第112話 武陵蛮の過去

漢人の言葉には異民族を表す単語が複数あります。


今まで戎狄いみんぞくとか、南蛮いみんぞくとか、異種いみんぞくって呼んでいたやつですね。


基本的には方角に当てはめて、四種類。

東夷、西戎、南蛮、北狄。


これに対し、中央に住む人たち、漢の王朝ができる前は自分たちを華夏カカと呼んでいました。

黄河流域にあった古代の夏の国ですね。


華は草花が生い茂るさまを表す漢字で、華やかに栄える様。

夏ってのは冠をかぶって踊る人を表す漢字で、転じて立派な大きな人。

黄河の中流域の平原、つまり中原には華やかに栄えている立派な人たちがいると考えたわけですね。



その周囲にいるのが先ほどの東夷、西戎、南蛮、北狄です。


東夷とは東の海に近い低地に住んでいる方々です。

夷という漢字は大きな弓と書いて、飾りが巻き付いた矢の象形。

東の人々は海の文化と大きな弓矢を持っていたんですね。

黄河の下流に住んでいた方々は早めに攻め滅ぼされて同化されました。

今では東夷という言葉は、高句麗コウクリ扶余フヨ、やの人たちを指します。


西戎は西の山々に住んでいる方々です。

戎は矛などの武器を持ったさまを表します。

矛を使うのが上手かったんでしょう。

羌族や氐族を指します。


南蛮は南の密林に住んでいる方々です。

どうもへびの一種だと思われたらしく、そういう漢字を使われています。

百越ヒャクエツや、武陵蛮ブリョウバンを指します。


北狄は北の草原に住んでいる方々です。

字の意味は犬の一種だとか、犬を連れて狩するからなどと言われています。

匈奴キョウド鮮卑センピ烏桓ウガンなどを指します。



あとあごひげって漢字も異民族に使われます、主に匈奴を指していたようですが、そこから派生して西域の人という意味に変化しました。

ここから異国から来たものに胡瓜とか胡椒とかつくわけです。




さてと、私がいま話している相手は南蛮になります。


長沙郡をはじめとする南荊州では密林の生い茂る山々が連なる険しい地形が続きます。

この密林の中に住んでいるのが、長沙・武陵の蛮族という意味で、武陵蛮ブリョウバンの皆様です。


……って他の異民族に比べて、メチャクチャ適当な命名法ですね。


いちおう五渓蛮ゴケイバンという別名もありますが、五つの渓流の近くに住んでる蛮というだけの意味で、彼らの本名とも思いません。



 ― ― ― ― ―



武陵蛮さんたちの村に入ると、大きな冠をかぶった方が出迎えてくれました。

立派な服を着て、剣をぶら下げ、一回り大きな体格をなさっています。


周りの部族の皆さんが敬意を表しているので、族長さんでしょうか。


「ヨカッタ、ヨカッタ」

といいながら、大皿に載せた果物を勧めてくれます。


お礼を言って果物を頂きますが、なんで喜んでるんでしょう?


「君、死ナナクテヨカッタ」

「ヘ?」


間抜けな声で返事してしまった私に、族長さんが説明します。

曰く、この村の周りには異民族を殺すための呪詛が埋め込んであるので漢人が入ると血を吐いて死ぬ。

聖なるいぬの血で清めて、悪い精霊を追い出したので死ななくて済んでよかった。


「あ、ありがとうございます……」


うう、いぬの生き血ぶっかけられたのは、好意ってことでいいんですかね……。


振り返ると護衛をするんだと息巻いた公明コウメイくんがじっとりといぬの生き血を被って心底嫌そうな顔をしています。


案内をしてくれた地元民の黄蓋コウガイさんは村の境界さかいめの外から生暖かく見守ってくれています。


……いや、それだったら村の外で面談したんですけどっ?!



いぬは聖なる生き物なんですか?」

「俺タチ、先祖ガいぬ


なんか伝説では、昔の帝王が戦争をしたときに苦戦して、敵の将軍を討ち取ったものに娘を与えると宣言したんだそうです。

その敵将を討ち取ったのが五色に彩られたワンちゃんで、帝王の娘をめとって南の山に隠れ住んだそうで、その子孫が武陵蛮の皆さんだとか。


……なんか、どっかで聞いた話ですね?

八つの玉を集めて願いをかなえる話でしたっけ。


あれ?そうすると。


「……ご先祖様殺しちゃって大丈夫です?」

「ダイジョウブ、コレゴ先祖様ノ色違ウ、後デ食ベル、強クナル」


族長さんが狗の死体を指さして軽く言います。

そういうもんなんでしょうか。文化が違いますね……。



ぐるりと村を見渡します。


村には大きな葉っぱで屋根をふいた、粗末な小屋がばらばらと建っていて、犬や鶏を飼っているようです。


近場には真っ黒に野焼きされた土地が広がり、そこで作物を育てているようです。

焼き畑かぁ……これは農業生産が少なそうですね。



「あ、こちら我々からのお土産です」

と言って、公明コウメイくんが持ってきた包みを開き、贈り物の絹をお渡しします。


「オオ、漢人ノ布キレイ、キレイ♪」

族長さんは喜んでいるようで良かったです。

さてと、本題を切り出しますか。



「えっと、お茶や甘蔗さとうきびを取りたいので、森に入りたいんですが」

「イインジャナイ?」


あっさりと許可が出ました。

……軽いですね。


余りにも軽かったので、こんなのだと長沙の民があれだけ蛮族を恐れている理由が分からないような。


「……漢人を襲わないですよね?」

「ダイジョウブ、オ腹空イテナイナラ、オソワナイ」


……腹減ったら襲うってことですかーー?!


黄蓋さんの話を思い出します。

武陵蛮ブリョウバンの人たちは、秋や冬で米の収穫が終わると襲ってきて食料を奪うんだそうです。


鉄を持たず、武器も鎧も貧弱なため強くないので、きちんと武装した兵隊を送れば追い返せるんですが、すぐに密林に逃げ込む上に、討伐しても別の山に逃げ込むだけでキリがないとか。


……なんでそんなに食料が欲しいのか……

私は焼き畑を見ます。



……いや、そりゃこんな農業やってたら人口増えたらきついでしょ。

じゃあ稲作を教えればいいですかね。


「あの、水田を作らないんですか?稲作をすれば食料はたくさん手に入りますけど」

「……水田……。イイ土地ハ、ゼンブ、漢人ニ、トラレタゾ??」


族長さんが睨んできました。

まわりの部族の人たちにもなんか不穏な空気が広がります。



……おおおおおおうううっ?!迂闊っ?!!

そりゃ、盗賊するような漢人の豪族たちが引っ越してきたら、一番水田の作りやすいいい土地を奪いますよね……弱くて勝てるなら。


公明くんがそっと近づいてきて、剣に手をかけました。






・東夷、西戎、南蛮、北狄の順番って、中国語だと東南西北だよね、と思ったら

漢書「東西南北です」

晋書「東西南北です」

宋書「東南西北です」

現代中国語「東南西北やで」

は???

・出典 「後漢書 南蠻西南夷列傳 第七十六」

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