赤が点る。
「現場行ってきまーす。夏川さん、留守番お願いねー」
「はーい。行ってらっしゃーい」
建設会社の地方の支社に事務員として入社し、早十四年。
小さい支社なので、事務員は私一人で、作業員やら営業マンやらが出払ってしまえば、事務所には私だけになる。
月末月初以外は緩めの仕事内容なので、一人の時間はゆったりしていて悠々自適。
デスクにコーヒーとお菓子を用意し、頬杖をつきながらネットを見漁る。
「拓海が出るドラマ、今日からかー」
テレビの予定表を見ながら「二十一時からね。まぁ、忘れたらネット配信で見ればいっか」などと独り言を言いながらクッキーを口に入れる。
正直私は、拓海のファンではなく、岳海蒼丸の中では蒼ちゃん推しだった。
「蒼ちゃんが死んじゃうなんてねー。まだ若かったのに」
蒼ちゃんはいなくなってしまったが、蒼ちゃん推しとしては、蒼ちゃんがいた岳海蒼丸は応援しようと、岳海蒼丸のメンバーが出る番組などは見るようにしている。
しょんぼりしながら、拓海のドラマの情報を読んでいると、
「拓海、高校教師役なんだー。アイツが本当に高校教師だったら、JKとおかしなことになってクビになるだろうなー。拓海、モテるからなー」
背後から声がして、事務所には自分しかいないと思い込んでいたから、
「ゴホゴホゴホ」
ビックリしてクッキーを喉に詰まらせ、粉を吹きながら咳き込んで振り向く。
「大丈夫?」
そこにいたのは、蒼ちゃんにそっくりな男の子だった。
変な気管に留まっているクッキーをコーヒーで流しこみ、
「気付かなくてすみません。バイトの方ですか?」
その男の子に話し掛けた。
ウチの会社には、日雇いだったり短期雇用だったりの作業員が結構いる。『今日、バイトさんが来ること聞いてないんですけど。おかげで独り言聞かれたやんけ』と、連絡し忘れただろう作業員に少し腹を立てていると、
「バイトじゃないです。佐波野ミソノさん、俺の代わりにシナリオを書いてくれませんか」
蒼ちゃん似の男の子が、私の秘密を口にした。
「……誰ですか? それ」
白を切ろうと試みる。というか、切れると思った。だって私は、この話を家族にすら話したことがない。まして、初対面の自分と関わる機会もない若い男の子に話すわけもない。飲み屋で泥酔したとしても、絶対にない。だって、今までそんなこと一度もなかったのだから。
「とぼけますね、佐波野ミソノさん。やっと報われますよ、佐波野さんの小説。この前応募した作品、大賞を取りますよ」
しかし、男の子は私に白を切らせてくれなかった。
目の前の男の子が何者なのか、脳みそをフル回転させる。
「……出版社の方ですか? 私、応募書類に職場の記入はしてないはずなんですが、どうしてここに?」
私の秘密を知っている可能性がある人は、出版社の人間だけだった。
「違いますよ」
彼は、出版社の人でもないらしい。
「……あの、今日はどんな用件で? バイトでもないとすると、ウチの社員に用事ですか? お客様が来ることを存じ上げておりませんで、申し訳ありません」
「佐波野ミソノさんに用事です。さっき言ったじゃないですか。俺の代わりにシナリオを書いて欲しいって」
全く噛み合わない、蒼汰似の男子と私の話。もどかしい以上に、何故か自分の秘密が目の前の男の子に握られてしまっていることが、恥ずかしい以前に気持ち悪くて、怖い。
ここは平和な日本の中でも更に平穏な地方。大きな事件など起こったことがないため、事務所のセキュリティーは甘い。誰でも簡単に出入り出来てしまう会社の緩さを今になって恨む。
この男の子の目的は、ズバリ金だろう。見るからに十歳以上年上であろう私の身体である訳がない。『金庫の暗証番号を言え』などと刃物を突き付けられながら脅されたらどうしよう。まぁ、金庫の中には小口現金しか入ってないから、いざとなったら言ってしまおう。でも、『現金これだけかよ‼』って暴れられたら終わりだ。
「……あなた、誰なんですか?」
死ぬ前に、目の前の男が何者なのか知っておこうと、前置きや探りを辞めた。
「佐波野さんが好きな岳海蒼丸の蒼汰です」
自分の顔を指差しながら「知ってるでしょ?」とニッコリ笑う、偽物蒼汰。だって……。
「蒼汰くんは亡くなってます」
この男が蒼汰なはずがない。
「だからここにいるんでしょ。じゃなきゃ、こんなとこ来ませんよ。縁も所縁もないのに」
どうにもこうにも噛みあわない、偽蒼汰との会話。
「……あの、さっきから仰ってることが良く分からないのですが、蒼汰くんはもうこの世にいないんです。あなたが蒼汰くんであるはずがないんです。確かにあなたは蒼汰くんにソックリです。髪も赤くして、彼に寄せに行ってますよね?」
蒼ちゃんに憧れすぎて、蒼ちゃんになりきっている、蒼ちゃんの死にショックを受けすぎて、精神不安定になってしまった男が事務所に迷い込んでしまったのかもしれないなと、少し可哀想に思っていると、
「~~~うーん。やっぱそうなるよなー。どうしたら手っ取り早いかな」
やはり精神的に病んでしまっているのか、偽蒼汰がワシワシと自分の髪を掻き回した。かと思ったら、
「佐波野さん、握手しましょう」
突然おかしなことを言い出した。精神的に弱っている人間との接し方を勉強したことがない私は、偽蒼汰が何を考えているのか分からなすぎて、握手さえ怖い。
「……何の握手ですか? それに私は、佐波野ではありません」
「~~~もー。めんどくさいなぁ。じゃあ、ハイタッチにしましょう‼」
偽蒼汰がこちらに掌を見せた。
「……なんでハイタッチ?」
「大賞受賞おめでとうのハイタッチ」
「そんな連絡来てません」
「いいから早く手、出して。ハグの方がいい?」
「ハイタッチで‼」
偽蒼汰に言い負け、恐る恐る掌を偽蒼汰に向ける。
「ちゃんと見ててね」
偽蒼汰が私の掌に自分の手を伸ばした。……が、重ならない。
「……つ、突き破られた⁉」
蒼汰の手が、私の掌を貫通したのだ。摩訶不思議な体験に、目も口もかっ開く。
「イヤイヤイヤ、痛くなかったでしょうが」
「マジシャンだったんですね、アナタ‼ もう1回、いいですか⁉ さっきよりゆっくりめでハイタッチしましょう‼」
手品といえば、新年会や忘年会で社員が酔っぱらいながら行う、はっきり言ってしまえば、クオリティーの低いものしか見たことがなかった為、あまりにも高精度の偽蒼汰の技に感動した。
「~~~あぁー‼ どうしたら信じてもらえるんだよ‼ マジシャンじゃない‼ 岳海蒼丸の蒼汰だって言ってるじゃん‼」
今度は毟る勢いで自分の髪を掻く偽蒼汰。
「……よっぽど辛かったんだね、蒼ちゃんが死んじゃったこと。蒼ちゃんのファンだったんだよね? 可哀想に……。どこの病院に通っているのかな?」
この意志疎通の取れなさはきっと、心の病が重篤で、どこかの病院に通っているに違いないと思い、仕事中ではあるが、少しだけ事務所を閉めて彼を病院に連れて行ってあげようと、病院名を聞き出すことに。
「ちがーう‼ あ、やっぱもう一回ハイタッチしよう‼ 手品のタネ、気になるでしょ? スマホで動画撮ってください」
何かを閃いた様子の偽蒼汰が、再度掌を私に向けた。
「タネ、明かしちゃっていいんですか? でも、撮っていいなら遠慮なく」
大盤振る舞いなマジシャンやなと思いながら、スマホを偽蒼汰の手を撮ろうとするが、
「え、何で? もうマジック始まってるの?」
何故か彼の手はスマホのカメラに映らなかった。
「佐波野さん、俺の顔とか身体とかも撮ってみてください」
偽蒼汰に言われた通り、偽蒼汰の顔にスマホを向けるが、やっぱり映らない。
「すごいすごい‼ どうなってるの⁉ ていうか、なんでマジシャンがここにいるの? あ、流しですか?」
肉眼では見えているのに、カメラを通すと見えなくなる偽蒼汰の不思議現象に、驚きと興奮と何より謎が深い。
「流しって何? あ、あれか。昔の映画で見た気がする。路上パフォーマーのお店徘徊版か。芸見せてチップ貰うヤツでしょ?」
「言っておくけど、私が生まれた時にも既に流しはいなかったからね。私の方が随分年上だろうけど、そこまで昔の人間じゃないからね」
【流し】をかろうじて知っていた偽蒼汰に、必要以上におばさんに思われたくなくて、変な言い訳をしてみる。
流しから路上パフォーマーへと、形態どころか響きまでカッコよくなるという時代の流れに、【こうしてどんどん変化して行って、どんどん歳も取って、そして死ぬのよ】と、諸行無常を痛感する。変に虚しくなりながら、なんとなく遠い目をしていると、
「佐波野さんの歳、知ってますから。三十六歳でしょ? そんなのどうでもいいから、さっき録画した動画、再生してみてください」
偽颯太が、私の年齢を言い当てて、私の心臓を抉ってきた。自分の年齢なんて当然分かっているけれど、目を逸らせていたいのに……。
「……何で初対面のアナタが私の年齢まで知ってるの……」
何者かさっぱり分からない人間が、奇妙なことをしたかと思えば、私の素性を話してくる。
怖くて、気味が悪くて、自分の年齢が辛くて、何故か涙目になる。
「あ……すみません。話がなかなか進まなくて、焦って失礼なことを言いました。ごめんなさい。取りあえず、さっきの動画を見てみてください。ちゃんと説明したいので」
すまなそうにする偽蒼太に、恥ずかしくなってしまう。きっとコイツは、私が年齢を言われたことに落ち込んで半泣きになっていると思っているのだろう。それだけが理由じゃないのに。
唇を尖らせながら、スマホの再生ボタンをタッチし、さっき撮った動画を見返す。
「……ん? あれ? おかしい」
その動画は、偽蒼汰の姿がないだけではなく、偽蒼太の声も入ってなくて、ただ事務所の風景を撮りながら私が一人で奇声を上げているだけだった。
「佐波野さん、声が消えるマジックって見たことありますか?」
「……ない……です。ていうか、私は佐波野ではないんです。本当に」
なんかもう、今起こっていることが全て気持ちが悪い。怖い。
「うん、知ってる。本名は夏川さん。佐波野ミソノはPNでしょ。OLをしながらコツコツ小説を書いては度々コンテストに応募して、いつも最終で落ちちゃう」
偽蒼汰が、ハッキリと私の秘めごとを言葉にした。
私は三十六歳で独身。彼氏もいない。周りは結婚して子どもを産んで育てている。休日に気軽に誘える友人は数少ない。そんな私の暇つぶし兼趣味が、小説を書くことだった。
でも、恥ずかしくて誰にも言えなかったし、言いたくなかった。『三十六にもなって小説家目指してんのかよ』とか言われたくないし、恋愛モノなんか読まれた日には、『アイツ、三十六にもなって夢みたいなこと言ってやがる』って笑われたりしたら、生きて行けない。
それに、小説は本当に趣味の範疇で、安定したお給料がもらえるOLを辞める気なんか全くないし、コンテストに応募しているのは、賞金が欲しいのと、本が出せるなら出してみたいなー的な軽い気持ちだった。
口が裂けても誰にも言いたくないことが、なんでこの男の子にバレてしまったのだろう。
「……コンテストの下読みさんですか?」
偽蒼汰は出版社の人ではないと言っていた。だとしたら、このことを知っている人間は出版社から依頼されて、コンテストに応募された作品を読んで選別する下読み以外ありえない。だって、私は本当に誰にも話していない。寝言で言ったかもしれないが、この男の子と寝る機会などあるわけがない。
「だから、違いますって。岳海蒼丸の蒼汰です」
「だから、蒼汰くんは事故で死んじゃったんですって」
「死んでます。生きてません」
「はーいー⁉」
同じ言語で話をしているはずなのに、こんなにも意志疎通が出来ないなんてあり得るのか? と、もうお手上げ状態。
「じゃあ、私の事情は誰から聞いたんですか?」
「神様」
「……ブフォッ」
予想外の返答に、堪えきれずに噴き出してしまった。神様て……。神様て……。笑。
「あ、ご、ごめんなさい。……フフフ。ごめんなさいごめんなさい。……フフフ。笑ってませんから。……フフフフフ。怒らないで。殺さないでください。あの、今日はお金を強奪に来たのでしょうかね? ここは地方の事務所なので、会計関係は全部東京の本社でやってるんですよ。ここにあるのは数万円の小口現金だけなんですよ」
頑張って取り繕っているのに、どうしても口の端から空気が漏れてしまう。
「普通に笑ってるやん。つか、殺さないしお金が欲しいわけでもない。何言ってるんですか、さっきから」
「じゃあ、目的は何なんですか?」
「最初に言ったじゃん。俺の代わりにシナリオを書いて欲しいって‼」
そして話はふりだしへ。
「誰の目にも留まらない、趣味で小説を書いているしがない田舎のババアに頼んでないで、自分で書けばいいじゃないですか。それに私は今仕事中です。暇じゃないんです」
身体をパソコンの方へ向け、「まったくもう」と言いながらコーヒーを啜る。
「どこがだよ。クッキー食いながらコーヒー飲んで、ネットニュース見てるじゃん。ていうか、自分で出来たらとっくにそうしてます。出来ないから頼んでるんじゃないですか。さっき見たでしょう? 俺はパソコンを打つことが出来ません。物を触ることも掴むことも出来ない」
自称蒼汰が「ホラ」とパソコンのキーボードに手を置くと、またしてもキーボードどころかデスクまでも貫通した。
「おぉ‼」
何度見ても素直に驚く。
「私ね、もう三十六年も生きているから、少女漫画の主人公みたいに『幽霊になって出て来たのね‼』みたいな短絡さはないのね。でも、話が堂々巡りになりそうだから、全く信じてないけど、アナタが蒼汰くんだと仮定して話を先に進めますね。なんでアナタは、話したことも、会ったことすらない私にシナリオの代筆を依頼するの? アナタが本当に岳海蒼丸の蒼汰だったら、メンバーの誰かにお願いすればいいでしょ」
なんかもう、まどろっこしくなってしまい、目の前の男の子を【蒼ちゃん】ということにした。
「佐波野さん、シナリオの書き方を知ってるから話が早い。それに、俺の姿は一人だけにしか見えないんだって。岳海蒼丸の三人のうちの一人を選べなかった。一人だけに変な負担を掛けたくなかったから」
蒼ちゃんが、苦しそうに寂しそうに唇を噛んだ。
「【負担】かなぁ。私には実情は分からないけど、岳海蒼丸って傍からはめちゃめちゃ仲好さそうに見えてたんだけど……違うの? 蒼汰くんの姿が見えたら、大喜びすると思うけどな。まぁ、選ばれなかった二人は複雑だと思うけど。ていうか、私にしか見えてないってことなの⁉ あ、自分ばっかりごめんなさい。コーヒー飲みますか? お茶にしますか?」
私はお喋りをする際、飲み物がないと落ち着かないタイプで、会話の最中によく飲み、よくトイレに行きがちだ。蒼ちゃんと話しながらコーヒーに手を伸ばした時、蒼ちゃんに何も用意していないことに気付いて、『なんて気の利かないババアなんだ』と自分に若干苛立ちながら席を立とうとすると、
「お気遣いありがとうございます。でも、パソコンすら打てないのに、コーヒーカップなんて持てないです。話の続き、いいですか?」
蒼ちゃんが両手の掌を私に向け、「座って座って」と、私が立ち上がろうとするのを止めた。
蒼ちゃんの言葉に『それもそうか』と椅子に腰を下ろした。
「岳海蒼丸は本当に仲が良いんですけど、俺が見えたらみんな喜びますかね? 佐波野さん、めちゃめちゃ気持ち悪がってるじゃないですか。つか、今も信じてなさ気だし」
蒼ちゃんが、私と目線を合わせる様に、近くの椅子に座った。
「信じてないよ。だって、なんでパソコン打てないのに椅子には座れるのよ」
「座っている様に見えて、空気椅子です。幽霊なんで、疲れない。椅子、引き抜いてみてください」
蒼ちゃんが椅子を指差すから、言われた通りに引き抜くと、彼は座った姿勢のまま足を宙でぶらつかせた。
「おぉ‼ 浮いている」
驚きはしているが、不思議現象に慣れてきてしまい、感動も薄まる。
「なんかリアクション薄っ。さては、飽きてきましたね」
蒼ちゃんが、『ククッ』と笑った。
「【驚きの連続】みたいなキャッチフレーズの映画とかアトラクションってあるけど、本当に連続させちゃダメだよね。緩急がないと」
暗に『飽きた』ことを認めると、
「あはははは。やっぱり佐波野さんって面白い。さっき、『会ったことも話したこともない自分になんでシナリオの代筆を頼むの?』って聞いたじゃないですか? 確かに接点はなかったんですけど、俺は佐波野さんのこと、死ぬ前から知ってました。佐波野さんが出したコンクールの作品、俺も読んでいたので。審査員ではなかったんですけど、知り合いがそのコンクールの関係者で、『最終候補の作品、読んでみる?』って言われて、読ませてもらったんですよ。俺はぶっちぎりで佐波野さんのシナリオが一番面白いと思った。ドロドロした足の引っ張り合戦が最高だった。でも結果はアイドル作家が獲った。あれは完全に出来レース」
蒼ちゃんが、私がコンクールに応募したシナリオの概要をサラっと話した。そのシナリオは、ネットに一度も載せたことがない。関係者以外の人間は絶対に目にするはずもないものだった。
「でも、今度こそ大賞を取りますよ。シナリオじゃなくて、小説だけど」
蒼ちゃんがニコっと笑いかけた。
「なんでそんなことを知ってるの?」
「神様が言ってたから」
「…………ふっ」
やっぱり我慢しきれずに笑ってしまう。三十六歳に『神様が言ってた』はキツイ。
「笑ってやがる」
蒼ちゃんがほっぺたを膨らませて、鼻の穴を広げた。
「『神様が……』って話を信じさせたいなら、三十六歳はダメだって。もっと若い子じゃないと。せいぜい十七歳だね。大学生になると危うい。だっておかしいじゃん。もう蒼ちゃんの四十九日は終わってるはずだよね? なんで幽霊になってるの? 成仏しなかったってこと?」
『イヤ、幽霊て』と、自分の言葉にさえ笑ってしまう。
「ウチ、仏教じゃなかったんで」
「カトリック?」
「イヤ、無宗教。でも四十九日はやってくれたみたいですけど。……神様によると」
笑い続ける私に、苦虫を噛み潰したような表情で神様情報を口にする蒼ちゃん。
「『神様によると』ね。ていうか、私にシナリオを代筆させてどうしたいの?」
だけどどうしても笑い止めない。【神様】というワードで笑ってしまう私は、きっと天国には行けないだろう。
「それを、岳海蒼丸に届けてほしい。メンバーを失って可哀想なグループって印象を払拭させる、楽しい話なんだ」
「なるほど」
「それと、代筆とは別にもうひとつお願いもあって」
「何?」
コーヒーを口に含みながら蒼ちゃんの話に耳を傾ける。
「俺を、産んで欲しい」
「バファッ‼」
突拍子もない蒼ちゃんの依頼に、口の中にあったコーヒーを全部吐き出してしまった。
「大丈夫? コーヒー拭くことも、背中を摩ることも出来ないけど、大丈夫?」
蒼ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「大丈夫じゃないよ‼ 何言ってんの⁉ 頭おかしいんじゃないの⁉」
運良くコーヒーはパソコンにかかっておらず、急いでパソコンを持ち上げて避難させると、ボックスティッシュから大量にティッシュを抜き取り、デスクに広がるコーヒーを拭き取った。
「直近で妊娠予定で、シナリオも書けて、なんとなく好きだなーって人が佐波野さんだったんですよ」
私に頭の調子を疑われても、蒼ちゃんは話を続けた。
「はぁ⁉ 神様とやらに何を聞いてきたのよ。『直近で妊娠予定』って、彼氏もいないのにどうやって身籠るのよ。子どもの作り方、知らないのかよ。相手は誰だっつーの‼」
「経理の唐沢さん」
「いい加減にしてよ」
蒼ちゃんの口から出た忌々しい名前に虫唾が走り、コーヒーを吸いまくったティッシュを乱暴にゴミ箱に投げ捨てた。
経理の唐沢とは、東京本社の経理部で、六歳下の男だ。私がいる事務所は、社員はそう多くないが、下請けや単発バイトが多く、出張旅費や時間外勤務の給料の計算が、月末月初に膨大な人数分やってくる。私一人で捌き切れない為、毎月唐沢がヘルプにやってくるのだが……まぁ、本当に嫌な奴なのだ。別にそんなにチンタラ仕事をしているわけでもないのに『ババアだから仕事が遅い』と罵られ、仕事中にちょっとお菓子を摘まめば『消費出来ない代謝の悪いババアのくせに、よく食うわ』と嘲われ、やたら悪口を言われるのだ。
毎月、唐沢がくる前日は気が滅入っている私の耳に、【唐沢】などという名前を入れてくれるなとイラつく。
「唐沢さんが佐波野さんにちょっかいを出すのは、佐波野さんのことが好きだからですよ」
【唐沢】と言う名前を聞いただけでブチ切れているというのに、蒼ちゃんは唐沢の話を辞めない。
「小学生かよ。ていうか、唐沢が私を好きなワケがないの‼ アイツから見たら、私はただの行き遅れた目障りなババアでしかないの‼ 私だって、あの男のことなんて好きか嫌いかで言ったら、死ぬほど大嫌いなの‼」
これ以上唐沢の話なんかするなとばかりに、いかにアイツが嫌いかを強い口調で発する。
「でも、俺を産んでもらわないと……」
「他の人に頼んでください。ていうか、直近で妊娠とか、本当に有り得ないので。神様ってそんなホラを平気で吐くの? それ、絶対に神様じゃないから。蒼汰くんの親ってさぁ、毒親だったの? 親のことが好きだったら、普通また同じお父さんとお母さんから産まれたいって思うモンなんじゃないの?」
否定の言葉を重ね、蒼ちゃんに諦める様促す。
「それを望んでしまったら、親の死を待つことになってしまうでしょ。俺、家族のことも大好きだったので、みんなには幸せに長生きしてほしいんです。それに、今生まれ変われれば、家族にも岳海蒼丸にも会いに行ける。だから、一刻も早く生まれ変わりたいんです」
蒼ちゃんが、切実な瞳で私を見た。
「生まれ変わっても、今の記憶って残ったままなの? 私、前世どころか幼少期の記憶もほぼないけど」
「イヤ、真っ新な状態で誕生」
「じゃあ、意味ないじゃん」
なんかもう、呆れてしまい、乾いた笑いを漏らしてしまった。
「記憶なんかなくたって、会いたい人には絶対に会える」
さっきからずっと色んなことが信じられなくて、腑に落ちなくて、話半分にしか聞いていない私に、蒼ちゃんがめげず語りかけてくる。
「その『絶対』の根拠は?」
「俺が信じる俺だけの【絶対】に理屈も根拠も必要ない‼ 会いたいんだよ、どうしても。どうしてもどうしても、会いたい。みんなに会いたい」
蒼ちゃんが、今にも泣きそうに顔を歪めた。
「俺だけのって。その【絶対】に私を巻き込もうとしてるくせに」
ティッシュを差し出そうとボックスティッシュを蒼ちゃんの傍に置いてみたが、多分この人は涙を拭けない。ティッシュを持つことすら出来ない。
そっとそのティッシュを引っ込めようとした時、デスクの上でスマホが震えた。
ディスプレイに表示されたのは、【〇三】から始まる知らない番号。
電話に出るのに少し躊躇していると、
「早く出て‼ 大事な電話だから‼」
蒼ちゃんが、「切れちゃったらどうするの⁉ 早く早く‼」と私を急かした。
「も、もしもし」
蒼ちゃんの勢いに乗せられて電話に出ると、
『K出版の門脇と申します。夏川さまの携帯電話でしょうか?』
「……はい」
『この度、佐波野ミソノ様名義でご応募頂きました作品が大賞を受賞されましたのでご報告です。つきましては来月の受賞式にお越しいただけます様、お願いしたく……』
スマホから聞こえる話に耳を疑い、即座にパソコンでスマホに表示されている番号を検索する。間違いなく、K出版だった。
嬉しさよりも、信じられない驚きで上の空になってしまい、出版社からの話が全く頭に入ってこないまま、電話は終了した。
茫然としながらゆっくりと蒼ちゃんの方へと顔を向けると、
「ね、言ったでしょ」
蒼ちゃんが「おめでとう」と言いながらニッコリ笑った。
「あ、ありがとう。……私、ちょっとトイレに行ってくる。ビックリしすぎて漏らしそう。……トイレにまで来ないでよ? 来たら殺すぞ」
下っ腹を摩りながら立ち上がる。
「『漏らしそう』て。言わんでいいわ。つか、殺すも何も、死んでるし。それに、俺はこの部屋以外どこへも行けない。色んなとこに行けてたら、男の幽霊は全員女風呂に行っちゃうでしょ」
蒼ちゃんが「行っておいで」とひらひらと手を振った。
「……だから、自分の四十九日が行われたかどうかも、神様に聞かなきゃ分からなかったの?」
トイレに向かう足を止めると、
「早くトイレに行きなよ。漏れちゃうんでしょ? 幽霊って、自由に会いたい人がいる場所に行けるんだと思ってたんだけどね、幽霊だからって生きてる人間のプライバシーを侵害しちゃダメだよね。そんなやりたい放題は許されないみたい」
蒼ちゃんが「ここで漏らさないでよ」と苦笑いをした。
「……てことは、自分の家族とか岳海蒼丸のみんながどうしてるかとか、知らないってことだよね?」
徐々に把握していく蒼ちゃんの置かれている状況に、胸がきゅうっとなった。
「まぁ、神様に聞けば教えてもらえるんだけど、あの方は忙しいからね。幽霊は俺以外に五万といますからね。……って佐波野さん、俺が蒼汰だってちょっとずつ信じてきてますよね?」
蒼ちゃんに指摘されてハッとした。人は、疑う行為を保留すると、転じて信じてしまうらしい。目の前の赤髪男子を【仮】ではなく本物の【蒼ちゃん】として認識してしまっている。
三十六にもなって、幽霊などというファンタジーを容認してしまっている自分に驚愕し、
「……チビリそう。トイレ行くわ」
膀胱がユルユルだ。
「だから、さっさと行けっつーの。行くまでが長いわ」
呆れながら笑う蒼ちゃんの後ろを通り過ぎようとして……、
「とぅっ‼」
蒼ちゃんにタックルするように体当たりしてみた。今までの不思議現象がマジックだったとしたら、不意にこっちから仕掛ければ、対応出来ないはず。この赤髪男子が本当に蒼ちゃんで、幽霊だったとしたら、ぶつからずに通り抜けてトイレに行けるはずだ。
人間、三十六年も生きてしまうと頭でっかちになってしまう。
根拠のない幽霊というものを、信じる根拠が欲しくなる。
人にぶつかる気で体当たりしに行った私の身体は、何にも接触することなく、勢い余って壁に激突した。
「うわぁ‼ 痛い‼ 痛ーい‼ 漏ーれーるー‼」
身体への衝撃は、膀胱にモロにダメージを与え、失禁寸前。
「何してんの⁉ ばかなの⁉」
地べたで「痛い痛い」と転げまわる三十六歳に、蒼ちゃんドン引き。
「やっぱりか‼ 薄々そんな気はしてたけど、幽霊なんだな⁉ キミ‼」
壁にぶつけた右肩を摩りながら、蒼ちゃんに最終確認。
「最初からそう言ってるだろうが‼ まじでトイレに行けって‼ 膀胱炎になるそ‼ ゴメンだけど、俺幽霊だから、佐波野さんの手を引いて起こしてあげられないから、自力で立ち上がって」
私に自分が幽霊であると信じてもらえたのが嬉しいのか、蒼ちゃんが楽しげに笑った。
「……だめだ。立てない。起こして」
世の三十六歳にそんなことをする人間などいないと思うが、万が一の為に忠告しておきたい。三十六歳はむやみに壁にタックルしてはいけない。痛みが尾を引いて動けなくなる。
「だから、無理だって。立てないなら、匍匐前進するしかないですよ」
「制服が汚れるじゃん」
「俺に出来るのは、応援くらいですよ。がーんばれ‼ がーんばれ‼ 佐・波・野‼」
蒼ちゃんが癇に障る応援をしながら囃し立てた。
「くっそー‼ 死ね‼」
イライラを力に変えて振り絞り、立ち上がる。
「死んどるわ‼」
すかさず蒼ちゃんがツッコむ。
「……死んでないでよ。死んじゃう人とそうじゃない人の選別って神様がしてるの? だとしたら、基準は何? 誰がどう見ても死んだ方がいい悪人が生きて、才能いっぱいの蒼ちゃんが死ぬって意味分かんないよ。人選が無作為なんだとしたら、そんな適当なんだとしたら、【神様】を名乗って欲しくないわ」
私は、今目の前で笑っている蒼ちゃんに、生きていて欲しかった。
「……ありがとうね、そんな風に思ってくれて。でも、考えてもみてよ。生きてるのは人間だけじゃない。数え切れない動物も【命】でしょう? その膨大な【命】と死者の【魂】を神様に『一手に担いなさいよ』っていうのは違くない?」
蒼ちゃんがしょっぱい笑顔を作った。
「優しいんだね、蒼ちゃんは。私はそんなに聞き分けよくなれないわ」
今度こそトイレに向かおうとすると、
「【蒼ちゃん】って呼んでくれるんだ?」
蒼ちゃんが私の前に小走りでやって来た。まぁ、彼は幽霊なので、前を塞がれたところで突っ切れますが。
「あ、ごめん。馴れ馴れしいですね。一視聴者のノリで【蒼ちゃん】呼びしてしまいました。なんて呼べばいいかな?」
「【蒼ちゃん】でいいです。蒼ちゃんって呼ばれるの、好きだから。佐波野さんは【サバちゃん】でいい?」
「【サバちゃん】て……」
「だって佐波野ミソノって……」
「そうだよ【鯖の味噌煮】からだよ。PN考えるのが面倒で、たまたま目に入った鯖の味噌煮缶から取ったんだよ」
「やっぱりね」
私の安易な命名に、蒼ちゃんが「そういうとこ、嫌いじゃない」と笑った。
「【サバちゃん】、トイレ行ってきます」
ダサいあだ名ではあるが、PNもダサいので、すんなり受け入れると、
「いい加減行ってらっしゃい、サバちゃん♪」
蒼ちゃん「やっぱり嫌いじゃないわ、サバちゃん」と笑った。
トイレに入り、鍵を掛け、便器に腰を掛けて用を足しながら一息つくと、やっぱり信じられない思いが頭の中を廻る。
これは本当全部現実なのか? 疲れすぎてて幻覚を見てるんじゃないのか? だとしたら、出版社からの電話も幻なんじゃないの? 賞が欲しすぎて、想像妊娠バリの想像受賞してしまったんじゃ……痛い。それは痛すぎる。トイレから出たら、蒼ちゃんはいないんじゃ……。
用を済まし、手を洗って事務所に戻ると、
「サバちゃーん、岳海蒼丸のHP見せてくれない? 拓海がドラマに出るのは分かったんだけどさ、がっくんとマルオがどんな感じなのか知りたい」
蒼ちゃんが私のデスクで頬杖をつきながら、私を待っていた。
「……よかった。いたよ、蒼ちゃん。私、妄想ババアじゃないわ」
幽霊がいることに安心するのも、これはこれで危ない。
「何? トイレに行ってる間に俺がいなくなったらどうしよう⁉ とか考えてたの? どんだけ俺のこと好きなのよ。ずっといるよ。転生しても一緒にいるよ」
蒼ちゃんが「淋しがり屋さんめ」と言いながら笑った。
今起こっていることが全部現実なんだとしたら、蒼ちゃんの転生もそうなんだとしたら……。
考えただけで、背筋がブルっと震えた。
「……ねぇ、蒼ちゃん。私、本当に嫌だよ。唐沢だけは絶対に嫌だ。私、結婚も子どもももう諦めたの。結婚、してみたかったけど、もういいの。唐沢と結婚するくらいなら、ひとりでいたい。シナリオの代筆はするよ。でも、蒼ちゃんは産んであげられない。嫌いなんだよ、唐沢が。大嫌いなんだよ。……気持ち悪い」
唐沢との情事が頭を過りかけ、吐き気が込み上げた。
「~~~あー‼ 唐沢が馬鹿すぎる‼ 多分ね、唐沢がサバちゃんにしてる嫌がらせはね、唐沢からしたら、冗談とかちょっかいのつもりなんだよ。三十にもなって加減を知らないとか、別な意味でキモイわ、唐沢。唐沢がサバちゃんを好きなことは間違いないんだよ。あと、そんなに唐沢は悪いヤツじゃない。神様が言ってたから」
蒼ちゃんが、「こっちに来て座りな」と、みぞおちを摩りながら吐き気を鎮める私を手招きした。
「やだやだやだやだ‼ 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い‼ 私と唐沢に恋仲を強要しないで‼ 気が狂う‼」
『神様が言ってたから』などと、確定事項の様に話す蒼ちゃんに、サブイボを立てながら耳を塞いだ。ブツブツになった私の腕に気付いた蒼ちゃんが、
「うわー。まじなヤツやん。サバちゃん、ボッツボツやん。とりあえず、唐沢の話は置いておこう。岳海蒼丸のHP見せてほしいなー、サバちゃん」
これ以上唐沢の話をするのは危険と判断したのだろう。話を変えた。
でも、変えられた話題も、出来ることなら触れたくない。
私は岳海蒼丸が好きなので、彼らの情報はネットで結構収集出来ている。
マルオくんの状況を知らないだろう蒼ちゃんに、知らないままでいて欲しい。
きっと自分を責めるだろう。悲しい思いをするだろう。蒼ちゃんに、そんな思いをさせたくない。だけど、断る理由が思いつかない。『傷つくよ。それでも見るの?』とでも言えばいいのか。そう言われたところで、たいていの人間は『見る』と答えるだろう。
私が蒼ちゃんの立場だったら、知りたい。
自分のデスクに戻り、パソコンのキーボードに躊躇いながら手を伸ばし、岳海蒼丸のHPを検索した。
「拓海はいいや。がっくんとマルオのページに飛んで」
蒼ちゃんが個人ページに飛べるリンクを指差した。
マルオくんのページに行く勇気が出なくて、まずはがっくんのページにマウスを動かす。
蒼ちゃんが、がっくんの情報解禁スケジュールを見ながら、
「おぉー。ちゃんと声優やってるねー」
嬉しそうに目を細めた。
「【ゴシップハウス】、ネット配信してるから見る⁉」
マルオくんのページを見せるまいと、スマホでゴシップハウスを検索し、見せようとしたが、
「あとで見せて。次はマルオのページね」
サラっとかわされてしまった。
そうだよね。やっぱり知りたいよね。と往生際の悪い自分を納得させ、マルオくんのページを表示した。
「……え」
蒼ちゃんが固まった。そこに書かれていたのは、無期限活動停止の文字。
「蒼ちゃんのせいじゃないよ。マルオくんに休みが必要になったのは、蒼ちゃんを轢いた運転手のせいだよ」
自分のせいだと思っていそうな蒼ちゃんに向かって首を左右に振って見せると、
「本当にそれだけ?」
蒼ちゃんが奥歯を食いしばりながら私の目を見つめた。
「マルオのSNS見せて」
薄ら勘付いただろう蒼ちゃんが、マルオくんのSNSを探りたがった。
「活動休止中だから、更新されてないよ」
蒼ちゃんが勘付いていることに気付きながらも、どうしても見せたくない。
「俺が見たくて、サバちゃんが見せたくないのは、マルオが発信した言葉じゃない」
蒼ちゃんが、私の逃げ道を塞いだ。
そう。蒼ちゃんが見たくて、私が見せたくないものは、マルオくんに寄せられた言葉の方だ。
しぶしぶマルオくんのSNSを検索し、クリックする。
そこに書かれていたコメントに、蒼ちゃんが唇を噛んだ。
「……俺らの大事なマルオを、否定すんじゃねぇよ」
ぐっと拳を握りしめ、パソコンの画面を見つめる蒼ちゃん。
マルオくんのSNSには『才能がある方が死んで、凡人が生き残る惨事』『蒼ちゃんを犠牲にしてまで生きたかったのか』『普通、才能がない自分の命を投げ打って、天才を助けない?』など、心無い言葉が並んでいた。
「マルオが凡人? 才能がない? はぁ⁉ 何も知らないくせに。マルオが造る道具が美術さんの間でどれだけ評判だったか、分かりもしないで汚い言葉並べやがって。事務所も事務所だよ。なんでこんな酷いコメントをそのままにしておくんだよ。削除するか非表示にするかしてくれてもいいのに」
握っていた拳でデスクを叩こうとした蒼ちゃんの手が、デスクをすり抜けた。
物に当たることすら出来ない蒼ちゃんが、「クソ‼」っと自分の太腿を何度も叩いた。
「事務所の人、酷いコメント消してくれてるよ。消えてるコメントがあるの、私知ってるもん。追いつかないんだよ、次から次へと書かれちゃうから。コメント欄自体を非表示にしないのは、『マルオくん、無理しなくて大丈夫』とか『待ってるよ』っていう応援のコメントまでもが見えなくなってしまうからだと思う」
マウスを動かし、ネガティブな言葉に埋もれるポジティブコメントを探し出し、蒼ちゃんに見せた。
「……俺が死ななかったら、こんなことにならなかったんだよな。マルオに嫌な思いをさせることもなかったのに……。事務所を憎むのも筋違いだよね」
蒼ちゃんが、今度は自分を責め始めた。
蒼ちゃんを励まそうと見せた、マルオくんへの励ましコメントが、逆効果になってしまった。
「だから、蒼ちゃんのせいじゃない。【蒼ちゃんが死ななかったら】じゃなくて、【酒を飲んで運転するクソドライバーがいなかったら】だよ‼ 蒼ちゃんまでコメント欄の人間と同じ部類に入らないでよ‼ 攻撃する対象を間違わないで。諸悪の根源はクソドライバーでしょうが‼」
と、偉そうに蒼ちゃんを叱っていると、
「お疲れ様でーす」
聞きなれた声と共に、事務所のドアが開いた。
「……なんで。まだ勤務整理の時期じゃないのに」
事務所に入ってきた人物を見て、右頬が痙攣を起こしたかの様に引き攣った。
サブイボが出るほど嫌いな、唐沢だった。
「所長、十五日付けで異動ですよね? 挨拶しようと思って顔出したんだけど、外出中?」
唐沢が「所長のスケジューラー見せて」と私のデスクにやって来た。
そして、勝手に私のパソコンに触り、
「いい歳して、岳海蒼丸のSNS見てんなよ、キモ。仕事してくださいね、ベテランさん」
画面右上の×をクリックする唐沢。
「うわー、消された。つか、まじで口悪ッ‼ そりゃ、サバちゃんも好きになれんわな。しっかりしてよ、お父さーん」
蒼ちゃん曰く、【未来のお父さん】の態度を見て、蒼ちゃんが残念そうな顔をした。
「ね、無理でしょ。これがお父さんって厳しくない?」
蒼ちゃんに「分かったでしょ」と同意を求めると、
「は? 何が?」
唐沢が、所長のスケジューラーをクリックしながら私の方を見た。
……そうだった。蒼ちゃんが幽霊だということをすっかり忘れていた。というか、やっぱり蒼ちゃんは、私にしか見えていないのだろうか。
「別に、何も」
「独り言? 長年独り身だと独り言増えちゃうの? 可哀想に」
唐沢が私を馬鹿にしながら『フッ』と息を漏らして笑った。
「……本当にコイツ、悪いヤツじゃないのかな?」
唐沢のあんまりな態度に、蒼ちゃんが首を捻った。
「だから、蒼ちゃんが聞き間違えたか、神様が言い間違えたんだよ。どう考えても有り得ないじゃん‼」
またもや蒼ちゃんに話し掛けてしまう。だって、私には蒼ちゃんが普通に見えるから。蒼ちゃんは、白装束も着てないし、頭に白い三角のヤツも付けてないから、幽霊な気がしない。
「ねぇ、まじで怖いんだけど。今、【蒼ちゃん】って言ったよね? 淋しすぎて死んだはずの岳海蒼丸の蒼汰が見えるようになっちゃったとか? ウケるわー。イヤ、ウケないわ。サブいわ。頭の中で死んだ蒼汰が架空の恋人・ビューネくん化してるってことっしょ? まじ恐怖。しかもアイツ、夏川さんより一回りくらい下じゃなかったけ? キツイキツイ。更に【神様】とか言ってたよね? ホントにヤバイって、病院行きなよ」
唐沢が、変な人を見る様な目で私を見た。
「…………」
言いたいことは山ほどあるけど、唐沢とは月に一度顔を合わせなければいけない。逆にその月イチをやり過ごせばあとは心穏やかに仕事が出来る。ここで言い返して更に険悪になって、ますます仕事がし辛くなるのは嫌だ。
私は三十六歳。『こんな会社、辞めてやる』と言っても、次に働ける場所を見つけるのは至難の業だ。食わせてくれる男もいない。簡単に辞められないし、辞めたくない。私は、唐沢が嫌いなだけで、会社は好きなんだ。
「何で黙ってるの? 明らかにモラハラじゃん‼」
蒼ちゃんが私の顔を覗いた。
蒼ちゃんの目を見ながら顔を左右に振ってみせた。本当に許せないし腹が立つ。でも、いつものことだ。いちいち怒っても仕方がない。
「ダメだよ、サバちゃん。やられっぱなしなんかダメだよ‼ モラハラは、我慢し続けて収まるモンじゃないよ。我慢すればするほど続くよ。終わらないよ。サバちゃんが唐沢のことを嫌う気持ち、凄く良く分かったけど……ごめんね。俺、まだ神様のこと信じてる。俺、サバちゃんのことが好きだし、サバちゃんにお母さんになってほしい。サバちゃんの子どもになれたら幸せだろなって思う。サバちゃんがお父さんとケンカしたら、俺は絶対にサバちゃんの方につく。俺はいつでもサバちゃんの味方だよ」
蒼ちゃんが「黙ってちゃダメだ。言い返しなよ‼」と私を煽る。
この世にいない蒼ちゃんに何が出来るの。無責任なことを言わないでよ。という気持ちもあるけれど、蒼ちゃんの『味方だよ』は素直に嬉しくて、心強かった。だから、
「モラハラですよ、唐沢さん。いい加減訴えますよ」
初めて唐沢に言い返してみた。
私が反論するとは思っていなかっただろう唐沢は、一瞬目を大きく開いて驚いた表情を見せたが、
「どうぞ。夏川さん、精神を病んで通院しているわけでも、出社拒否をしてるわけでもないんでしょう? 会社は単に夏川さんの我儘とみなしますよ。仮に病院からうつ病の診断をされたとしても、それと俺が関係あるのかを証明するのって、かなり難しいからね。他に原因が全くないって言える? 周りがみんな結婚出産していて、自分だけが出来ていないストレスは因果関係がないとは言い切れないでしょ? 訴えられたところで、俺の担当が変わるだけで痛くも痒くもない。むしろこんな田舎に毎月来なくて済むから有り難いわ。俺は本社勤務の総合職。夏川さんは地方勤務の一般職。どこにも動かせずに主張だけは一丁前のオバサン、会社としては厄介なお荷物だろうね」
私を傷つける言葉をわざと選んでいるかの様に、刺々しい言葉を次々と浴びせ、私の心を抉った。グサグサと言葉の矢が刺さって、ズキズキ痛む心臓に拳を当てて堪えていると、
「サバちゃん、俺が今から言うこと、そのまま喋って」
蒼ちゃんが私の耳に口を近づけた。コソコソ話などしなくても、唐沢に蒼ちゃんの声は聞こえないのに。と思いつつも、傍にいてくれるのが嬉しかった。蒼ちゃんは、ちゃんと私の味方でいようとしてくれている。耳元で蒼ちゃんの言葉を聞き取り、
「録音してありますよ。唐沢さんの数々のモラハラ、訴えるに足りる量、録ってあります。十分すぎるくらい。モラハラの争点は相手が病んでいるかどうかではなく、モラハラの有無で判断されますから」
言い間違えることなく発する。間違っているのは話の内容。ズボラな私は、唐沢との会話の録音などしていない。真っ赤な嘘だ。
「さすが長く生きているだけありますね。抜かりないわ。仕事もそのくらい抜かりないと助かるんですけどね。っていうのも『モラハラだ‼』って騒ぎます? 夏川さんって、扱い難しいですね。だから未だに……あっぶね。今後気を付けますね」
『だから未だに独りなんだよ』と言いたかっただろう唐沢は、わざとらしく自分の口を手で押さえた。
悔しくて、悲しくて、辛くて、鼻と喉の奥がツンとした。込み上げる涙を、拳を握りしめて堪える。
泣いて可愛いく見えるのは、若い女子だけだということを、三十六の私は分かっている。
ババアの涙は『いい歳こいて何泣いてんだ』でしかないんだ。
絶対に泣くもんかと踏ん張る目は、どんどん熱くなり、赤くなっていくのが分かる。
でも、泣かない。
「所長、夕方まで戻りませんが、ここで待ちますか? お茶、淹れましょうか?」
自分の気持ちと目をクールダウンさせたくて、逃げ場へ駆け込む口実を作る。
「いい。ちょっと現場見に行きたいから」
唐沢もこの空気に居心地の悪さを感じたのだろう。事務所を出て行った。
「……ふぅ」
事務所のドアが閉まると同時に安堵が混ざった溜息が出た。
「サバちゃんの目、真っ赤。泣いちゃえばいいのに。その方が相手を『お前が悪い』って責められるじゃん。我慢するから『この程度は大丈夫なんだな』って勘違いされちゃうんだよ。サバちゃんってさ、唐沢に興味持ったことないでしょ」
蒼ちゃんが右手をひらひらと動かして、私の目を仰ぐ仕草をした。「全然風こないよ」っと笑うと、「知ってる」と蒼ちゃんも笑った。
「女はね、ババアになったら人前で泣いてはいけないの。世の中、蒼ちゃんみたいに年増の女にも優しい人間ばかりじゃないの。ババアが大っぴらに泣いていいのは、人の生死が関わる時だけなのよ。唐沢の前で泣いてみなよ。『ババアの涙は汚い』とか平気で言うよ、アイツは。そんな男にどうして興味が持てるのよ」
涙は我慢出来ても、鼻水はどうにもならないもので、デスクの上にあるボックスティッシュに手を伸ばし、多めにティッシュを抜き取ると、豪快に鼻をかんだ。
「サバちゃんが全然興味を示してくれないから、おかしな方向に行っちゃったんだよ、唐沢は。悪口だったら絶対に反応するじゃん、人間って。自分の方を向いて欲しくて、どんどんエスカレートしっちゃって止まんなくなっちゃったんだよ、多分。唐沢、バカそうだから。本当にサバちゃんのことが嫌いだったら、『スケジューラー見せて』とか言ってわざわざサバちゃんのパソコン借りないでしょ。会社携帯とか会社タブレットとか持ってるでしょ。それで調べろよって話じゃん」
蒼ちゃんが「涙は見せちゃダメだけど、人前で鼻はかむって何なん?」と眉を八の字にして笑った。
「諦めないねぇ、蒼ちゃん。そんなにアイツの子どもになりたいの?」
ティッシュを丸めて「物好きだよね、蒼ちゃんって。Mなの?」と蒼ちゃんの方を見ながらゴミ箱に投げ入れた。
この事務所に通って十四年。ゴミなどノールックで入れられるようになっている。
「諦めないよ。俺、ふたりの子どもになるためにここにいるんだし。それに唐沢と俺、なんか似てるから、唐沢の気持ちが分かっちゃうんだよね」
蒼ちゃんが私が投げ捨てたティッシュを見て「何その特技」と笑った。
「全然似てないじゃん。蒼ちゃん優しいじゃん。いいヤツじゃん。全く違うよ。勘弁してよ」
真顔で蒼ちゃんの言葉を全否定。
「何を勘弁するんだよ。俺もね、唐沢と一緒で意識してる相手だと、どうにもこうにも二進も三進もいかなくなるの。余計なこと言ったりしちゃったり。どうしたらいいのか分からないから、気心知れた岳海蒼丸のメンバーとばっかりつるんでいるうちにフラれる。みたいな」
昔の恋でも思い出したのか、蒼ちゃんが苦い表情を浮かべた。
「なんか意外。蒼ちゃんって、女の扱い上手そうなのに」
「それは拓海」
「あぁ、そっか」
「あっさり納得されてるし。さすが拓海。ウケる」
しかし、岳海蒼丸の話になると、蒼ちゃんは本当にいい顔で笑う。
どんなに大好きだったのか、どれほど大事にしていたのかが痛いほど伝わって、蒼ちゃんの笑顔に胸が苦しくなる。
「蒼ちゃんにはここでしか会えないんだよね? 早速脚本書こう。早く岳海蒼丸に届けよう。社員がいない時間にしか出来ないんだから」
唐沢が見ていたスケジューラーをWORDに切り替える。
「ありがとうね。でもサバちゃんはその前に、授賞式で話すスピーチ考えた方が良くない?」
蒼ちゃんが何も打ち込まれていないWORD画面を覗きこみながら、「一緒に考えよう」と頭を働かせ始めた。
蒼ちゃんなら、それはそれは面白いスピーチをサクっと考えてくれるだろう。でも、
「『素晴らしい賞を賜れたことをとても光栄に、有り難く思っております。これからもひたむきに文学と向き合い、執筆を続けていきたいと思います。本日は、本当にありがとうございました』で、良くない? 長々喋っても嫌がられるだろうし、変に爪痕残そうとして捻ったスピーチしても鼻に着くだろうし、短めにスッキリ纏めた方がいいっしょ。まぁ、印象には残らないかもだけど、悪印象にもならないだろうし」
周りから「そんなだから結婚出来ないんだよ」と陰口を言われない様に、三十を過ぎてから空気を読む力を鍛えてきた私には、当たり障りのないスピーチ作成など朝飯前だ。
「コンパクトに纏まってて良いと思うけど、小慣れ感が気になるわ。本番は緊張してる風を装った方が印象良いかも。スピーチが出来上がってるなら、脚本の代筆お願いしちゃおうかな」
蒼ちゃんが私に身体を寄せ、書式設定を指示し始めた。
「うん。任せとけ‼」
なんだかワクワクした。蒼ちゃんが創る脚本を、一番最初に目に出来ることが、嬉しくて楽しみでどうしようもなく胸が躍った。
それから平日に事務所に誰もいない時間は、蒼ちゃんの脚本代筆タイムになった。
二人並んで肩を寄せ合い、パソコンに向かう。
大人気脚本家だった蒼ちゃんに自分の意見を言うのはどうかと躊躇ったが、蒼ちゃんは優しいし一応は聞いてくれるだろうと『ここはこうした方が面白い気がする』と提案してみると、蒼ちゃんは『確かに。さすがサバちゃん。それに変えよう』とあっさり変更を受け入れた。
『え? いいの?』と驚く私に『だって、そっちの方が絶対面白いじゃん。いいアイディア出してくれてありがとね、サバちゃん。やっぱりサバちゃんに頼んで良かった。大正解だった』と微笑む蒼ちゃんに、ちょっときゅんとしてしまって、軽く焦った。
蒼ちゃんは一回り年下で、しかも死んでいる。情緒が自分の手に負えない。
長年恋愛から離れてしまうと、こんなことになるのかと困惑した。
「弟がいたら、こんな感じなのかな。……弟でいいよね? 親子ほど離れてないよね?」
【恋ではない】と信じたい自分の心の正常化を図る為、姉弟愛だと思い込むことにした。
「イヤ、子として見てほしいわ。後々そうなるんだし」
よく分からない感情に心をザワつかせている私とは違い、蒼ちゃんはいつものテンションで、未だに私の子どもになる気満々だった。
イヤ、分かってましたけど‼ 私が蒼ちゃんの恋愛対象にならないことなんて、普通に分かってましたけども‼
恥ずかしさと虚しさで、心の中でジタバタした。
「あ、そうだ。来週だよね、授賞式。会場って出版社? 道、大丈夫?」
そんな私を余所に、蒼ちゃんが話題を変えた。
「スマホのナビ使いながら行くから大丈夫。でもソワソワするよー。都に出て行くのなんて、下手したら十年ぶりくらいだもん。怖いなー。東京怖い。私みたいな田舎者がキョロキョロしながらチンタラ歩いてたら、『退け、ババア‼』ってどつかれたりするのかな。都会の人の邪魔にならないように端っこ歩いとこ」
胸に手を当て、摩りながら自分で自分を慰める。
「『都』て。てか、サバちゃんの東京のイメージどうなってんのよ。ウケるわー。東京は人がいっぱいだから、そりゃおかしな人も田舎よりは多いけど、その分優しい人だっているからね。……って、東京代表みたいに言ってる俺も、上京組の田舎者だけどね。あー、なんか心配。一緒に行けたらいいのに」
この事務所の外に出られない蒼ちゃんが、もどかしそうに顔を顰めた。
「ひとりで平気だよ。子どもじゃないんだから。切ないほどにしっかり大人だよ。三十六だよ。何もう、辛い。三十六って何」
今度は自分の年齢に絶望して、胸を押さえていた手で頭を抱えた。
「三十六って、そんなに落胆する年齢?」
首を傾げる蒼ちゃんに、
「男の三十六と女の三十六は違うの‼ 全然違うの‼ 男は 【男盛り】って言われて、女は【枯れた】って言われるの‼ 天と地くらい全く違うの‼」
頭を掻きむしりながら熱弁。
「俺は三十六歳のサバちゃん、好きだけどなー。サバちゃんがおばあちゃんになっても好きなままだと思う。三十六かぁ……。なってみたかったな。サバちゃんの気持ち、理解は出来ても
共感まで辿り着かないや」
寂しそうに笑う蒼ちゃんを、三十六歳にしてあげたいと思った。
産んであげたい。育ててあげたい。……でも、唐沢だけはどうしても考えられない。
そうこうしていると、授賞式の日がやって来た。
有休を取り、新幹線に乗り込むと、いざ東京へ。電車に乗り換え、出版社の最寄駅で下車。ここまでは至って順調。……が、
「……この道でいいんだよねぇ……」
スマホを見ながら固まる。
東京は田舎と違って、同じような細い道と同じ様なビルが立ち並び、少し歩いただけで田舎者の私は、自分どこにいるのか分からなくなってしまった。
ヤバイ。授賞式に遅れる。どうしよう。誰かに道を聞こう。でも、みんな忙しそうに足早に歩いている。そんな人の足を止めて迷惑にならないだろうか。……タクシーを拾おう。でも、ナビを見る限り、出版社は近い。ワンメーターしか乗らないなんて、失礼にならないだろうか。焦りで混乱し、どうすれば良いのか分からなくなり、咄嗟に会社携帯をバッグから取り出してアドレス帳を開くと、それを見ながら自分のスマホのボタンを押した。
お願い、出て‼ 祈りながらスマホを耳に当てると、
『はい。S建設経理部唐沢です』
五コール後に、唐沢が出てくれた。進学を機に上京した友達と疎遠になってしまった私にとって、東京の知り合いは唐沢しかいなかった。
「……あの、夏川です。お仕事中に申し訳ありません。……あの、助けてください」
パニック状態で声が震える。
『個人携帯から掛けてるの? なんで会社携帯から電話しないんだよ。知らない番号からの着信だったから誰かと思ったわ。……で?』
「……今日、有休取ってて、私用なので……」
『律儀だね、夏川さん。で? 用件は何?」
「今、東京にいるんです。道に迷ってしまって……。時間がないんです。大事な用事で……。道を教えてください」
『大事な用事って?』
「……誰にも言わないでもらえますか? お願いします。秘密にしてください」
『だから、何』
「……私、小説を書いているんです。それが賞を獲って、今日授賞式なんです。でも、出版社のビルが分からなくて……。時間が無くて……。ここがどこかも分からない」
最早半泣きの私に、
『ちょっと場所変えるわ。一分後にこの番号にFACE TIMEで掛けなおす』
そう言って、唐沢は電話を切った。
歩道の隅っこで通行人の邪魔にならない様にしゃがみこむ。
遅刻したらどうしよう。やっと獲れた、初めてもらえた賞の授賞式なのに。
不安の余り、スマホを強く握りしめていると、唐沢からの折り返しがきた。
「はい、夏川です」
即座にスマホを耳に当てると、
『だから、FACE TIMEで掛けてるだろうが。俺にババアの耳の穴を見せるな。何。凄い真っ黒。暗黒じゃん。洞窟なの? 夏川さんの耳って』
相変わらず口の悪い唐沢がの呆れた声がした。
FACE TIMEでって言われていたのを忘れていたわけではないが、アナログババアな私は電話が掛かってくると、条件反射で耳に当ててしまう。
「……すみません。汚いものをお見せしてしまいました」
慌てて耳からスマホを外し、画面に向かって頭を下げる。
唐沢の物言いは本当に許せないけれど、今私が頼れるのは唐沢しかいない。
『夏川さん、時間ないんだよね? どこの出版社に行きたいの?』
唐沢の声に下げていた頭を上げると、スマホの画面に映る唐沢の顔が見えた。
「K出版です」
『超大手じゃん‼ 夏川さん、そこの賞を獲ったの? すごいじゃん‼』
画面の向こうで目を見開いて驚く唐沢に、私まで驚く。
小説を書いているなどと言ったら、絶対に小馬鹿にしてくるものだと思っていたから。
「まぐれです。……あの、周りに誰もいませんか? 誰にも知られたくないんです」
『まぐれでK出版の賞は獲れないよ。凄いよ、夏川さん。今喫煙室に俺しかいないから大丈夫。でも、秘密にする必要ないじゃん。自慢すべきことだろ』
興奮気味に今にもいいふらしそうな唐沢。
「自慢なんかしたいと思ってません。私の唯一の趣味なんです。ひっそり楽しんでいたいんです。お願いです。どうか誰にも言わないでください」
そんな唐沢に再度頭を下げて口外しないように懇願。
『分かったから、画面に回りの景色映して。夏川さんの居場所、確認したいから。急いでるんだろ?』
「あ、はい‼」
唐沢に言われるがまま、スマホのカメラで周囲を撮る。
『あ、近い近い。五分以内に着くよ。そのまま真っ直ぐ歩いて。K出版までナビしてやるよ』
「すみません。ありがとうございます」
唐沢の言葉に安堵して、三十六にもなって道端で泣きそうになった。
『唐沢は悪いヤツじゃない』。
蒼ちゃんの言っていたことは、あながち嘘ではないのかもしれない。
『セブンを右ね』『次の信号を左』と、唐沢のナビに従い歩いていると、
「……あった‼」
K出版のビルに無事に到着した。
「ありがとうございました‼」
スマホの画面に向かって、今日何度目か分からないお辞儀をする。
『何回俺に旋毛を見せたら気が済むんだよ。見飽きたわ、夏川さんの頭頂部。ご親切にナビしてやったんだから、何か奢ってくれたりするんだよね、当然』
唐沢は、やっぱり私なんかにタダで親切にしてくれるような男ではなかった。
「もちろんです。寿司でも、フレンチでも、何でも好きなものをご馳走します」
でも、唐沢がいなかったら授賞式に遅刻していたはずだから、奢るくらい安いもの。だって……、
『K出版の賞金っていくら?』
「三百万」
私の懐はなかなか温かいのだ。
『……えっぐいな』
唐沢が引き気味で笑った。
『じゃあ俺、仕事に戻るから夏川さんも早く行きな』
「はい。唐沢さん、本当にありがとうございました。助かりました」
終話ボタンを押そうすると、
『夏川さん、本当におめでとう。授賞式、楽しんできな』
唐沢が私の『ありがとう』を待つことなく電話を切った。
『楽しんできな』とは言われたものの、初めて出席するその場所で寛げるはずもなく、終始緊張したまま授賞式は終わった。が、それでお開きとはならず、受賞作の出版に向け、担当をしてくれる編集さんと打ち合わせをすることに。
編集さんからスケジュールなどの説明を聞きながら、『へぇー。こうやって本は出来ていくのか』と、今まで知らなかった出版業界の中身を少し見せてもらえた気がして、胸が高鳴った。
新しい世界に足を踏み入れられた様な感覚が、何だかとても嬉しくてワクワクした。
編集部を案内してもらったり、色んな方に挨拶をさせてもらったりしていたら、出版社を出る頃には辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
「お腹減った……。今、何時なんだ?」
時間を確認しようと、ポケットからスマホを取出し画面を見ると、
「……なんで」
十分前に何故か唐沢から着信が入っていた。
もう唐沢に用はない。でも、掛けなおさないわけにもいかない。私は今日、彼にとてもお世話になっているわけだから。
「ふう」と小さい息を吐き、唐沢へリダイヤル。
『今どこ?』
ワンコールで電話に出る唐沢。
「今、K出版を出たところです」
『授賞式ってそんなに長いの?』
「いや、受賞式の後に編集部で本の出版の打ち合わせしたりしていたので……」
『そっか。賞獲ったなら本も出すってことだもんね。凄いな、夏川さん。作家じゃん。先生じゃん』
「やめてください。本当に」
『で、帰り道は大丈夫なの? 道、憶えてる?』
唐沢は、方向音痴の私を心配して電話を掛けてきたのだろうか。
「もう用事は済んだので迷っても大丈夫です。どうにかして帰ります」
『夏川さん、俺に奢る約束は憶えてる? 俺、今K出版の近くまで来たんだよね。イタリアン奢って。俺の友達がやってる店なんだけど、めっちゃ美味いの』
「……はい。もちろんです」
唐沢が、私の心配などするわけがなかった。彼は、ただ腹が減っていただけだった。
K出版のビル付近を『やっぱ東京は凄いわ。空は暗いのに街は明るいわ。【街】だって。ウチの地元には【町】しかないわ』などと脳内で自分にツッコミを入れながらウロウロしている
と、
「田舎者丸出しで歩くなよ」
背後から声がした。
「田舎者が田舎者らしくして何が悪いんですか? 都会がそんなに偉いんですか?」
唇を尖らせながら、声がした方へ振り向く。
「助けてもらった分際で口答えするんだ」
今日も絶好調に口の悪い唐沢が、腕組みをしながら立っていた。
「奢ったらチャラです」
そんな唐沢に言い返してみるが、
「まだ奢ってもらってません」
唐沢よりは性格の良い(ハズ)の私は、やっぱり敵わない。
こんな時、蒼ちゃんがいてくれたらと思う。
「こっち」
と言って、スタスタと前を歩き出した唐沢。もちろん、私の歩調に合わせようともしてくれない。チンタラ歩いて『足の短いババアだな』などと言われたくない為、小走りで唐沢の後を追うと、反対方向から歩いて来た新卒風のスーツの男の子が、すれ違いざまにスマホを落としたのが見えた。が、全く気付かず歩いて行ってしまう若者。
しゃがみ込んで彼が落としたスマホを拾う。
「ちょっと待って‼」
スマホの持ち主に私の声は届かず、彼は足を止めることなくどんどん歩いて行ってしまう。
前を向けば、足を止めた私に気付いていない唐沢も、あっと言う間に遠くの方へ。
待ってくれ‼ どっちもちょっと待ってくれ‼ と焦りながらも、『スマホを無くしたら仕事に影響出るだろう』という親切心から、走ってスマホの持ち主を追うことに。
「待って‼ 紺のスーツの方‼」
走りながらスマホの持ち主の特徴を叫んでみるが、彼の足が止まる気配はない。
それもそのはずだ。見渡すと、紺のスーツの人間はかなりいて、まさか自分が呼ばれているとは思わないのだろう。
もう、彼に追いついて手渡すしかないと、バトンの様にスマホを握りしめ、必死で走る。
彼が渡ろうとしていた横断歩道の信号が運よく赤になってくれ、足止めしている彼に追いつくことに成功。
スマホの持ち主の背中をポンポンと叩くと、彼がこっちを見た。
「……ス……マ、ホ……。落とし……ま、し、た……よ……ゴホゴホゴホゴホゴホ」
彼にスマホを差し出しながら、豪快にむせる。うっかり吐きそうになる始末。
普段、運動をせずにダラダラ生きている三十六歳が全力疾走すると、こんな目に遭うのかと涙目になった。
「ありがとうございます。……大丈夫ですか⁉」
膝に手を置き、中腰で地面に向かって咳き込むババアの背中を、優しく摩ってくれるスーツの若者。
「大……丈夫でっす……。お急ぎで……しょうから、私のことなどか、ま、わ、ず……行ってくだ……さい」
若者の優しさに、『頑張って走った甲斐があった』と心はほっこりしているのに、息絶え絶えに笑顔さえつくれない三十六歳。
「イヤイヤイヤイヤイヤ‼ ちょっと待っててください。そこのコンビニで水買ってきますから‼」
優しい若者がコンビニへ走ろうとした時、
「ねぇ、何してんの?」
頭上で声がした。ゆっくり顔を上げると、細い目を作りながら私を見下ろす唐沢がいた。
「あ、お連れの方ですか? すみません。俺の不注意でスマホを落としてしまいまして、彼女が走って届けてくださったんです。だいぶ走らせてしまったみたいで……申し訳ありません。今、水を買ってきますので、少しお待ちいただけますか?」
未だに息が整わない私の代わりに唐沢に説明をしてくれる若者。本当にいい人だ。最近の若者、捨てたモンじゃないわ。『日本の未来はキミらに任せたよ』とその若者を見つめていると、
「俺が買ってやるので結構ですよ。お気遣いありがとうございます」
唐沢が視界を遮るように私の目の前に立った。
「すみません。じゃあ、行きますね。ありがとうございました」
若者が唐沢の脇から顔を出し、私にペコっと頭を下げると、爽やかな笑顔を見せて立ち去って行った。頑張って走って良かったなと、ほんわかしていると、
「方向音痴のくせに、勝手に何してんの? 普通、俺に声掛けてから行くよね?」
唐沢が、ほかほかになった私の心が一気に冷凍される様な、冷めた視線を落としてきた。
「そんなことをしている暇に、スマホの持ち主を見失ってしまいそうだったので……すみませんでした」
謝りながら中腰だった上半身を起こすと、
「また探さなきゃとか、面倒なので」
唐沢が私の右手首を握った。そしてまたズンズン歩き出す唐沢。最早、連行状態。
そんな唐沢のスピードに、走ったせいで疲労困憊の私の足は追いつけずに縺れてしまう。
「……あの、もう少しゆっくり歩いて頂けませんか? ババアですみません」
自虐を交えてお伺いを立てる。私が何も言わずに単独行動を取ったせいで、ただでさえ良くないだろう唐沢の機嫌を更に損ねさせて、恐ろしい空気のまま2人でイタリアンは地獄過ぎる。
「あ、ごめん。早く水飲みたいかと思って」
唐沢が歩くのを辞め、コンビニを指差した。
「……え⁉ あ、あぁ大丈夫ですよ。どっちかというと早くお店に行ってビールを……」
思いもよらない唐沢の気遣いにビックリして、うっかりポロっと本音が口をついた。
「さすがだね。勇ましいわ。全然かわいい子ぶらんのな。そうだよね、ビールで祝杯あげたいわな」
唐沢が『ククク』と肩を揺らせて笑った。
「三十六のぶりっ子、見たいですか? したらしたで、どうせ『痛いな、ぶりっ子ババア』って言うでしょ。いいんです。私はもう、男性の目なんかどうでもいいんです。残りの人生を考えて、身体が健康なうちに飲みたいものを飲むんです。この先、体調を崩してお酒を控えなきゃいけないことになる可能性だってあるわけだけら、今、大量摂取しておくんです。ていうか、祝杯じゃないですよ。自腹の祝杯なんか聞いたことないです」
お店に入る前にお酒ガブ飲み宣言。確かに私は酒好きだ。でも、大酒飲みではない。が、今日は飲まないと唐沢と食事なんかしていられない。頼っておいてこんなことを言うのも何だが、やっぱり唐沢が苦手なのだ。
「じゃあ、今日はお酒は三杯までね」
唐沢が私の目の前に右手の指を三本突き立てた。
「何で⁉ どうしてそんな意地の悪いことを……。私の話、聞いてました⁉」
憎しみを宿らせた目で唐沢を見上げる。
イタリアンって言ってたから、イタリアンビールはもちろんのこと、ワインだって楽しみにしていたのに、何なんだよこの男。どこを好きになれば良いんだよ、蒼ちゃん‼ と、心の中で蒼ちゃんに話し掛けるも、いくら蒼ちゃんがこの世にいないからって、心で通信など出来るはずがなく、当然返事はない。
「酒飲み過ぎて身体壊してこの先飲めなくなるより、量を我慢して長い期間楽しめる方が良いでしょうが」
唐沢は、単に私に嫌がらせをしたかったわけではなかった様だ。それでも三杯は少ない。
「唐沢さん、三本立てた指を素早く左右に振ってみてください」
「は?」
『何言ってんだ、このババア』とでも言いたげな表情をしながら、言われた通り指を左右に動かす唐沢。
「見える‼ 私には見える‼ 六本に見える‼」
お酒の量を増やそうとする私の頭を、
「残像でそう見えたとしても、指は五本しかないんだから物理的に六は有り得ない。バカか」
唐沢が三本の指で突いた。その指で自分の鼻を掻いた唐沢が、
「……あ、使ってるシャンプー一緒かも」
自分の指を嗅ぐのを辞め、直に私の頭をクンクンし出した。
「絶対一緒だ。ホレ」
そして、膝を曲げて自分の頭を差し出す唐沢。私も嗅げということだろう。なんでこんな道端で唐沢の髪の匂いを確認しなきゃいけないんだと思いながらも、唐沢の頭部に鼻を寄せる。
「……本当だ。多分同じヤツですね。このシャンプー、匂いが甘ったるくなくて好きなんですよね」
同じシャンプーを使っているという、どうでも良い共通点を確認し終わり、そっと唐沢の頭から顔を離すと、
「だよね。俺も好き」
と、唐沢が懸んだまま上目使いで私の顔を見た。
ワードがワードだけに、もちろん『今使っているシャンプーが好き』って言っていることも分かっているのに、ドキっとしてしまった。
蒼ちゃんのせいだ。蒼ちゃんのせいで、好きでもない唐沢を変に意識してしまう。
別に嫌いなままで良いのに。好きになんかなりたくもないのに。だってコイツ、モラハラ男だし‼ と、慌てて唐沢から視線を逸らすと、
「……行くか」
唐沢がまた私の手首を掴んで歩き出した。
さっきお願いしたからか、少しゆっくり歩いてくれる唐沢にドキドキしてしまう自分が、不本意でならない。
唐沢に掴まれているのが手首で良かった。掌は手汗をかいてしまっているから。それくらい、変に体温が上がる。まぁ、唐沢と私が手を繋ぐのもおかしな話だけど。
出版社があった大きい通りから、どんどん細い道に行き、裏道に入ったところで、
「着いた。ココ、俺の仲間がやってる店」
唐沢が立ち止まった。
【SHIRAKI】という名の小洒落たイタリアンのお店だった。中に入ると、
「おー、唐沢さん‼ いらっしゃい。お連れの方もいらっしゃいませ。席、ご案内しますね」
さっきスマホを落とした若者より更に若そうな男の子が、笑顔で迎えてくれた。
「唐沢さんのお友達って、結構年下の方なんですね」
こんな若くして店を持ったのか、この子‼ と驚いていると、
「コイツは仲間が雇ってるバイトのタケ。白木は……キッチン?」
唐沢が、タケくんの頭をくしゃくしゃと撫でながら、キッチンの方に目を向けた。
「今呼んできますよ。今日、そんなに忙しくないんで」
タケくんが唐沢の視線の先のキッチンに向かって歩いて行った。
タケくんが唐沢の友達を呼びに行っている間、店内を見回す。
「凄く雰囲気の良いお店ですね。料理、楽しみだなぁ」
畏まった感じではないカジュアルさに、居心地の良さを感じていると、
「料理よりも酒だろ。夏川さんは」
と唐沢が笑った。
「お酒飲むとあんまり食べなくなる人っているじゃないですか。私、お酒飲んでてもめっちゃ食べるんですよ。だから、料理もめちゃめちゃ楽しみです。私、三十六で独身じゃないですか。人間三大欲の性欲は、もう諦めたわけですよ。期待もしてなくて。で、睡眠欲は、若い時は平気で十時間とか寝てられたのに、今となっては八時間も寝られないんです。勝手に起きちゃう。となると、もう食欲に走るしかなくって」
苦笑いをしながらも、キッチンから流れてくるいい匂いに『食欲を刺激してくる匂いだなー。コレ、何の料理の匂いだろう。早く食べたいなー』とテンションが上がる。
「もっと歳とって、食が細くなったら、どうやって生きてくの? 夏川さん」
唐沢が、私のテンションを一気に下げる恐ろしい質問を投げかける。
「え。こわい。ひとりぼっちで寝れない食べれないって、何を楽しみに生きればいいの? 無駄使いしないでお金貯めて老人ホームに入ろう。食べられる量が減ったって、美味しいものが食べれたらそれで幸せなはず。うん、そう。きっと、そう。絶対、そう‼」
胸に手を当て「平気、平気。私は独りでも生きて行ける。心配ない」と自分に言い聞かせる。
「大丈夫だよ。夏川さんには小説があるじゃん」
唐沢が私の肩をポンポンと叩いた。
「それ、誰にも言わないでくださいね。本当にお願いしますね」
【小説】というワードをサラっと口にする唐沢が、恐怖でしかない。
「分かってるっつーの。しつこいな」
唐沢に思いっきり煙たそうな顔をされたので、もうこれ以上は言わないことにした。
ちょっと嫌な空気になったところに、
「おぉ、唐沢。いらっしゃい。唐沢の彼女さん? ようこそいらっしゃいました。お席に案内しますね」
唐沢の友達だろう、唐沢と同じ年頃のイケメンがやってきて、私にそれはそれは綺麗な笑顔を向けた。ここ最近、年下のイケメンに話し掛けられることなど皆無なわけで、
「違います違います‼ 彼女じゃないです‼」
体温が急上昇してしまい、脳天までチンチンに熱くしながら両手を振って、唐沢の彼女であることを否定した。
「そんなに必死にアピールしなくても、白木にはしっかり彼女がいるから。残念だったね。千秋さん、元気?」
そんな私に白い目を向けた唐沢が、ダメ押しするかの様に、白木さんの彼女であろう【千秋さん】の話題を口にした。
別に私は、フリーであることを強調して白木さんとどうこうなりたいと思ってるわけじゃないのに。
「めずらしいね。唐沢が彼女以外の女の子連れてくるの初じゃね⁉ つか、千秋なら今日来てるよ。いつもの席でパスタ食ってる。千秋ー‼」
白木さんが後ろを向いて千秋さんを呼ぶと、
「はーい」
奥の角のカウンター席に座っていた女性が返事をし、こちらに向かって歩いてきた。
「あー、唐沢さんだー。お久しぶりでーす。おッ‼ 彼女連れ‼ どうも、初めまして。篠崎千秋といいます」
私に明るく元気に挨拶をしてきた白木さんの彼女・千秋さん。
……篠崎千秋。聞き覚えがある。確か……。
「彼女じゃありません。……篠崎千秋って、漫画家さんにいましたよね? 漢字も同じですか?」
趣味で小説を長年書き続けてきた私は、本を読むことも好きな為、私にとって本屋さんは憩いの場。そんな本屋さんで見たことのある名前だった。
「本人です。嬉しいな。私のことを知っていてくれてるなんて。あ、本名ではないんですけど、みんな私のこと【千秋】って呼ぶので、最近自分的にもこっちの方が本名よりしっくりくるんですよね」
千秋さんがにっこりと笑った。
「この人も作家だよ。小説家」
私を指差しながら、唐沢が余計なひと言を挟む。
『えぇー‼』
白木さんと千秋さんが声を揃えて驚きながら私を見た。
「えぇー⁉」
私は目を見開きながら唐沢を見上げる。
誰にも言わないでくれってお願いしたのに、サラっと裏切られた。
「え? こいつらにも言っちゃダメだった? 会社のヤツに黙ってればいいのかと思ってたわ」
唐沢が「解釈違ってたか」と首を傾げた。
どんな解釈をするとこうなるのだろう。【誰にも】は【何人たりとも】という意味以外ない。
「あの、お名前お伺いしても良いですか? 本、買います‼ 私、活字苦手だけど読みます‼」
千秋さんが、興味深々の眼差しで私の目を見た。
千秋さんの気持ちは嬉しい。有り難い。でも、
「応募した小説がまぐれで賞を獲ったのですが……まだ本出てません」
改稿作業すら始まっていないのに、本など売っているわけがない。販売されていたとしても、言いたくない。
本を出すからには、たくさんの人に読んで欲しい。でも、知り合いの目には触れたくない。矛盾しているとは分かっていても、やっぱり嫌なのだ。
「そうなんですね。じゃあ、刊行されたら教えてくださいね」
社交辞令ではなく本当に買ってくれそうな優しい千秋さんに、
「…………」
返事もなく、頷きもせず、ただ笑顔を返した。会話が一段落したところで、
「席、こっちな」
白木さんの誘導で、テーブル席に案内された。白木さんからメニューを手渡され、早速開く。どれもこれも美味しそうで、どうにもこうにも決まらない。
「……どうしよう。全部美味しそう。どれを食べればいいんだろう。おすすめはどれですか? 【全部おすすめだよ、ばーか】って感じですよね? 全部美味しいからメニューに載ってるわけですもんね。でもさすがに全部は食べれない。うーん」
拳をつくり、それを顎に当てて盛大に悩む。
ここは東京。滅多に来ない。頻繁にこの店に食べに来られるわけではない。選択を失敗したくない。
「あはは。【馬鹿】だなんて思うわけないじゃない。【全部美味しそう】なんて言われたら嬉しいに決まってるじゃん。そうだなー、肉と魚だったらどっちの気分?」
白木さんの問い掛けに、
『肉‼』
唐沢と私の声が綺麗にハモった。
「ははは。気が合うね、お二人さん。じゃあ、ラムのソテーとか、コトレッタとかはどう?」
白木さんが『これと、これ』とメニューを指差した。
合致率五十パーセントの二択問題が合っただけで唐沢と仲良しみたいな扱いに納得いかないが、そんなことより料理を早く食べたい。
「いいですね。どっちも食べます」
白木さんに向かって激しく頷く。
「アペリティーヴォはどうする?」
続けて白木さんが話し掛けてきた。
「……ごめんなさい。田舎者なもので……。頭もあんまり良くないもので……アペリティーヴォって何ですか?」
しかし、私はそれに答えられない。
【どうする?】と聞かれたものが何なのかさっぱり分からず、どうすべきものなのかが不明。
「食前酒のことだよ。ビール飲みたいって言ってたよね? ワインでもいいけど、どうする?」
唐沢が『ふふ』と笑いながら教えてくれた。
「すみません、何も知らなくて……。今日って、本当に三杯だけなんですか? となると、お酒選びも慎重にしないと……。唐沢さんはどっちがいいですか?」
お酒のメニューを見ながら、『なんで唐沢に酒の制限をされなきゃならないんだ』と腑に落ちない。
「夏川さんが飲みたい方でいいよ。夏川さんのお祝いなんだし」
唐沢はきっと、飲めれば何でも良いタイプなのだろう。
「……どれがいいですかね? 白木さん」
ここはもう、白木さんに聞くのが間違いない。またもや白木さんに質問返しした。
「じゃあ、ビールにしたら? なんかビールの方が『いぇーい♪』って感じするじゃん?」
白木さんによく分からない同意を求められ、
「……何。白木さんってパリピなの?」
思わずポロっと出てしまった言葉に、
「白木は不真面目ではないんだよ。どちらかと言えば真面目な方なんだよ。ただ、昔からなんかチャラい」
唐沢までもがよく分からないフォローを入れるから、
「チャラさと真面目さって共存出来るの?」
口から疑問文しか出てこない。
「漫画の中には出てくるじゃん。遊びまくってたりケンカしまくってるようなヤツが、本当は頭が良くてモテるっていう、鼻に着くヤツ」
唐沢の返しに、
「さすが、漫画家の彼氏さんですね」
変に納得し、「なるほどなるほど」と頷くと、唐沢と目が合って二人で笑ってしまった。
「二人、仲良いね。なんかイイ感じ。付き合わないの? 夏川さん、彼氏いるの? 唐沢、いまフリーだよ」
自分は彼女持ちなのに、フリーの唐沢を憐れんでか、白木さんが謎に唐沢と私をくっつけようとした。
「唐沢さんとはただの同僚です。しかも、私の職場は東京じゃなので、唐沢さんとは月イチでしか会いません。白木さん、旅行がてらに私の職場に来てみますか? 唐沢さんと私の殺伐と
した空気、吸ってみます?」
蒼ちゃん然り、白木さん然り、千秋さん然り。本当にもう勘弁してほしい。
「……あぁー。そういうことかぁ。お前は三十にもなってまだそんなことしてるのか。コイツ、昔からそうなんだよ。意識しちゃうと思ってることと正反対のことしちゃうの。いつまで経っ
ても変わんないなぁ。若かったらそんな態度も『可愛い』で済むけど、三十でそれは痛いわ」
白木さんが、蒼ちゃんとが言っていたことと同じ様なことを言いながら、「ないわー」と唐沢に白い目を向けた。
「唐沢さんが私を意識なんかするわけないじゃないですか。見た目でなんとなく気付いてたと思うんですけど、私は唐沢さんよりずっと年上なんです。おばさんです。だから、ありえないです。なので、この話はやめましょう。ビールが飲みたいんです、私は‼ お腹もスッカスカなんです‼」
店に入ってからずっと続く、唐沢とどうのこうの話に、いい加減に嫌気が差し、無理矢理話を断ち切ると、『持ち場に戻れ』とばかりに白木さんに退室を促した。
「ゴメンゴメン。そうだよね。お腹空いてるよね。すぐ用意するのでもう少しお待ちを」
白木さんが、ホールにいたタケくんに「唐沢のテーブルにビール出して。早くね」と声を掛けると、足早にキッチンに戻って行った。
「……唐沢さん、早めに彼女作った方がいいですよ。……って、何年も彼氏のいない私に言われるのは大きなお世話だとは思うんですが、同じ会社のババアと食事するだけでおかしなことを言われるの、嫌でしょう?」
ため息の様な変な息を吐きながら、苦笑いを唐沢に向ける。
「別に。白木はああいうヤツって分かってるし」
「それは厄介ですね」
「でも、悪いヤツじゃないよ。いいヤツだよ」
「それは何となく分かる」
唐沢のに頷くと、友人を『いいヤツ』と肯定されて嬉しかったのか、唐沢が『フッ』っと小さく笑った。
「……あのー。いい雰囲気のところ恐縮なんですが、ビールお持ちしましたよ」
そこに、申し訳なさそうにタケくんが登場。
唐沢と私の関係を知らないタケくんに『いい雰囲気』と言われ、
「タケくんも、いいヤツなんでしょうね。おかしなことを言っているけど」
笑いながら唐沢に同意を求めると、唐沢が声を出して『あはは』と笑った。
職場ではないからなのか、お店の雰囲気が良いからなのか、今日は唐沢と喋ることが苦ではない。むしろちょっと楽しい。そして、ビールも後から運ばれてきた料理も全部美味しい。
どうせ自分で払うんだし、遠慮なんか必要ない。と言うことで、結局魚料理にも手を出し、挙句ドルチェを三種類頼んだり、やりたい放題に腹はち切れんばかりに食いに食いまくった。
こっそり……というか、まぁバレていたと思うが、お酒も五杯飲んだ。
「あぁー。美味しかった。幸せやー。天国やー」
食べ過ぎてポッコリ膨れてしまったお腹を摩りながら、チラっとスマホの画面に目をやる。
「唐沢さん、そろそろ出ましょう。新幹線の時間が……」
ここは東京。新幹線の最終は、電車より早い。もう、そんなにのんびり出来ない時間になっていた。
「そっか。夏川さん、トイレ行っておかなくて大丈夫? 因みにトイレはレジの脇の奥」
唐沢がトイレの方向を指差した。
トイレは駅にも新幹線の中にもあるから大丈夫のはずなのに、『トイレ、大丈夫?』と聞かれると、何故か不安になって『行っておいた方がいいだろう』と思わせる、トイレの不思議。
「……すみません。ちょっと行ってきます」
ハンカチと財布を持って立ち上がると、そそくさとトイレへ。トイレがレジの脇なら、用を足した後に、お会計も済ませよう。唐沢には『トイレ帰りに会計って……』とツッコまれそうだが、三十六歳はそう。時短したいし、余計な動きはしたくない。トイレの後に席に戻り、財布を取ってからまたレジへ。などという二度手間は、無駄としか思えないのだ。
見栄を張っても仕方がないのに、ウンコだと思われたくなくて、さっとトイレを済ませると、ホールにいたタケくんに向かって手を上げながら、レジに呼んだ。三十六歳はそう、自ら近寄って行かず、相手を自分の方へ呼ぶスタイル。だって、どうせレジに戻るんだし、やっぱり二度手間だもん。
「どうしました? トイレットペーパーなくなっちゃいました?」
足早に私のところに来てくれたタケくん。
「イヤ。お会計をお願いしたくて。テーブル会計だと、ちょっと生々しいかなと。後半、値段も見ずにオーダーしてたから、結構な金額になってるでしょ?」
財布からクレカを引き抜き「でも、高くても全然良い。めっちゃ美味しかったし。最高でした。ごちそうさまでした。あ、一回で」と言いながらタケくんに差し出すと、
「お会計、さっき唐沢さんが済ませましたよ」
タケくんが掌をこちらに向けて、クレカの受け取りを拒否した。
「え⁉ 何で?」
困惑する私に、
「何でって言われても……」
タケくんは尚更困惑。というか、迷惑しただろう。
「何してるの、夏川さん。新幹線の時間でしょ」
そこに、私たちの困惑の原因・唐沢が、私のバッグを片手にやって来た。
「『何してるの?』は唐沢さんですよ。何でお会計しちゃったんですか?」
「だって、今日は夏川さんのお祝いじゃん」
『当然でしょ』と言わんばかりの唐沢。
「イヤイヤイヤイヤ……」
『何を言ってんだ? この人』と飲み込めずにいる私の腕を掴んだ唐沢が、
「夏川さん、新幹線の時間‼ じゃあな、タケ。またな」
私を引っ張りながら、お店から引きずり出した。
「新幹線、東京駅からでいいんだよね?」
私の腕を掴んだままグイグイ歩く唐沢。
「あ、はい。イヤ、違う‼」
「何で? 違わんくない?」
「駅は合ってる。そうじゃなくて、お会計‼ 私の奢りって話だったじゃないですか。自腹だと思ってたから好きなものを好きなだけ頼んでたのに……。いくらでした? 今現金ないので、来月ウチの事務所にいらした時にお支払いします」
お酒に弱い方じゃないし、全然酔ってないけれど、でもお酒飲んじゃったし、忘れたら嫌だなと思い、ポケットからスマホを取り出し、【唐沢さんにお金】とメモに打ち込んでいると、
「いいって。よくよく考えて、お祝いされる側がお金出すって変じゃん」
唐沢がスマホ画面に手を置き、私の打ち込みを阻んだ。
やっと気付いたか。よくよく考えないと気付かないのか、この男は。と喉もとまで出かかった言葉をグっと飲み込む。
「イヤでも、自分の分だけでも払います。調子に乗ってオーダーしまくってしまったので」
それでもやっぱり気が引ける。唐沢が、自腹祝いがおかしいことにもっと早く気付いてくれていれば、私が調子こくこともなかったのに……。
「そんなことより、東京駅までの乗り換えとか大丈夫? 夏川さん、方向音痴っぽいし」
まだ三十代に足を突っ込んだばかりの唐沢は、お金の話を『そんなこと』と流した。女・三十六歳・独身には、お金は命と同じくらい重要なのに。……が、
「乗り換えはググったり、駅員さんに尋ねれば大丈夫だと思うんですけど……駅までの道がちょっと……」
唐沢の言う通り、方向音痴な私は来た道をひとりで戻れる自信がない。大通りだけならまだしも、細い路地裏歩いたりしたし。東京砂漠で迷子になり、生きて帰れないのも辛い。
……生きて帰れないのも。ふと、蒼ちゃんの顔が頭に浮かんだ。
岳海蒼丸ファンの私は、彼らがルームシェアをしていたことを、ネットの情報を見て知っていた。
蒼ちゃんも、生きてみんなの家に帰りたかっただろうに……。
大好きな仲間に会わせてあげたいな。本当に私がお母さんになれるのなら、産んであげたい。
チラリと唐沢の顔を見上げる。
「俺も電車乗るし。ウチこの辺じゃないし。……人の顔、ジロジロ見るのやめてもらえます?」
唐沢にそっぽを向かれてしまった。
蒼ちゃん、やっぱ唐沢とどうこうなるのは本当に無理だよ。だって……、
「酔った勢いでこの際言ってしまいますが、唐沢さん、日本語がキツイっていうか、強いです。そりゃあ、ジロジロ見ていた私が悪いんですけど、『そんなに見られると恥ずかしいです』くらいの言い方をしてくれたらいいのに……。怖いんですよ」
『怖い』と濁してみたけれど、本当は不快。
「だから、夏川さんてすげぇなって」
唐沢が顔をそむけたまま歩き出した。
「え?」
置いていかれない様に、唐沢の傍を歩く。
「俺、語彙力が著しく劣ってるんだよ。そんなつもりないのに相手を怒らせちゃったり、冗談を言ったつもりが、泣かせちゃったり。コミュ力まるでないから、上司に『営業部だけはマジで勘弁してください』って頼んでるくらいだし。だから、会社もプライベートも話す相手を厳選してるし。俺のこと、分かってくれてるヤツか、受け止めてくれそうな人としか喋らない」
「私、唐沢さんのこと分かってないし、受け止めもしてませんが?」
もう一度顔を上げると、苦々しく笑う唐沢の顔が見えた。
「夏川さん三十六歳だし、受け流してくれるかなぁと」
「そういうところですよ、唐沢さん。わざわざ言う必要のない年齢を言って傷つける」
今度はわざとジロリと唐沢に睨みを利かせた。
「ほらね。今だって、怒らせる気ゼロだったのに。【大人だから若い人に比べて余裕があるから】ってことなのにさ」
「だったらそう言ってくださいよ。言葉足らずが過ぎますよ」
思わず『フッ』と笑いが零れてしまった。もしかすると、やっぱり蒼ちゃんの言う通り、唐沢はそんなに悪い人間じゃないのかもしれない。ずっと、誤解していただけなのかもしれない。
「だから、夏川さんってマジで凄いなって」
ふいに唐沢がこっちを見るから、ちょっとドキっとしてしまった。
「……何が?」
「語彙力が半端ないから、本が書けて、賞まで獲れて、出版までしちゃうわけじゃん。その能力、半分分けて欲しいわ」
唐沢が「ちょうだい」と左手の掌を私に向けた。
「本当にたまたま奇跡的に獲れただけだから、半分もあげたら書けなくなっちゃう」
唐沢の手を「つか、私の半分は唐沢さんの片手で収まる程度なんですね。露骨に見縊ってますよね。本当にそういうところですよ、唐沢さん」と振り落した。
「ねぇ、何て名前で本出すの? いつ頃出る? 買うよ。まじで読みたい」
「イヤ、まだ出版の打ち合わせしただけで何も始まってないし。出版予定月は何となく決まってるけど確定じゃないし、名前だって変えるかもしれないし……」
唐沢の質問をはぐらかし、何ひとつ答えずに、一冊でも多く売ろうとしない私は、やはり小説家なんてご立派な職業を名乗る資格などないのだろう。まぁ、これからも職業欄には会社員と書き込み続ける所存ですが。
「さすが小説家。言葉巧みにかわしますね。本出る時ちゃんと教えてね。じゃないと俺、口軽いからすぐ喋るよ」
しかし、唐沢は見逃してくれなかった。
「口軽いのは知ってる。白木さんたちに速攻でバラしたもんね。でも、唐沢さんって人間関係狭いんでしょ? だったら別にそこまで広がらなそうだから……」
唐沢に拡散能力などないと気付いた、こちらもこちらで断固拒否。
「夏川さん、千秋さんのSNSフォロワー数知らないの? PN言わないと実名で拡散してもらうことになるよ」
唐沢がニヤリと笑いながら私の顔を見た。
そうだった。限られた人間関係であっても、その中に爆発的なカリスマがいると大変なことになることを忘れていた。
「言う‼ 言うから、本当に誰にも言わないで‼ 友達にも家族にも会社の人にも‼」
唐沢の二の腕を掴んで念を押す。
「はいはい。約束ね」
「秘密ね‼ 約束と秘密は絶対‼」
掴んでいた唐沢の腕を揺らしながら言い聞かせると、
「分かった分かった。約束と秘密は絶対」
唐沢が『ククク』と笑った。本当にコイツはちゃんと分かっているのだろうか。
【SHIRAKI】で散々喋ったというのに、同じ会社で働いている同士だからか、歳が離れていても同じ話題を話せる為、最寄駅までの道のりも途切れることなく会話があった。
最寄駅に着いたところで、別々の電車に乗るかと思いきや、唐沢も帰りの方面が同じだったらしく、結局東京駅まで一緒に行くことに。
東京駅に着くと、降りなくてもいいのに何故か唐沢も一緒に下車した。
「さすがに新幹線ホームにはひとりで行けますよ」
「ホントに? 夏川さん、方向音痴だからねぇ」
唐沢が疑いの目を向けてきた。
「馬鹿にし過ぎです。大丈夫なので、唐沢さんは次の電車で帰ってください」
『来るな』とばかりに、唐沢に掌を翳す。
「はいはい。じゃあ、また来月。事務所で」
唐沢がヒラヒラと手を振った。
「唐沢さん、会社でも今日みたいな感じでいてもらえませんか? あとは走って逃げるだけなので正直に言ってしまいますが、ピリピリ感がしんどいんですよ。仕事がやり辛い」
両手を握り拳を作って、ダッシュのポーズをする。
「イヤイヤイヤ、どう考えても俺の方が足速い。すぐとっ捕まえるわ。それに、変な空気にして壁作って、なんならシャッターまで下ろしてんの、夏川さんの方じゃん」
「ほうほうほう。私のせいにするんですね? 原因が自分の口の悪さと分かっていながら、私が悪いと言うんですね?」
「俺は口が悪いんじゃなくて語彙力がないんだっつーの」
「性格が悪いだけじゃないですか?」
「夏川さん、十秒ハンデあげるよ。走って逃げた方がいいんじゃない?」
唐沢が腕時計を見ながら「十、九……」とカウントし出した。
「そうさせていただきます。では、さらば‼」
マントを翻す仕草をすると、
「ダセェ‼ 古い‼ ウケる‼」
ツボに入ったらしく、唐沢が腹を抱えて笑い出した。
「唐沢さん、今日はどうもありがとうございました。助かりました。じゃあ、また」
笑い続ける唐沢に手を振ると、
「どういたしまして。楽しかった。じゃあ、また」
唐沢が涙を浮かべながら手を振り返した。
「あ、言わなくても分かると思うけど、唐沢の涙は【淋しくて】とか【悲しくて】とかではなく、笑いすぎての涙だよ」
無事地元に帰り、いつも通り出勤し、私以外の社員が現場に出払って蒼ちゃんと二人だけになったので、東京であった顛末を蒼ちゃんに話す。
「いいねいいね‼ 思いがけず唐沢と距離縮めてきてくれるとは‼ で、チュウは⁉ キッスは⁉」
蒼ちゃんが唇を突き出しながら『したよね⁉』と迫って来た。
「するけないやん‼ 気持ち悪いこと言わないで‼ 何だよ、『キッス』って。小さい【ッ】入れんな‼」
蒼ちゃんの顔を押し避けようとした手が、空を切る。今でもたまに、蒼ちゃんが幽霊であることを忘れてしまうことがある。だって、私には普通に見えるから。蒼ちゃんが、あまりにも
普通にここにいるから。
「しろよ‼ してくれよ‼ 俺、産まれてこられないじゃん‼ でも、進展したんだし良しとしよう‼」
蒼ちゃんが悔しそうに太腿を拳で叩きながら「でも、一歩前進したし。イヤ、三歩くらいは進んでるはず」と自分で自分を納得させていた。
「別に進展なんかしてないし。一緒にゴハン食べただけだし」
ひとりで勝手に盛り上がる蒼ちゃんに冷めた視線を送ると、
「これからこれから♪」
蒼ちゃんが「ここからガンガン行くよ‼」と天に拳を突き上げた。
東京での話をして変に蒼ちゃんに期待を持たせてしまったことを後悔した。ガンガンどこへ行けって言うんだろう。
そんな蒼ちゃんの期待にはやっぱり応えられず、仕事の合間に蒼ちゃんの脚本を手伝ったり、帰宅してからは本の刊行に向けて小説を改稿したりで、唐沢とは何もないまま半年が過ぎた。まぁ、当然だ。ただ、以前よりは唐沢と話をし易くなった気はするけれど。そして、
「遂にサバちゃんの本、発売かぁ。おめでとう‼ 買いたかったなぁ。購入者、第一号になりたかった」
本の発売日が決まり、蒼ちゃんが「良く頑張ったね、サバちゃん」と自分のことの様に喜んでくれた。
「ありがとうね、蒼ちゃん‼」
手と手を取り合うことも、ハグすることも出来ない私たちは、拍手をしながら喜びを分かち合う。
「……今日、唐沢が来る日なんだよね。……本の発売日とか、タイトルとか、教えなきゃなんだよね……」
しかし一気にトーンダウン。今日は月イチの唐沢が事務所にやってくる日だった。
唐沢への苦手意識が少し和らいだとはいえ、それでもやっぱり本のことを言うのは躊躇する。
否定されたくないから読まれたくない。それ以前に、自分の脳みそを覗き見されるみたいで恥ずかしい。
「何をそんなに躊躇ってるんだか。賞を獲った物凄く面白い本だよ。胸張って堂々と宣伝すべきだよ」
蒼ちゃんが「俺だったら自慢して歩くのに」と首を傾げた。
「蒼ちゃんみたいな実力と実績があれば、私だって拡声器を小脇に抱えて大声出してるよ。だけど私はそうじゃない」
才能の塊だった蒼ちゃんの顔を見れずに、なんとなく俯く。
「実力がなきゃ本なんか出せないっつーの。何でそんなに自信ないかな、サバちゃんは。あ、やっぱり周りに秘密にしてるから悪いんだよ。だって俺、中学の時に書いたシナリオ、がっくんと拓海とマルオに見せて、三人があまりにも褒めてくれるから嬉しくなって調子に乗って、たくさん書くようになって自信がついたタイプだもん」
蒼ちゃんが懐かしそうに「そうだったそうだった」と遠い日の思い出に目を細めた。
岳海蒼丸のファンだから、四人の話を聞けるのは嬉しい。でも、やっぱり胸がきゅうっとなる。戻してあげたい。蒼ちゃんを、三人の元へ戻してあげたい。
「イヤ、秘密以前の問題だと思う。若さの問題だよ。蒼ちゃんは、中学生で若かったから、みんなに披露出来たんだよ。若気は至っていいけど、老気の至りは許されないんだよ。恥をかき捨てられるのも若いうちだけ。歳を取ると、恥ずかしい真似はしちゃいけないの。大人だって、失敗するし、上手に立ち上がってる人もたくさんいるけど、そういう人は【恥ずかしくない失敗】をしてるの」
蒼ちゃんに、胸の痛みを悟られないように、平然と話を続ける。
「サバちゃんの言ってることは分かる。でも、頭硬すぎなんだよなー。周りの目を気にし過ぎ。サバちゃんが恥ずかしいと思ってることって、傍から見たらそんなにたいしたことじゃないのに」
納得のいかない蒼ちゃんは、「わっかんないなぁ。イヤ、分かるんだけど、分かんないなぁ」と頭を掻いた。
「お疲れ様でーす」
そうこうしていると、事務所のドアが開き、唐沢が入ってきた。
「きたきたー‼ 今日は何かしら展開があるはず‼ 今日こそ付き合ってー‼ いい大人がチンタラしすぎー‼ 俺、産まれられないやーん‼ 押し倒せー、お父さーん‼」
唐沢に自分の声が聞こえないことをいいことに、言いたい放題な蒼ちゃん。
そんな蒼ちゃんを睨みつけていると、
「夏川さん、どこ見ながら何を睨んでるの? 怖いんですけど。キモいんですけど」
唐沢は唐沢で、私に冷ややかな視線を浴びせていた。
「どこも見てないし、睨んでもないです」
と返事をしながらも尚、蒼ちゃんに『このやろう』と眼力をぶつけ続けると、蒼ちゃんが舌を出しながらヘラヘラと笑った。
「イヤイヤイヤイヤ。視線イッちゃってるじゃん。まじでやめな。危ない人だと思われるから」
蒼ちゃんの姿が見えない唐沢の目には、やはり私の行動は気持ち悪く映るらしい。
「もう‼」
説明のつかない、説明したところで信じてはもらえないだろう、蒼ちゃんの存在と行動に、大きな鼻息が漏れた。
「ヤバイだろ、その情緒。どうしたの、夏川さん」
唐沢、ドン引き。唐沢には、私が情緒不安定に見えるらしい。
「変なテンションじゃないと、言えないまま言う機会を失って、後々グチグチ言われるの嫌なので、このまま言ってしまおうと思うんですけど……」
もう、このまま本の話をしてしまうことにした。
「再来月の十五日に【蒼い青】ってタイトルの本が【佐波野ミソノ】って名前で出ます。約束通り教えたので、約束通り秘密にしてくださいね」
しつこいくらいに【秘密】を念押し。
「お、出るんだ。おめでとう。でも、PN。もっとあったでしょ。完全に鯖の味噌煮からきてるやん」
唐沢が私の名付けセンスを笑った。
唐沢に言われなくとも、私だってどうかと思ったし、編集さんにも『名前はこれで大丈夫ですか?』とやんわり変更を促されたりもした。
でも、蒼ちゃんに『サバちゃん』と呼ばれるのが何となく心地よくて、変えられなかった。
「佐波野ミソノ……あった。ハイ、ポチっとな。予約完了」
唐沢がスマホから早速本を予約してくれた。
「唐沢さんは電子派? 紙派?」
『今の三十路はどっちで読むんだろう』とちょっと気になり聞いてみると、
「電子で読む派。でも、とりあえず電子と紙、一冊ずつ買ってみた」
唐沢から、思いも寄らぬ大盤振る舞いな答えが返ってきた。
「電子も紙も、書いてあることなんて全く一緒なのに‼ 愛されてるねー、サバちゃん‼」
蒼ちゃん、大興奮。
「二冊も買ってくれるなんて……」
恐縮しながらペコっと頭を下げると、
「今、ちょうどウチに鍋敷きなくってさ」
唐沢から、思いも寄らぬ紙書籍の使い道を聞かされた。
「……お買い上げ、ありがとうございまーす」
全ッ然愛されてねぇし‼ 白けた微笑みを浮かべた表情のまま、蒼ちゃんの方を向くと、
「照れ隠しに決まってるじゃーん」
蒼ちゃんが「恋愛ってやっぱいいね‼ 最高‼」とジタバタした。
今まで蒼ちゃんのことを天才だと思っていた。というか、今でもそう思っている。
でも蒼ちゃんは、唐沢と私のこととなると、脳みそに何かが湧いてしまうらしい。
蒼ちゃんはひとりでずっと盛り上がり続け、仕事をしている私のそばで、「今日こそ恋愛を動かせ‼ タラタラしすぎ‼ 展開の遅い恋愛小説は人気出ないよ‼ わざと唐沢にお茶でもこぼして、『ごめんなさい‼』とか言いながらハンカチで拭きつつボディタッチしなって‼」と騒ぐから、蒼ちゃんだけに見えるように、パソコンの画面に太字の大文字で【うるさい。静かにしないと、金輪際脚本のお手伝いを致しません】と打ち込んでやると、「【金輪際】とか強めのワード使わなくてもいいやん」と蒼ちゃんがしょんぼりしながら口を閉じた。
この日も何事もなく仕事は終わった。……が、二か月後、大事件が起こった。
今日も仕事の合間に蒼ちゃんの脚本を作成していると、社内メールが届いた。
何の気なしにパソコンの画面を切り替え、メールのタイトルを確認。
【当社社員についてお知らせ】と書かれていた。大体このタイトルのメールは、華燭か訃報だ。
『誰かが亡くなるのも嫌だけど、結婚報告されるのもキツイわー』と思いながらもそのメールを開く。
「……どうして」
画面に映る文字を見て、血の気が引いた。自分の顔が青ざめているのが、鏡を見なくても分かる。
蒼ちゃんが、「サバちゃん、どうした? 顔色良くないよ? 具合悪い?」と私を心配しながらも、私の視線の先の文章に目をやり、
「……あらー」
苦笑いを浮かべた。
メールには、『当社から小説家が誕生しました‼ 現在発売中の【蒼い青】と言う本は、我が社の夏川千里さんの作品です‼ 積極的に読み、社員一丸となって夏川さんを応援しましょう‼』と書かれていた。
「……唐沢だ。唐沢しかいない」
腹が立って、悲しくて、悔しくて、マウスを握る手に力が入る。マウスを破壊してしまいそうなほどの握力だ。
奥歯を噛みしめ怒りに耐えると、今度は目頭が熱くなってきた。
あんなに約束したのに。あんまりだ。酷過ぎる。
唐沢の裏切りに、怒りと悲しみの涙が込み上げた。
この日から唐沢と私の関係は、以前のような険悪な状態へ逆戻りした。イヤ、その頃よりも悪化した状態になった。
仕事以外の話をされても一切反応をせず、仕事の話には『はい』と返事をするだけ。
大人気ないとは思う。でも、どうしても赦せなかった。
小説を書くことは、私の唯一の大事な趣味だ。誰かに馬鹿にされたり、からかわれたりしたくない。だから、絶対に誰にも知られたくなかった。なのに……。
唐沢のせいで、会社の人間だけではなく、人伝で聞いただろう取引先の人までも、ニヤニヤしながら私を【佐波野先生】呼びし出した。
唐沢が何か言いたげな視線をこちらに飛ばしてきているのは、ちゃんと気付いている。が、私の心のシャッターは五重にも六重にも閉まっていて、唐沢の視線も言葉も一切受け付けない。
尋常ではない私の怒りを察してか、蒼ちゃんが私に『唐沢とくっついて』的な話をすることもなくなった。【唐沢】というワードさえ口にしなくなった蒼ちゃんは、私の子どもになることを諦めたのだろう。
蒼ちゃんをこの世に戻してあげたい気持ちは変わらない。他の誰かの子どもとしてでも、産まれてきて欲しい。だから、蒼ちゃんをいつまでも私の傍に縛っておくわけにはいかない。
蒼ちゃんの脚本のお手伝いのスピードを上げ、ようやく完成した。
脚本が出来たから、蒼ちゃんとはもう、お別れなのだろう。
私が獲った賞は、結構有名なコンテストだった為、出版した小説はそこそこ売れ、【佐波野ミソノ】の名前は、読書好きの人たちには薄ら知られる存在になっていた。
今がチャンスだと思った。名もない私が蒼ちゃんの脚本を岳海蒼丸に送ったところで、詐欺やいたずらにしか見えないだろう。でも、名前が少しでも出ている今なら、これが蒼ちゃんのものだと信じてもらえる可能性が高い。
【佐波野ミソノ】を名乗り、蒼ちゃんの脚本を岳海蒼丸宛てに送った一週間後、出版社から『訊きたいことがある』と連絡が入り、東京へ行くこととなった。
重版かかったし、次回作の打診かな? と、少し意気揚々としながら、有休を取っていざ東京へ。出版社に行くのは二回目だった為、今回は割とすんなり辿り着けた。まぁ、ちょっとは迷ったけれど。
久々に会う担当編集さんに笑顔で挨拶をすると、何故か少し険しい顔をされ、奥の部屋へと案内された。編集さんの表情に不安を感じながら、通された部屋に入り椅子に座ると、
「佐波野先生、岳海蒼丸の蒼汰さんとお知り合いだったんですか? 先方の事務所から、佐波野先生の名前で蒼汰さんが書いたという脚本が送られてきたと連絡がありました」
一刻も早く確認したかったのか、編集さんは世間話を挟むことなく本題を口にした。
「あ、はい。私、過去に何度か小説をコンクールに応募していて、それを彼が読んでくれていまして……。少し交流がありまして、彼が生前に書いた脚本のデータを、私が持っていたもので……」
本当は死後に書いたものだけど。と自分の嘘に心の中でツッコミむ。でも、あれは間違いなく、蒼ちゃんの脚本だ。
「どうしてそのことを今まで黙っていたんですか⁉」
ちょっとキレ気味の担当編集さん。
「聞かれなかったので……。交友関係まで話さなきゃいけませんか?」
編集さんの圧に、椅子を少し後ろに引いて後ずさる。
「話して欲しかったですよ。あの脚本が本当に蒼汰さんの作品だったなら、最後に彼の作品をウチの出版社から出して形にしてあげることも出来たでしょう? ……疑うわけではないので
すが、本当に本物なんですよね?」
「本当に本物です。でも、証拠は? と聞かれたらありません。だから、我々の営利目的には出来ないし、したくありませんでした。彼は、岳海蒼丸の作品として世に出したがっていましたから。岳海蒼丸の皆さんがあの脚本を読んでみて【偽物だ】と感じたなら、それは仕方がありません。信じるか信じないかは、彼ら次第だと思っています」
岳海蒼丸のメンバーだったら必ず分かる。あれが、蒼ちゃんの脚本であることは、絶対に。
証拠もないのに自信満々に、脚本に関しては嘘も吐いていない為、何の悪びれもなく返事をすると、
「……そうですか。では、先方にはその様に返答しておきますね。で、今日はもうひとつお話がありまして、佐波野先生に次回作を書いて頂けないかと……」
私の態度に苦笑いを浮かべた編集さんが、話を変えた。
きっと、『コイツにこれ以上言ったところで、蒼ちゃんの脚本で金を稼ぐ気はサラサラないな』と悟ってくれたのだろう。
「嬉しいです‼ 頑張ります‼」
後ろに下がった分、椅子を前に戻し、前のめり気味で次回作の話に食いつく。テーブルの下では拳を作って小さくガッツポーズ。
それからは蒼ちゃんの話を一切せず、次回作はどんな話にするか、いつまでを目処にプロットを書くかなど話し合ったり、編集部に届いた、人生初の自分宛のファンレターを受け取って興奮したりして、お昼を過ぎた頃に出版社を後にした。
「お腹減ったなー。何食べようかな」
きゅるきゅると鳴るお腹を摩りながら、ふと唐沢に連れて行ってもらったイタリアンが頭を過った。
「食べたいな。行きたいな。行けるかな。行ってみよう‼」
スマホでMAPを確認し、記憶を辿りながら【SHIRAKI】を目指す。
次回作が決まり、調子が良い今の私なら、迷わず着ける気しかしない。
自身に満ち溢れながら歩いていると、
「ほらね♪」
見事に【SHIRAKI】の看板を見つけることが出来た。
ダメな時は何をやってもダメなのに、上手く行くときは全てのことが面白いほどに上手くいく。ご機嫌に【SHIRAKI】のドアを開けると、
「あー‼ お久しぶりです。いらっしゃいませー」
私のことを憶えていてくれたタケくんが、笑顔で出向かえてくれた。
「お久しぶりです。憶えていてくれてありがとうございます。嬉しいな。ランチを食べに来ました」
一度接客しただけの私を憶えているなんて。と、嬉しくて笑顔を返す。
「忘れるわけないじゃないですか‼ 今や作家大先生じゃないですか‼ 佐波野先生‼」
タケくんが『まじ凄いッス‼』と拍手をしながら褒めてくれた。が、私からは先ほどの笑顔が一瞬にして消えた。
会社だけでなく、【SHIRAKI】でまで言いふらすなんて……。唐沢、最低だ。
お腹が空いていたはずなのに、食欲がなくなり、楽しみにして来たはずなのに、食べる気がしなくなる。
でも、『やっぱり帰ります』と言うのも失礼過ぎる。軽いものをサッと食べてパッと帰ろうと心に決めた時、
「タケ‼ 事情知ってるくせに、どんな神経で言ってんのよ‼ 無神経か‼ 若ければ何言っても許されると思うなよ‼」
奥の方から白木さんの彼女の千秋さんがやって来て、タケくんの足を思いっきり踏んづけた。
「痛ぇな‼ でも、賞賛すべきことじゃん‼」
相当痛かったのか、タケくんが踏まれた方の足を抱えてピョンピョン跳ねた。
「相手の気持ちを考えてから言えっつーの。どう考えても今じゃない」
痛がるタケくんに白けた視線を送った千秋さんが、
「会えて良かった。私、謝らなきゃいけないことがあって……。私もちょうどランチ中なので一緒に食べませんか? 奢らせてください」
突然私の腕を掴み、奥のカウンター席へと引っ張った。
「え⁉ 何⁉」
わけが分からないまま、千秋さんの隣の席に座ってしまった。
「ランチ、何にしますか? 因みに今日の日替わりパスタは、今私が食べているホウレンソウのクリームパスタです」
何故か千秋さんがオーダーを聞かれるし。何がなんだか分からないのに、
「おいしそうですね。同じものをお願いします」
千秋さんの前にあるお皿の中の綺麗な緑色のクリームソースにしっかり心を奪われ、減退したはずの食欲が一瞬にして復活。ちゃっかり頼んでしまった。
「タケ‼ 日替わりパスタね‼」
千秋さんがタケくんに向かって右手を上げると、
「へーい」
オーダーを伝えるべく、タケくんはキッチンに入って行った。
「……あの、奢らなくていいですからね? 謝って貰わなきゃいけないことも何もありませんし」
どうしてこんなことになっているのかサッパリ分からないので、取りあえず意味不明な部分の事前削除を試みる。
「イヤ、あるんですよねー。それが」
そこにグラスと水を持ったタケくんが再登場。
「あるんですよ、それが」
タケくんの言葉に肩をすくめた千秋さんが、申し訳なさそうに『本当にごめんなさい』と頭を下げた。
「あるんですか? 何が?」
この人たち、私の知らないところで何をしてくれたのよ? と、顔を引き攣らせていると、
「悪気は全くなかったんだけどね。むしろ良かれと思って言っただけなんだよね、千秋は」
千秋さんを庇う様に、セットのサラダを手にした白木さんが、『パスタもすぐに持ってくるね』と言いながら現れた。
「何を誰に言ったんですか?」
三人の顔を見渡すと、
「……私が、唐沢さんに……」
千秋さんが言いにくそうに口を開いた。
「唐沢……」
【唐沢】という名字に、右頬がヒクヒクした。
「うわー。予想を遥かに超える拒否反応じゃん、佐波野先生」
タケくんが私の様子に驚きながら「一口飲んで落ち着きましょうか」とグラスに水を入れて手渡してくれた。
「あの、【佐波野先生】ってやめて頂けませんか? 私の本名は、夏川です」
タケくんに【佐波野先生】と呼ばれる度に、秘密をバラした唐沢への怒りが込み上げる。それをここにいる三人にぶつけるのはおかしな話なので、タケくんが淹れてくれた水と一緒にグッと飲み込んだ。
「よし、タケ。一回下がろうか。下がってパスタを持って来い。ごめんね、夏川さん。タケにも悪気は全然なくて、夏川さんを尊敬してるだけだからさ」
白木さんが両手を合わせてペコペコと頭を下げた。
「はーい。気を悪くさせてしまってごめんなさい」
白木さんの隣でタケくんも頭を垂れる。
「すみません。唐沢さんに盛大に裏切られたことに腹が立って、大人気ない態度を取ってしまいました。ごめんなさい」
何も悪くない人たちに謝られている状況に申し訳なくなり、私も頭を下げ返す。
「とりあえず、パスタ食べましょう。お腹が減ってると余計にイライラしますからね。すぐ持ってきますね」
私に笑いかけ、キッチンに戻ろうとするタケくんに、
「気持ち盛り多めにってパスタイオに伝えて」
白木さんが耳打ち。しかし、しっかり聞こえてしまった為、
「サービスありがとうございます。なんかすみません」
と恐縮すると、
「これで千秋を許してやってくださいな」
白木さんが『イヒヒ』と舌を出し、
「ごゆっくり」と言い残して仕事に戻って行った。
白木さんがいなくなると、パスタが入った皿を持ったタケくんが戻ってきた。
「お待たせしました」
タケくんが私の前に置いてくれたお皿を見て、
「気持ち多めっていうか、大盛りやん。……食べれるけどね。余裕でイケるんだけどね。ありがとうございます」
【SHIRAKI】のサービス過多に笑ってしまった。
「なんかイイっすね、夏川さんのそういうところ。唐沢さんが好きになる気持ち、分かるわ」
タケくんも『ふふふ』と笑う。
「イヤ、だからね。変な誤解は唐沢さんにも迷惑なので、本当にやめてくださいよ」
私の笑顔が苦笑いに変わると、
「タケ、もういいからちょっと外して。私、夏川さんにちゃんと謝りたいの」
千秋さんが「ハウス‼」と言いながら、どこかの方向を指差した。
「どこにハウスがあるんだよ」
ぷくっとほっぺたを膨らませたタケくんが、「ごゆっくりどうぞ」っと私だけに笑顔を向け、千秋さんが指差した方向とは逆の方に掃けて行った。
「……あの、食べながらでもいいですか? ここの料理、本当に美味しいから冷めちゃうともったいない」
千秋さんが上目使いでお伺いを立ててきた。
「もちろんもちろん。千秋さんのパスタ、冷めてないですか? 大丈夫ですか?」
コクリコクリと首を縦に振ると、
「ここの料理は冷めても美味しいんですよ。ただ、温かいうちに食べた方がより美味しいってだけで」
千秋さんが自信満々な笑顔で自分の彼氏の店の料理を自慢した。
「惚気られたー。言われなくても、ここの料理が美味しいことくらい私だって知ってるのにー。いただきまーす」
幸せいっぱいな千秋さんに嫉妬を爆発させると、フォークに大量のパスタを巻き付け、口いっぱいに頬張ってやった。
「私も好きだなぁ。夏川さんのそういうところ。夏川さんの書く文章も好き。私、夏川さんが出した本、読んだんです。面白かったです。でもそれより、【あぁ、好きだな】って感想の方が強かったです」
柔らかく微笑みながら、千秋さんも少し冷めてしまったパスタを一口食べた。
「……嬉しいです。なんか恥ずかしいな。ありがとうございます。ゴッゴホッ」
口の中にパスタを入れ過ぎたため、上手く飲み込めずに感謝の言葉を言いながら咽てしまう。
「無理に喋らなくていいのに。そういう人柄が文章に出てて、本当に良かったんですよ、【蒼い青】」
千秋さんが「お水お水」と、私の手元にお水を置いてくれた。
「唐沢さんも同じ思いだったんですよ。そろそろ夏川さんの本、出るんじゃないかなーって頃に、唐沢さんに訊いたんです。『何てタイトルの本なの?』って。でも、唐沢さんは頑なに教えてくれなかった。『すごくいい本。たくさんの人が読んでくれればいいなと思う。でも、言わない約束だから』って」
「……え?」
千秋さんの言葉に咳が止まり、息を飲む。
「私、漫画家なので、出版業界の知識はちょっとだけあるわけで……。初動がいかに大切かとか、初版を売り切らなきゃ次に繋がらないとか。『【本当に良い作品は口コミで広がる】なんて幻想だ。この世にどれだけの傑作が日の目を浴びずに埋もれてると思ってるの⁉ 宣伝しなきゃ売れない。口コミは、誰にも言わなきゃ広がるわけがない。彼女の作品がそうなってもいいの⁉ そんなに良いものを書ける彼女のチャンスが潰れてもいいの⁉』って、私が唐沢さんを嗾けた。だから唐沢さん、色んな人に言って回ったんだと思います。あそこ、見てください」
千秋さんがレジカウンターの下の棚を指差した。
「……あ」
そこには、【蒼い青】が5冊、表紙を見せる形で置かれていた。
「あれ、唐沢さんですよ。あれだけじゃないですよ。唐沢さん、【蒼い青】にボーナス全部突っ込んでますよ。行きつけの美容室とか居酒屋にも『一冊でいいから』って頼んで置かせてもらって。唐沢さんは夏川さんの気持ちを無視したかもしれない。夏川さんとの約束を破って傷つけたかもしれない。それは私のせい。本当にごめんなさい。夏川さんにとっては余計なことだったかもしれない。だけど唐沢さんは、小説を書くことが好きな夏川さんが、より良い環境で執筆出来たらいいと思って、約束を破ったんですよ。夏川さんは自分の作品を恥ずかしがる
けど、唐沢さんだって、私だって、白木さんもタケくんも、夏川さんの作品が大好きで、誰が見ても恥ずかしくない自信がある。だから……」
自責の念に駆られた千秋さんが、薄ら涙を浮かべた。
「ご……ごめんなさい‼ 私、何も知らなくて……。どうしよう」
慌ててテーブルの端に置いてあった紙ナプキンを引き抜き、千秋さんに渡していると、
「泣いて夏川さんを困らすなっつーの。夏川さんが悪者みたいになるだろうが」
私たちの様子に気付いた白木さんが、困った顔をしながらこちらにやって来て、千秋さんを優しく宥めた。
「唐沢、昔から恥ずかしがり屋でさ。上手く自分を表現できないヤツでさ。だから『好きだー‼』とか、当然伝えられなくてさ。小さいヤツだよね。夏川さんに嫌われてでも、夏川さんが大事にしている執筆活動を守りたいくらいに、唐沢は夏川さんのことが大好きなんだよ。なーんで、俺が三十男の告白の代弁してやらんとならんかな。自分で言えよ、いい大人なんだからって感じだよね」
白木さんが、ここにはいない唐沢に呆れた。
「それは白木さんの勝手な想像かと……。でも、唐沢さんにはお礼しないと。何を自腹で私の本のPR活動しちゃってるんだ、アイツは‼ それならそう言えばいいのに‼ あ、言えないか。私、めちゃめちゃシカトしてたじゃん。イヤ、それでも言えっつーの‼ 真の恥ずかしがり屋かよ、もう‼ 白木さん、私これから唐沢さんに会いに行くので、まだパスタ食べ終わってないんですけど、ドルチェ持ってきてもらっていいですか? 『急いでる風に見せかけてドルチェ食うのかよ』って思いましたよね、今。えぇ、食べますよ食べますよ。だって、ここの料理を楽しみにして来たんだから、諦めませんよ。ティラミスをお願いしますね」
イタリアンを食べて地元に帰る予定が、急に唐沢に会うというミッションが出来てしまった為、ゆっくりもしていられずにパスタにがっつく。
「なんかいいなぁ、夏川さん。凄くいい」
白木さんが笑うと、
「分かる。友だちになりたい」
千秋さんも笑う。
「是非とも‼」
パスタをほっぺに蓄えながら返事をすると、
「唐沢とも付き合ってほしい」
白木さんが千秋さんに便乗して変なお願いを挟み込むから、
「ティラミス‼ はーやーくー‼」
あからさまにシカトしてやった。
「はいはい、ただいまお持ちしまーす」
白木さんが「良かったな」と千秋さんの肩を撫で、キッチンに向かうと、
「本当に良かったー。私が余計な助言をしたばっかりに、唐沢さんはずっと元気ないし、きっと夏川さんも怒ってるだろうし、もう、夏川さんの職場の住所調べて謝罪に出向こうかと思っ
てたんですよ。でも、彼に『職場に行くなんて、迷惑すぎるだろ』って止められて……。夏川さんに嫌われなくて良かったですー」
