第6話 きなことよもぎ

 

 病状、ストレス性の胃潰瘍。要一週間の入院。その後は薬による治療。

 看護師さんと一緒に病室へ来た女医さんは、わたしの状態をしばし観察したあと、淡々とそう告げてきた。


「出血があるから大事をとって様子を見ましょう。今の症状はすぐ収まると思うけど、慢性化しちゃうと厄介だし。――それにあなた、結構疲れてるみたいだから」


 カルテから目を上げて、女医さんはベッドに横たわるわたしに視線を移した。

 三十代後半くらいだろうか。ショートカットの髪、利発そうな二重瞼。それでいて、女性らしい柔らかな雰囲気を備えている。

 胸に着いた名札には、水橋とあった。


「食欲はどう?」

「あんまりないです」

「まあ、そうよね。でも夕食後にお薬飲むから、少しだけでも胃に入れておいて」


 励ますように微笑み、水橋女医は横に立つ両親へ顔を向けた。


「娘さん、独り暮らしですか?」

「ええ、まあ……」

「おうちは近いそうですね」


 言って、ちらりとわたしを見る。


「経過を見て、どうするかはご相談して決めてください」


 それは退院後、家に戻るかどうかということだろうか。はっきり言わなかったのは、わたしたち親子の間に何かしら感じるところがあったからか……。

 観察力も鋭い。やはり聡明だ。


「はい」

「わかりました」


 父の返事を待って、母も頷いた。

 目を向けると、思っていた以上に二人が老けていることに、わたしはその時初めて気づいた。


                  ※


 両親が帰ったあと、出てきた夕食のお粥だけを啜り、薬を飲んで消灯となった。

 とはいえ昼間ずっと寝ていたせいで眠気は訪れない。暗くなった病室の天井を見上げて、とりとめないことを考える。

 仕事は大丈夫だっただろうか。大滝さんがいたから水洗いは平気だろう。明日は担当がいない。篠原さんがやることになるのだろうか。手順、わかるかな。

 一週間、入院に有給使えるかな。どうせ溜まっているのだからここで消化したい。みんなには迷惑かけるけど。

 大滝さんがいなくなったらわたしが休みの日困るな。募集はもうしてるんだろうか。手荒れするから、入った人が続くかわかんないな……。

 浮かんでくるのは日常のこと。もっと考えなくてはならないこと、重要なことがあるのではないか。

 そう思って――家に一人でいる時、今日みたいに体調を崩して倒れたら、どうなるのだろうと考えた。

 胃潰瘍ぐらいなら落ち着けば救急車も呼べるだろう。だが、もっと大きな病気――心臓病とか脳卒中とか、意識を失った時点でアウトな病だと、わたしは誰にも発見されずに死んでしまうのではなかろうか。

 以前にもこんなことは考えた。そして、今日は一段とリアルさが増して感じられる。


 ……怖い。心細くて、寂しくて、物凄く怖い。


 誰にも知られず、誰にも気づかれず、苦しみながら一人で死んでいく。

 でも……そうならざるおえない生き方を選んだのはわたしなのだ。それならば――仕方ない死に方、という気もしなくはない。


「……せめて、苦しまないのがいいなぁ」


 つい口からつぶやきが出た、その時――パーテンション越しの隣のベッドから、クスクスと笑い声が洩れてきた。


「――あなた、死んじゃうの?」


 パーテンションの向こう側から、高い少女の声が聞こえた。


「あ……ごめんなさい。起こしちゃいました?」


 小声でわたしは謝罪する。


「もともと起きてた。あなた、今日入って来た人でしょ?」

「……うん」

「ねぇ、ここ開けていい?」

「……うん、いいよ」


 少し迷ってから、わたしは了承した。

 パーテンションがゆっくりと開き、ベッドに腰掛けた、小柄なパジャマ姿の少女が表れる。


「こんばんわ」


 口元に人懐こい笑みを浮かべて、少女は挨拶した。おかっぱ頭でくりくりとした瞳。どことなくリスを思わせる娘だ。


「こんばんわ」


 挨拶を返すと、わたしは掛布団を上げ上体を起こした。


「あなた、重たい病気なの?」


 不躾に少女は訊いてきた。呆気にとられて、わたしはぼんやりと見つめる。


「――いや胃潰瘍。一週間で退院できるって」

「なーんだ」


 それが本当に残念なことであるように、少女は肩を落とした。


「死に方がどうとか言ってたから、てっきり余命数日とかかと思ったのに」

「……まあ、紛らわしかったかもしれないケドさ」


 そんなことで落胆されても。だいたい、わたしが本当に重い病気だったらどうするつもりなのだろうか。


「それじゃあ、あなたは何で入院してるの?」


 少女の軽そうな雰囲気に流され、ついついわたしも訊いてしまった。


「ここ」


 少女は人差し指で頭をつつき、それから笑った。


「……脳?」

「みたい。よくはわかんないんだけど」


 聞いて、わたしはすぐに質問したことを後悔した。

 この少女こそ重い病気なのかもしれない。あえて自分の病状を明るく話すために、あんなことを言ったのかもしれない。


「でも、本当はたいしたことないの。身内が過剰に心配してて、それで入院してるだけ」


 わたしの内心を読んだように、あっさりと少女は告げた。


「この病室、いるのはわたしともう一人、吉崎さんだけなんだ。吉崎さんベッド離れてるから、話しててもわかんないよ」

「あなた、名前は?」


 透明感を持ち、元気そうなのに妙に病室の風景に馴染む少女。その正体に、わたしは興味を持ち始めていた。

 少女ははにかみ、肩の上で切り揃えた髪を少し触った。


「よもぎ。カイエダよもぎ」

「……そう。わたしは山田きなこ」


 少女――よもぎは目を丸くして、それから可笑しそうに口元を押さえた。


「よもぎときなこって……二人ともお餅みたいだね」

「そうだね」


 よもぎの無邪気な笑みにつられて、わたしの頬も綻ぶ。


「ね、きなこさん。あなたのこと話してよ」

「わたしのこと?」

「そ。ずっと入院してるから、外にいる人の話聞きたいんだ」


〝外にいる人〟という言葉が、彼女が病人なのだということを強く意識させる。

 わたしは頷いていた。


「うん、いいよ。あんまり面白くはないかもだけど」

「面白いよ。――だって人間ってね、どんな人だってその人の人生を順に話していけば、他にはない唯一無二の物語になるでしょ? それがまったくつまらない人なんて、そうそういないよ」

「……うん、そうかもね」

「でしょ? だから大丈夫。聞かせて、きなこさんのこと」


 言い切った言葉には、わたしを信じ込ませる不思議な力があった。

 山田きなこの物語。わたしだけが歩んできた、唯一無二の人生の話。


「そうね。じゃあまずは、わたしが産まれた時のことなんだけど――」

 記憶を遡りながら、わたしはゆっくりと語り始めた。


                  ※


 出産時の体重は二三〇〇グラム。平均の赤ちゃんよりも大分小さくて心配されたが、そこからすくすくと育ったらしい。

 幼少期は外に出るよりも家が好き。だからといって、内気な子供というワケでもなかった。多くはなかったが仲の良い友達もいて、家に遊びに行くこともあった。

 でも基本的には一人でいるのが好き。お人形さんごっこ、紙に絵を描いたり、テレビアニメや絵本で見た物語を参考に、自分で話を作って遊んだ。

 その頃にはもう、わたしの生き方は決まっていたのかもしれない。

 小学生の高学年になって、週刊漫画誌を買うようになり漫画への依存が増した。毎週紙上で繰り広げられるエンターテイメントは、他のどんなものよりもわたしの心を掴んで離さなかった。

 中学に上がり、漫画部がなかったので代わりにイラスト部に入った。部員の友達から好きな漫画の男性キャラクターを聞いて、何で人気があるのかを分析したりした。

 高校進学と同時に、父から運動部に入るよう命令が下された。机に噛り付き、勉強するでもなく絵を描き漫画を読むわたしの姿が、元々体育会系の彼には異常に映ったのだ。

 父に逆らう勇気はなかったが学校の部活に入る気もなかった。運動部の人たちは多かれ少なかれ大会などの目標があって活動している。そんな中に、たいしてやる気もないわたしが入るのは不純な気がしたし、気後れもあったのだ。

 結局、弟がやっていたテコンドーの道場に通うことで父との折り合いをつけた。週四日、一回の稽古は二時間で、中学の頃ほど絵を描く時間を取れなくなったが、今までロクに身体を動かしてこなかったわたしには新鮮で、発見や刺激もあった。 

 格闘技の身体の動かし方、しなやかな蹴りの出し方などは戦闘シーンを描く上での参考になったし、なんだかんだで三年間続けて、関東地区の大会では(競技人口が少ないせいもあり)入賞もした。

 大学生になってからは念願の漫画研究サークルに入り、投稿することを目的とした作品を初めて描き上げた。〝漫画を描く〟友達も、ここで初めてできたのだ。

 コミケに参加したり、学祭で同人誌を販売したり、賞に投稿して落選したり――忙しかったけれど、人生で一番充実していた時期はあっという間に過ぎていった。

 一緒にいた仲間たちは漫画を描くことから離れ、それぞれ別の道に進んでいった。

 わたしは漫画に残っていた。それは夢中で楽しかった時間が、ずっと続けばいいと、続くものだと思っていたから。

 ……本心を言えば、漫画から離れた友達に対して裏切られたという気持ちもある。サークルに入った動機は様々。それが当たり前――なのにわたしは皆が皆、漫画家として成功することを目標にしているのだと信じていた。

 身勝手で自分本位。そして、それは今になっても変わっていない。

 年齢ばかり重ねていって――いつまで経っても大人になれない、しようもないヤツのままだ。


                  ※


「……それでも諦められなくて、続けてきたら行き詰って……で、ストレスで胃潰瘍発症して、ここに担ぎ込まれたってワケ」 

 苦笑混じりに、わたしは話終えた。

 こうして言葉にしてみると滑稽なものだ。子供じみた夢を追う若者、傍から見ればわたしはそうとしか映らないろう。

 そのクセ完全に開き直ることもできていない。心のどこかでいつも、結果を出せない自分に対して負い目を感じている。

 まったく、どこまでいっても中途半端だ。


「ふーん」


 遠い目をして、よもぎはさしたる感慨もなさそうにつぶやいた。


「まあまあ面白かったよ。きなこさんの半生」

 

 ……まあまあ、か。

 わたしは苦笑を深める。彼女が期待した及第点には届いたのだろうか。


「でさ、きなこさん。きなこさんはそれでも、漫画家を目指すの?」

「どうかな、わかんなくなってきたけど……」


 視線を手元に移し、毛布を掴んだ指を見つめる。

 まだ、描けるのだろうか。わたしにできるのだろうか。

 先の見えない道を、これからも進んでいくことが。


「視野が狭いんじゃないかな、きなこさん」


 言葉に詰まったわたしへ、よもぎはこともなげにそう声をかけた。


「描く題材、本当は周りにいくらでもあるハズなのに、きなこさんは自分で絞ってる気がする。もったいないよ」

「でも、わたしが描きたいのは……」

「広大な世界観を持った、濃ゆいストーリー漫画でしょ? でもそういうのって、SFとかファンタジーとかのジャンルに限らず、登場する人同士が繋がる中で生まれるものじゃない? 人間一人一人の人生が、その辺の名作小説にも勝るように」

「それは……そうかも、だけど」

「世界を救うとか、好きな人を助けるとか――そういうのじゃなくてもあるよ、きっと。傍から見れば小さいことかもしれないけど、独自の世界観を持っていて、深い話の漫画って」

「だけど……だけどそれは、わたしには描けないよ」

「きなこさんは漫画家になりたくないの?」


 顔を上げて、よもぎを見る。

 笑みを消し、よもