第16話 ついに来た相談の時と甘い戯れ
わたしたちは城館の主とその家族用の広い食堂にいた。赤と白を基調とし、豪奢でありながら温かみのある部屋だ。イリヤさんは火の入っていない暖炉を背にした、長いテーブルの端に当たる主人用の席につき、わたしはその右斜め横に座る。
二人で作った少し遅めの昼食を食べながら、訊いてみる。
「イリヤさん、わたしには、さっきのあなたとエヴァリストさんの会話の意味がはっきりとは分からなかったのですけれど……」
切り分けた、牛とキノコのテリーヌを口に運びながら、イリヤさんは答える。
「今は知る必要はない。そのうち分かる」
それはどうなんだろう。わたしだってイリヤさんの考えは知っておきたいのに。それに、もし、わたしが何もできないでいるうちにイリヤさんに危険が及んだらと思うと、居ても立ってもいられない。
不満が顔に出ていたのだろう。イリヤさんがくすりと笑う。
「そんな顔をするな。今日は二人でゆっくり過ごすんだろう?」
「はーい……」
わたしお手製の
イリヤさん特製の舌触りが滑らかな
締めの
イリヤさんも頬を緩ませ、食事をしていた。それだけでも嬉しいのに、「やっぱり、オデットの作った料理は美味いな」と言ってくれたので、笑みが止まらなくなる。
久しぶりに食べる家庭の味に、心身ともに大満足で食事を終える。
今回の計画の相談相手になってくれたポーラには、既にタルトを含めた昼食を届けた。彼女はわたしたちの手作り料理を食べたいがために、いつも出される昼食を頼まなかったらしい。
「美味しそうですね!」と喜んでくれたので、あとで感想を訊こう。
「そろそろ居間に行くか」
イリヤさんが言い出したので、わたしは目をぱちくりさせた。
「え、どちらかの部屋ではないのですか?」
イリヤさんはため息をつく。
「寝台がある場所で長時間過ごしていたら、妙な疑いをかけられるだろう。……それとも、分かっていて言っているのか?」
イリヤさんがいたずらっぽく問いかけてきたので、わたしはぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違います! 居間に行きましょう! 居間に!」
そんなわけで、わたしたちは歯を綺麗にしたあとで居間に入った。
お茶の時に使う、丸テーブルを挟んだ椅子ではなく、ふかふかのクッションが置かれた長椅子に二人並んでかける。他には誰もいないからとても静かだ。
……もしかして、これは絶好の機会ではないだろうか。その、イリヤさんに発情期のことを相談するための。
どうやって話を切り出そうか。逡巡しているうちに、すっかり沈黙が場を支配してしまった。
どうしよう。気まずい。イリヤさんが時折こちらを窺っているのを感じる。とりあえず、何か声をかけなければ。
「……イリヤさん」
「なんだ?」
いきなり発情期がどうとか言われたらイリヤさんだって困るだろう。
「あ、あの」
「ん?」
「お耳をモフモフしてもいいですかっ!?」
思わずわたしの口から出た失言に近い台詞に、イリヤさんは首をかしげたあとで頷いた。
「……別に構わんが」
イリヤさんが頭をわたしの肩にもたせかけてきた。ほどよい彼の重みが心地よい。
わたしはイリヤさんの、先端が黒い銀色の左耳を撫でた。ふわふわで触り心地がフェルトみたいだ。右耳もわしゃわしゃ撫で、ついでに銀色の頭髪も撫でる。
イリヤさんが気持ちよさそうに目を閉じているものだから、こちらもほっこりした気持ちになる。イリヤさんの薄い唇が動いた。
「尻尾も触っていいぞ」
尻尾!? 犬だって尻尾をいじられるのは嫌がるというのに!
それに以前、イリヤさんは姉弟子でもある、師匠の奥さまに尻尾を触られそうになって、盛大に嫌がっていた。
「ほ、本当によいのですか?」
「触りたいなら、俺の気が変わらんうちに触れ」
「はい! 触らせていただきます!」
鼻息も荒く答えるわたしにイリヤさんは呆れ顔だ。わたしはそろそろと彼の尻尾に手をのばす。耳と同じく先端の黒い銀色の尻尾は、ふさふさしていてとても触り心地がいい。この適度な太さとちょうどいい長さがたまらない。
尻尾を撫でていると、イリヤさんの目がとろんとしてきた。普段は見せることのない表情を前に、わたしは顔をへにゃへにゃさせる。
「イリヤさんの尻尾を枕に眠りたいです……」
「それはやめろ」
イリヤさんの尻尾がするりと、つれなくわたしの手から逃げていく。
「あー……」
残念すぎて、思わず声が出た。イリヤさんはそんなわたしをほほえんで見ている。
うん、いい雰囲気かも。言うなら今しかない。
「あの、イリヤさん」
「なんだ?」
「は、発情期のことなのですけれど……」
「発情期がどうした」
「わたし、結婚が迫っているのに、まだ発情期になっていないのです!」
イリヤさんが目を丸くした。そうだよね。こんなに魅力的なイリヤさんと毎日接していてその気にならないなんて、失礼にもほどがある。
心中で恥ずかしさに身悶えしているうちに、イリヤさんの手がわたしの頭に乗せられた。大きな手が優しく髪を撫でる。
「そんなに、結婚前に発情期になりたいか?」
「だ、だって、結婚したらすぐに発情期になるとは限らないわけで……」
「なら、今すぐその気にさせてやろうか」
イリヤさんが目を細めたと思った瞬間、わたしはかなり強めに抱きしめられていた。首筋に顔を埋められ、唇を押し当てられる。いつもとは違う刺激に鳥肌が立ち、痺れに似た感覚が全身に広がっていく。
「イ、イリヤさん……」
ダメです、と言うべきなのだろうか。でも、どうにも心地よくて唇からは息が漏れるばかりだ。
それにしても、今のわたしは発情期が来ていないからイリヤさんもその気にならないはずでは……という考えが一瞬頭をよぎったものの、長い指でうなじをそっとなぞられて、一切の思考が吹き飛んだ。
イリヤさんが顔を上げてわたしの目を覗き込んでくる。サラマンドルの火が灯ったかのような金色の瞳に射られ、目が離せなくなる。
イリヤさんが口づけを落としてきた。キイチゴのいい香りがする。長い口づけのあとで、唇を舐められた。
「キイチゴの味がする」
身も心も蕩けるような甘い声音でイリヤさんが呟いた直後、彼の舌先が唇の隙間に割り込んできた。
初めての感覚と驚きからわたしが身をよじると、イリヤさんは顔を上げた。彼の端正な顔に迷いが浮かぶ。イリヤさんはたっぷり時間を置いて、名残惜しそうにわたしの頬を撫でると、身体を離した。
「これでもまだ、その気にならないか?」
よく分からない。そもそも、発情というのがどんな状態なのかも知らないのだ。
ただひとつ言えることは、あのままイリヤさんに求められていたら、わたしに拒否する、という選択肢はなかったことくらいで……。うう、恥ずかしい。
いつの間にか頬が上気している。答えあぐねたあとで、わたしは正直な思いを伝えることにした。
「イリヤさんのことは大好きですし、触れられると嬉しいですけれど……自分ではよく分からないです」
イリヤさんは柔らかくほほえむ。
「なら、無理をするな。お前の準備ができてからでいい」
そう言われた瞬間、首から上が火を吹いたように真っ赤になるのを感じた。心臓の音がうるさい。イリヤさんに聞こえているのでは、と思ってしまうほどだ。
やっぱり、わたし、イリヤさんが好きだ。彼以外、目に入らないくらい。
わたしの反応を横目にイリヤさんは座り直し、手元の小さな呼び鈴を鳴らした。お茶を持ってくるよう頼むつもりなのだろう。
その際にイリヤさんの口からこぼれた、「あと数か月の我慢だしな」という謎の言葉は、呼び鈴の涼やかな音に紛れて消えていった。
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