千秋さんが「心配事がなくなると、料理がよりおいしく感じますよね。まぁ、ここのはいつ食べても美味しいんですけど」と、ニコニコしながらパスタにフォークを刺し、クルクルと巻いた。
「……【彼】。千秋さんも白木さんも、無意識ですか? その惚気。まぁ、いいんですけど。私のただの僻みなので、別にいいんですけどね。口では『いい』って言ってますけど、腹の中では『クソが‼』って思ってますけどね。おっそいわー。ティラミス遅いわー。何分待たせるのかしら、もう‼」
仲良しカップルにラブラブ加減を見せつけられて、羨ましくてイラっとする。
「イヤイヤイヤ、ティラミス注文したばっかじゃん。しかも、まだパスタ食べきってないし。それに、夏川さんの方がめちゃめちゃ愛されてるじゃないですか。私、彼に私の本の為にボーナス使ってもらったことないですよ。なんなら買ってもらったこともない。『献本あるんでしょ』って言われて、タダ読みで終わりです」
千秋さんが乱暴にパスタを口に押し込んだ。
「イヤイヤイヤ、白木さんはオーナーだから、そもそもボーナスなんてないでしょ。給料制じゃないんだから。てか、『紙の本は嵩張るから』っていつも電子の方を買ってますよ、あの人」
白木さんが持ってくるかと思ったら、タケくんがティラミスを持ってやってきて、私たちの目の前に配膳してくれた。
「へ……へぇー。そうなんだ。知らなかった」
千秋さんの頬がポッと赤くなった。
「……なんだろ。イライラしちゃう‼ イライラしちゃうんだけど‼ ねぇ、千秋さんのティラミス譲って‼ 糖分が足りない‼ 一個じゃ絶対足りない‼ 幸せなんだからいいよね?」
千秋さんのティラミスに手を伸ばすと、
「えぇー。……まぁ、いいですよ。これで許してくれるなら」
千秋さんがティラミスの皿を私の方へとスライドさせた。
「愛されてる人の心の余裕かよ。貰いますけどね。文句言っておきながら、有り難く頂戴しますけどね」
唇を尖らせながらも、自分のテリトリーにしっかりティラミスを確保。
「なーにを、怒ったフリしちゃってるんだか。本当は『私、唐沢さんに愛されちゃてるんじゃね⁉ ボーナス全部突っ込まれるとか、相当愛されまくってね⁉』とか思ってるくせに」
千秋さんがニヤニヤしながら私の顔を見た。
「……思ってるよ。思っちゃってますよ。でも、本人から聞いたわけじゃないから違う可能性だってあるでしょ⁉ 千秋さんにはまだ分からないかもしれないけど、歳を取ってからついた心の傷って、修復に時間がかかるのよ。若い時みたいに瞬発力ないからさ。変な勘違いで付けずに済む傷なんか負いたくないの」
千秋さんの視線から逃れるようにそっぽを向くと、
「唐沢さんに愛されないことは、夏川さんにとっての心の傷なんだー。へぇー」
千秋さんが『クククッ』と嬉しそうに笑った。
「違ッ‼ おばさんからかって何が楽しいんだ、もう‼」
否定しながらも、千秋さんの言葉にドキっとした。
蒼ちゃんや、白木さん、千秋さん、タケくんが唐沢の話ばかりするから、いつのまにか唐沢を意識していた自分に気付いてしまった。
そこに、唐沢のボーナス全突っ込み話なんて聞かされたもんだから、さっきから心臓がきゅうってなって、締め付けられてるわけじゃないんだけど、切ないような、でも嬉しくて、説明し辛い状態になっている。
脳内には二人の自分がいて、『唐沢のこと、好きになっちゃったんでしょ?』と問う自分と、『イヤイヤ、あの唐沢ですよ。散々嫌味を言われてきたでしょうが。浮かれるんじゃないわよ』と反論する冷静な自分が討論中。
パスタを食べきり、ティラミス二個も食べ終わっても、脳内討論の結果は出なかった。
私なんぞと友達になりたいと言ってくれた千秋さんと連絡先を交換し、千秋さんが奢ってくれると言っていたランチだったけど、やっぱり心苦しくて(ティラミス奪い取ったし)こっそりお会計をして帰ろうと、タケくんに精算をお願いすると、「オーナーがお会計はいらないって言ってるので」と、帰り際にまで千秋さんと白木さんのラブラブ加減を見せつけられ、苦笑いを浮かべながら【SHIRAKI】を出た。
時計を見ると、会社の休憩時間は終わっている時間だった。
唐沢に【今、東京に来ています。仕事終わりに少しだけお話する時間を作って頂けませんか?】とLINEすると速攻で既読になり、唐沢から電話が掛かってきた。
「し……仕事中じゃないんですか?」
唐沢と会話する心の準備が出来ておらず、出た途端に噛んでしまう。
『仕事中に決まってるでしょ。また遭難してたらヤバイと思ってさ』
「だったら『迷いました』って正直に言いますよ」
『そっか。今日十八時には終わる予定。どうする? 前に行った【SHIRAKI】って店、覚えてる? そこで話す?』
「イヤ、さっきまでそこでランチ食べてたので、流石に再登場は気まずい」
『一回しか行ったことないあんな裏路地の店に、よくひとりで行けたね。夏川さん、方向音痴なのに』
「どうしても行きたくて。あそこの料理、めちゃめちゃ美味しかったから」
『おそるべし、食い意地』
「…………」
久々の会話でも、やっぱり唐沢の嫌味は健在だった。
「私、明日普通に出勤なので、東京に長居出来ないんです。なので、会社近くのカフェとかでお話出来ませんか?」
『分かった。仕事終わったらすぐ行く』
唐沢との短い会話を終え、電話を切ると、十八時まで東京散策をすることに。
迷子にならないように、分かり易い大通りだけを練り歩き、『折角東京に来たんだから』と、さほど欲しくもない、雑貨を買ってみたりしていたら、あっと言う間に十七時半になっていた。
唐沢が働く本社の近くには、私が入社した当時からある老舗のカフェがある。そこで唐沢を待つことに。
カフェの外観を見て『おぉ、懐かしい』と思うのに、注文をしたコーヒーを飲んでも『そうそう、この味』とはならず。十八年も経っているのだから当たり前か。昔飲んだコーヒーの味など、すっかり忘れてしまうくらいの年月が経っていることに、三十六歳を思い知る。
なんとなく頼んだオリジナルブレンドを飲みながら、『コーヒー豆って色んな種類があるけど、私が飲んだところで味の違いなんか分かんないんだろうな』と、メニューが書かれている黒板を眺めていると、
「お疲れさまです、夏川さん」
仕事を終えた唐沢がやって来て、目の前に座った。
「お疲れさまです。あ、何飲みますか? 私が呼び出したので、当然奢らせてもらいますから」
黒板を指差すと、
「さっき頼んで来た。で、話って?」
既にオーダーを済ませていた唐沢が、一息つきもせず本題を切り出した。
「……あの。私、何も知らずにずっと唐沢さんに酷い態度をしてました。それを謝りたくて……。すみませんでした」
ガバっと頭を下げようとした時、ウェイターが唐沢のコーヒーを運んで来るのが見えた。
「下げんな。訳ありの客だと思われるの、なんか嫌」
唐沢が下げかかった私の額を右手で押さえた。これはこれで、おかしな客に見えるに違いない。
ウェイターさんは、唐沢が頼んだエスプレッソをテーブルに置くと、「ごゆっくりどうぞ」と言って、微妙な表情を浮かべながら掃けて行った。
「こっちこそ、約束破ってごめん」
それなのに、何事もなかったかの様に話を続ける唐沢。これが、都会なのか。都会って、こうなのか。
「……千秋さんに聞きました。ボーナス、全部使って私の本を買ってくれたって」
「夏川さんの本、面白かったから。他の話も読んでみたいと思ったから。だから売れてくれなきゃ困るなと思っただけ」
唐沢は、私の為ではなくあくまで自分の為にボーナスを使ったと言いたいのだろう。
照れ隠しなのか、私に気を遣っているのか。
前者だとすれば、唐沢の口から私の訊きたいことは聞けないだろう。
唐沢はきっと言わない。唐沢のことを良く知っている白木さんがそう言っていたのだから。
私が言うしかないのだろう。でも、後者だったら? 私の勘違いだったら? 今後の仕事、やり辛くならない? この歳で再就職なんて出来ないよ? 頭の中で、言うべきか言わぬべきかがぐるぐると回る。
『言わずに後悔しないの?』
脳内の私の声で、『今、言わなきゃ』とテーブルの下で拳を握り、勇気を振り絞る。
「……私、嬉しかったんですよ。唐沢さんがボーナスで私の本をたくさん買ってくれたことが。『唐沢さん、私のことが好きなのかな?』って思って、嬉しかったんですよ」
唐沢の顔を見ることなんてとても出来なくて、コーヒーに映る真っ黒い自分の顔を見つめながら話す。
「…………」
が、唐沢は返事をしてくれない。唐沢の表情を伺うことさえ出来ないから、唐沢が何を考えているのか察することも難しい。
「……それで、気が付いたんです。『私は、唐沢さんが好きなんだな』と……」
握りしめた拳がカタカタ震えた。寒くもないのに唇も震える。だって、自ら告白したのは学生時代ぶりだ。二十年ぶりなんだから。
「…………」
にも関わらす、唐沢は無言。ほらね、やっぱり違ったじゃん。みんなが勘違いさせるから、出す必要もなかった勇気を絞り出して、こんな目に遭っちゃったじゃん。と心の中で逆恨みをしながら、
「……すみません。今の、無かったことにしてください。聞かなかったことにしてください。仕事が気まずくなるの嫌なので、忘れてください。すみませんでした」
居た堪れなくなって、バッグを持ち上げ席を立とうとしたとき、
「待って」
唐沢が私の手首を掴んだ。
「なんで俺の返事聞かないの?」
やっと喋った唐沢の顔をうっかり見てしまい、どうしようもなく恥ずかしくなって、一瞬で目を逸らした。
「……だって、ずっと何も話さないから」
「ビックリするでしょ。こんな展開になるなんて思いもしなかったから。それに俺、遠距離とかって出来んのかなって……」
唐沢はきっと、遠回しにお断りをしているのだろう。はっきり言わないのは、唐沢の優しさなのだろう。
「……無理ですよね。無理しなくて大丈夫です」
「無理っていうか、お互いに負担がかかるのはあんまり良くないかなって思って。どうしたら一緒にいられる時間を確保しやすいかなと思って。取りあえず、今日は俺ん家泊まりなよ。明日始発で帰れば仕事間に合うよね?」
「……え⁉」
予想だにしなかった唐沢の言葉に、逸らしていた目を唐沢に戻してガン見。
「だって、これからのことをちゃんと話し合わないと」
唐沢の家泊が決定事項の様に話す唐沢。
「……イヤ。まぁ、そうですけど。……ちょっと待って。【始発で帰れ】って、明らかに私に負担が掛かっているような……」
「あ、気付いたか。次は俺がそっちに泊まりに行くから、それでチャラってことで良くね?」
唐沢が『フッ』と息を吐いて笑った。
「……あの、唐沢さん。私とお付き合いをしてくれるのでしょうか?」
三十六歳になり、何事にも慎重になっている私は、『一泊したくらいで彼女ヅラすんなよ』など言われたくない為、勘違いを起こさぬよう、キッチリ確認したい。
「よろしくお願いします」
唐沢が微笑みながら頷いた。
唐沢が、私の彼氏になってしまった。
そしてそのまま唐沢のマンションに行くことに。駅の改札を抜け、ふと気づく。
「唐沢さん、電車合ってます?」
「自分家に帰る電車間違えるヤツいねぇだろ」
「だって前に東京に来た時、東京駅まで送ってくれたからそっち方面なんだと思ってた。この電車、反対方面ですよね? もしかして、送ってくれたんですか? そっかー。そんなに私と一緒に居たかったのかー」
ニヤニヤしながら唐沢を見上げると、
「方向音痴の田舎者を放置できなかっただけ‼ 家に帰るまでが遠足だからな。引率者としての責任を果たしただけ‼ こっち見んな」
唐沢が左手の掌を私の顔の前に翳して目隠しをした。
唐沢の指の隙間から、顔を赤くして焦る唐沢の顔が見えて、楽しくて嬉しくて笑いが止まらなくなってしまった。
電車を降りると『簡単に鍋でも食べようか』という話になり、スーパーで材料を購入してから唐沢の部屋へ。
男の人の部屋に行くなんて、何年ぶりだろうか。ソワソワが止まらない。
唐沢の部屋は、割と綺麗に片付いていた。本棚にはしっかり私の本が入っていて、何だか嬉しい。
「その本、大量にあるから一冊鍋敷きにする?」
などと言いながら、唐沢が本棚にある【蒼い青】を指差した。
「私はなんでこんな嫌なヤツと鍋を食べることになったんだろう」
やっぱりあの告白は間違いだったのか? と目を細めて唐沢を睨むと、
「嘘嘘。ゴメンて。野菜切るの手伝って」
唐沢が笑いながら私の頭をポンポンと撫でた。頭ポンポンて……。唐沢って頭ポンポンとかするタイプだったんかい‼ と、驚きと恥ずかしさで体温が急上昇して、暑くて暑くて仕方がない。
二人で何だかんだ言いながら鍋を作って食べ、お風呂に入って、ベットに潜る。
ベットの上でも会話は途切れなかった。職場でのあの険悪な空気が嘘みたいだ。
「唐沢さんってさ、絶対浮気しないタイプだよね」
「何気に誠実なんでね」
「イヤ、そうじゃなくて。告白出来ないタイプじゃん。超シャイボーイ」
「浮気なんかそんなのしなくても出来るじゃん。なんとなーく近づき、何となくヤル」
「全然誠実じゃないやん」
「まぁ、俺はしないけど」
「シャイボーイだもんね」
「オイ、コラ」
「じゃあ、言ってみ? 『好きです、夏川さん』って言ってみ?」
「俺は直接言わないタイプなだけ。古風にお手紙タイプ。夏川さんが露骨にシカトして『声掛けるな』空気を醸し出してたから、生まれて初めてファンレターなどをしたためてしまったしな。そのうち編集さんからもらえるんじゃね?」
「あ、今日受け取ってきたわ。読まなきゃ」
身体を起こし、ベッドから出ようとする私の背中を、唐沢がグイっと引っ張った。
「『読まなきゃ』じゃねぇわ。どうせ、音読して俺を辱める魂胆だろ。分かってるんだよ、こっちは。俺が寝てから黙読しろ」
「シャイボーイめ」
「シャイボーイやめろ」
こうしてほとんど寝ないまま、朝を迎えた。
始発の新幹線の中で爆睡し、そのまま出社すると、いつも通りの日常へ。
今日も暫くすると社員たちが現場へ出払った為、事務所に蒼ちゃんと二人になった。
「……蒼ちゃん、あのね」
唐沢とのことを報告しようと、蒼ちゃんに話し掛ける。蒼ちゃんはきっと、大喜びするだろう。
「何ー?」
「私ね、唐沢と付き合うことになったよ」
「……え。まじ?」
「うん。まじまじ」
「……そっかー」
予想に反して、蒼ちゃんの反応は極薄だった。まぁ、そうか。結婚までいくかなんてまだ分からないから、蒼ちゃんを産んであげられるか確約も出来ない。でも、
「もう少し喜ぶかと思ってた」
少なからず進展があったというのに、蒼ちゃんのこの薄味なリアクションにはやはり首を傾げる。
「……喜ばなきゃね。分かってるんだけどね」
しょっぱい顔で笑う蒼ちゃん。
「あぁー……。そうだよね。なんか、母親の恋愛話聞かされてる感じで気持ち悪いよね」
ふと、蒼ちゃんとの歳の差を思い出し、納得。
「そうじゃなくてさ。なんか凄く寂しくなってさ。サバちゃんの一番近くにいたのはずっと俺だったのに、唐沢になっちゃうんだなーって」
「あぁ、シングルマザーの母親に彼氏が出来ちゃった感覚?」
「知らんし。俺、両親離婚してなかったし」
【両親】という言葉を発した蒼ちゃんの顔が曇る。大好きな人たちに会えなくなってしまった蒼ちゃんは、どれだけ淋しい思いをしているのだろう。それなのに自分の恋愛話をするのは、無神経すぎたと反省。
「生まれ変わっても、俺はサバちゃんの子どもなんだよなーって思うとさー……」
寂しそうな蒼ちゃんの目の奥に暗がりが掛かる。
「やっぱり嫌だ? まぁ、産んであげられるかもまだ分からないけど」
「生まれ変わって、サバちゃんと全く関わりのない人生を送るくらいなら、サバちゃんの子どもとして産まれたい。……何で俺、死んじゃったんだろ。死ななかったら、今も岳海蒼丸で楽しく活動も出来てて、サバちゃんとだって、年の差一回りで済んだのに。親子じゃなくて、他人でいられたのに」
蒼ちゃんが悔しそうにしながら、拳で自分の太腿を叩いた。
「……それって……」
蒼ちゃんの言葉が引っかかって、動揺してしまう。
年の差が一回りでいたかった。私と他人でいたかった。と、言うことは……。
「ご想像にお任せします」
蒼ちゃんは、切ない顔で笑ってみせると、返答を避けた。
「想像に任せちゃったら、蒼ちゃんは私のことが好きってことになっちゃうよ。いいの⁉」
「答えは言わない。言っちゃったらサバちゃん、俺が産まれてきたとき、俺のことそういう目で見そうじゃん」
蒼ちゃんが、口に両手を当てて『絶対に言いません』ポーズをした。
「想像に任せられてしまったから、言わなくたってそういう目で見ちゃうよ」
「それでも言わなーい」
頑なに返事を拒否した蒼ちゃんはこの日、そのまま姿を消してしまい、以降一度も現れなくなった。
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