第3話 事件発生と過保護なイリヤ
廊下の向こうから歩いてきたのは、ベージュの髪とこげ茶色の瞳をした、イリヤさんの秘書、セルゲイさんだった。
獣族のひとつ、狸族である彼はやや小柄なことと、ベージュとこげ茶色が交じった丸みのある耳と尻尾とが相まって、少し可愛らしい容姿の青年だ。
二十代半ばという実年齢にそぐわない、少年のような外見にもかかわらず、セルゲイさんは実務に秀でていて、傭兵時代からイリヤさんを補佐してきた。
そのセルゲイさんが難しい顔で早足になっている。何か起こったのだ。わたしは思わず声をかけていた。
「セルゲイさん、何かあったのですか?」
彼は立ち止まった。
「これはオデットさん──いえ、オデットさま、実は少々厄介事が起こりまして、殿下にご報告を」
イリヤさんの率いていた獣族の傭兵団、パドキアラ団の団員さんたちは、今も全員が「イリヤ殿下」のもとで働いている。団長だったイリヤさんの身分が変わったことで、みな、敬語には苦労しているみたいだ。
セルゲイさんは昔、商人をしていただけあって、その辺も抜かりがない。その抜かりがないセルゲイさんが、何かを考え込むようにこちらを見て、尻尾をゆらゆらさせた。
「オデットさま、是非、あなたにも報告の場に立ち会っていただきたいのですが」
「え? 構いませんが、よろしいのですか?」
「はい。そのほうが事が円滑に進むかと」
どういうことだろう。そう思ったが、セルゲイさんは滅多なことを言うような人ではないので、わたしもともにイリヤさんの執務室に向かうことにした。うしろからポーラがついてくる。
長い廊下を歩き、執務室の前に到着する。扉の脇には獣族の衛兵が立っている。
セルゲイさんが扉を叩き、イリヤさんの応答を待ってから扉を開く。ポーラを廊下に残し、セルゲイさんと執務室に入る。
イリヤさんの執務室は片づいていて無駄な装飾がない。王族の執務室というよりは武人のそれだ。
イリヤさんが目をみはってこちらを見た。
「……セルゲイ、どうしてオデットを連れてくる」
「オデットさまにもおいでいただいたほうが、これから報告する案件の解決に近づくと思ってね」
肩をすくめながら、セルゲイさんは気安い口調で言った。
うーん。イリヤさんは領地経営のごたごたに、わたしをできるだけ巻き込みたくないようなのだ。
この国では、獣族は差別されている。いくら長く国内に住んで納税の義務を果たしていても、国民とは認められないし、なんらかのギルドに所属するためには人族の保証人が必要だ。
もちろん、就ける職業も限られる。まともな職にあぶれ、身を持ち崩した結果、不安定で危険な仕事の代表である傭兵になる人も多い。さらに悪くすると、犯罪者に身を落としてしまう。
ここ、カリスト領は代々王族が治めてきた由緒ある土地だ。その領主にかつての
イリヤさんが領地経営からわたしをそれとなく遠ざけるのは、おそらく、わたしに嫌な話を聞かせないためなのだろう。わたしのことを思いやってくれるのは、とても嬉しいけれど……。
イリヤさんはため息をつく。
「まあ、いい。話せ」
「うん。先ほど入った報告によると、この領都で獣族と人族が言い争っていて、ちょっとまずい雰囲気らしい」
「原因は?」
「商売敵同士の
人頭税とは、その人の納税能力に関係なく一定額を徴税するという、とんでもない税金のことだ。
この国ではほとんどの地域で、獣族にだけこの悪しき税金を課しているらしい。富裕層の獣族などあまりいないから、獣族を追い出すための方便なのだろう。イリヤさんが廃止したのも頷ける。
恥ずかしながら、政務の授業で習って初めて知ったことだ。
国王陛下は賢王と称されるようなお方だ。そんなお方でも人間である以上、好き嫌いはある。元々獣族がお嫌いだった上に、愛娘が
そう、生き別れになっていたイリヤさんが見つかるまでは。
イリヤさんはひとつ頷いた。
「なるほど。つまり、その獣族の商人のほうが商売上手だったというわけか」
「そういうこと。さすがイリヤだね。おまけに彼は馬族だそうだよ。馬の目利きと調教のうまさで人族が敵うはずがない」
イリヤさんは聡明なのでセルゲイさんもみなまで言わなかったが、要するに、こういうことなのだろう。
獣族の商人がその能力を活用して貸し馬屋を始めた結果、評判になり、以前から同じ商売をしていた人族の利益を脅かすことになってしまったのだ。
おそらく、人族の商人が「出ていけ」などと獣族の商人のもとに怒鳴り込みにきたことで、喧嘩になってしまったのだろう。あるいは、妬まれて嫌がらせをされた獣族の商人の心が、我慢の限界を迎えたのかもしれない。
「分かった。俺が仲裁に向かう」
イリヤさんがしなやかな動作で椅子から立ち上がった。
彼は領主になってからというもの、いざこざや陳情があるたびに、すぐに移動できる範囲内であれば部下任せにせず自ら赴いている。領民からの信頼を得るためだ。
仕組みはこうだ。まず、屯所や役場に案件が持ち込まれる。深刻そうだと判断されたものは、人族よりも俊足を誇る獣族によって速やかに城館に届けられる。選り分けられた案件は、必要があればイリヤさんのもとに上げられる、というわけだ。
今回は人族と獣族の諍いという繊細な問題だったので、イリヤさんに報告すべき案件だと判断されたのだろう。
セルゲイさんがにっこり笑う。
「そう言うと思った。それで、オデットさまも連れていってくれるんだよね?」
イリヤさんは顔をしかめた。
「ダメだ」
「えー、オデットさまもおいでになったほうが、絶対に話が円滑に進むと思うんだけどなあ」
「それでもダメだ」
「あの、イリヤさん」
セルゲイさんのやや斜めうしろに立っていたわたしは、小さく手を挙げた。
嫌な予感がしたのか、イリヤさんの銀色の眉がぴくりと動く。
「……なんだ?」
セルゲイさんが場所を譲ってくれたので、わたしは机を挟んでイリヤさんと向かい合う。
「セルゲイさんの言う通りだと思います。わたしもイリヤさんに同行します」
「だからダメだと」
「どうしてダメなのですか? もうお話は聞いてしまったし、今更隠すことはないですよね?」
イリヤさんは腕を組んで、視線をやや下に向けた。
「……お前に争い事は見せたくない」
やっぱり。でも、ここで引き下がるわたしではない。だって、
「それは過保護というものです。大体、戦場についていったこともあるのに、今更すぎます。戦争に比べれば、口論なんて可愛いものです。それに、実力行使の喧嘩になっても、自分の身くらい自分で守れます」
「ほら、オデットさまもそうおっしゃっておいでだし」
セルゲイさんが一言添えると、イリヤさんが深い吐息を漏らした。
「……仕方ないな。俺の婚約者は、日増しに口が達者になってくる」
「じゃあ、連れていってくださるのですね!」
声を弾ませるわたしに対して、イリヤさんはやれやれといった風にひとつ頷いた。
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