一美しい湖畔の町と呼ばれており、世界遺産にも指定されている。透き通った湖は山に囲まれ、そんな山に沿って重なるように家々が立ち並ぶ景色はこの辺りの土産物屋でポストカードに使われるほど象徴的だ。街を歩いていると時折自分が絵画の中にいるような気がしてくるのは、自然や建物を含めてハルシュタット全体が色彩豊かだからだろう。今は秋だからなおさら。
「やあ、お嬢さん。一人旅?」
油絵具のような濃密さを持つ紅葉に目を奪われて横を向いていると、前方から声をかけられた。こんな場所でナンパなんて、この景色に似合わないにも程がある、と思いながら声の主に目をやった。
「へえ、横顔が綺麗だと思ったけどどちらかというと可愛い系じゃん」
見事なまでに軽薄な言葉の連なりは、やはりこの街にはそぐわない。だからこそ私は今初めて会った目の前の彼に対して悔しさを覚える。
その青年は、この街の化身だと言われても納得せざるを得ないほどに華やかな容姿をしていた。
「わー、見るからに面倒くさそうな顔」
思わず顔を顰めてしまったからか、青年は愉しそうにそう言った。
「……いや、どちらかと言うと腹が立つなあ、と」
「えー?」
紺を基調とした装いをしていて地味に見えないのは彼の整った顔立ち故だろうか。スリーピーススーツは彼のスタイルの良さを際立たせており、ジャケットを閉めず、さらに白いワイシャツに至っては第三ボタンくらいまで開けるという着こなしは彼の性格を表しているように思えた。
って、ナンパじみたことをしてきただけでチャラいなんて偏見だな。いかんいかん。
「なあに、俺のことじーっと見て。照れるなあ」
「偏見でもないな」
「へ?」
「いえ、こっちの話です」
「ふーん?」
そんなことはどうだっていいんだ。必要以上に人と関わらずに済むからこそ海外で一人旅をしているのだ。こんな場所でまで言葉の通じる人間がいるとは思わなかったけれど、ここは退散するに限る。
そう考えた私は無言で回れ右をした。
「えっ」
と驚きの声をあげる青年のことなど振り返らず、私は早足でその場を去ろうとする。が、しかし。
「ねえ、逃げないでよ」
軽やかな足取りで男は後ろから私を追い越し、くるりとこちらに体を回転させて通せんぼする。おのれ、脚が長いな。
「いい喫茶店を知ってるんだ。付き合ってよ」
両手の親指をポケットに引っ掛け、男は小さく腰を折った。見るからに柔らかそうな髪がふわりと揺れ、前髪が軽くかかっていた二つの瞳が私の顔を覗き込む。
冬の日中、空がひどく遠く感じるまでに澄み切った快晴の日。そんな美しくも寒さが目に染みるような一日が終わった後に訪れる夜の色が、彼の瞳に宿っていた。
「まーたそんな風に俺のこと見て。惚れちゃった?」
「惚れませんよ」
「えー」
「でも」
「でも?」
「カフェじゃなくて喫茶店なんだ」
ふふ、と笑いをこぼした私を見つめながら、男は不思議そうに大きな目を瞬かせている。
「と、思ったのでご一緒します」
きっと何を言っても目の前の青年は食い下がるだろうし、何よりそんなやりとりを延々と続ける方が面倒だ。そんなことを考えながら男の方に目を向けると、彼は小さく驚きを浮かべていた。なんだ、その意外そうな顔は。その反応の方が意外なんだが。
「まさかOKがもらえるなんて」
「え、もしかして断ったらお引き取りいただけました?」
「それこそ『まさか』さ。言質は取ったからね、当然連れて行かせてもらうよ」
数多の女性に向けてきたのであろう完璧な笑顔をここぞとばかりに咲かせた後、彼は躊躇なく私の手を取った。スーツと同じ色をした、確かドレスグローブと呼ばれるものを身につけていた彼は軽快な足取りで歩き始める。グローブを挟んでいてもほのかに伝わってくる体温を感じながら、私はされるがままに引っ張られていった。
香ばしい香りを漂わせるパン屋とシックな塗装が施されたワイン専門店の間の狭い路地に入り込み、細い道を縫うようにして進んでいった先にその喫茶店はあった。重装感のある木製の扉を引き、青年は流れるように手を動かしてジェスチャーを寄越す。
お先にどうぞ。
手慣れてるなあ、と内心苦笑しながらも、私は会釈で感謝を示してから扉をくぐる。静かな店内に客はおらず、一人のマスターがカウンターで作業しているのが自然と目に入った。初老と思しきそのマスターはすっと背筋を伸ばしてシルバーのナイフを磨いていて、そんな彼の上品な仕草に思わず目を無われていると丸い眼鏡越しに目が合った。
「いらっしゃいませ」
気品と優しさが緩やかに漏れ出る微笑みを湛(たた)えて、マスターは一言そう発した。いや、正確にはそう言ったように思えた。私はドイツ語が分からないため彼の言葉の意味は理解できていない。ただ、この状況で出てくる言葉はそういったものだろうし、先程のドイツ語はどこか英語のwelcomeに似ていた気がしたのだ。
私を捉えていた視線は自然と後から入って来た青年へと滑らかに移動していき、何に驚いたのか控えめに目を見開いた。
「やあ、マスター」
後ろを振り向かずとも青年が華やいだ笑みを浮かべているのが容易に想像できる。そんな声で青年がマスターに挨拶をする。こちらもドイツ語での発言のため、実のところ何を言っているのか分からないけれど。
流暢な外国語を耳の片隅で聞き流しながら、私はゆっくりと店内を見渡すことにした。アンティーク調の椅子やテーブルはよくよく観察するとどれも違うデザインになっており、その不揃いさがどこか洒落ていて心がくすぐったくなる。壁の方まで目を向ければ天井まで届くか届かないかほどの高さの本棚が並び、一般的な書店では見かけないような豪奢な装丁の本が佇んでいる。かと思えば小さな鉢植えが置かれていたり、木彫りの人形がちょこんと座り込んでいたりもする。
「楽しそうだね、お嬢さん」
ここに連れて来くれた青年からそう声をかけられるまで、自分が夢中になっていたことに気付く。
「顔に出てましたか」
「んー」
答えを探そうとしているのか、青年は私の顔を覗き込む。
「いや、顔からは分からないな」
よく考えれば当然だ。彼はずっと私の後ろにいたのだから。
「ただ、雰囲気っていうか。わくわくしてるな、って思えるオーラが出てたから」
「それは、少し恥ずかしいな」
気まずい気持ちになって軽く握った拳で口元を隠しつつ、そろそろと顔を逸らす。その表情を逃すまいと青年は私と視線を合わせて回り込み、ここぞとばかりに口角を上げた。
「なーにそれ。かーわいー」
その顔を見たら恥ずかしさなんて吹っ飛ぶなあ。腹立たしさで。
「うわあ、一瞬で真顔に戻るじゃん」
「ははは」
「目が笑ってないんだよねえ。まあ、真顔も美人さんがからどちらにしても俺にとってはご褒美だけど」
なかなか強い精神の持ち主らしい。
「あなたはここの常連さんですか」
「まあね。会話、聞いてた?」
「ドイツ語は全く分からないので何を言っていたかは全然。やりとりがなんとなく知り合い同士のテンポに思えて」
「へえ、キミは随分と鋭いね」
「そうでしょうか」
「なのに知らない男にほいほいついてきたりして。危機感があるんだかないんだか」
やれやれ、とでも言いたげに首を振る青年をじとりと見つめながら、よりによってなぜそれをこの男に言われているのだろうと考える。
「悪い男には気をつけなよー?」
だからなぜそれを他でもないこの男が言うのか。
「ふふ、何か言いたげだね。じゃあ、話は常連である俺のお気に入りの席で聴こうかな」
こっちだよ、という言葉と同時に青年が歩き出し、私は誘われるように彼について行く。
「はい、こちらにどーぞ」
慣れた動作で一方の椅子を引き、彼は私に座るよう促す。こういうとき、スマートと言った方がいいのだろうけど。うーん、チャラい。
「今絶対失礼なことを考えてたでしょ」
おっと。
「はは、まさか」
目を細めて訝しげな表情をこちらに向ける青年に笑顔を返す。あー、私も人のことを言えないな。胡散臭すぎる。
「ふーん。まーいいけどー」
やけに語尾を伸ばしているのは抗議の意だろうか。小さく口を尖らせたその顔は今日何度も見てきた笑顔より幾分か幼く見える。
「とにかく座りなよ。で、まずはキミの名前を教えて?」
小首をかしげて笑う彼に、先ほどちらりと見えたあの幼さはもうない。ほんの少しだけ残念な気持ちを抱きながら、私は彼が引いてくれた椅子に座ることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます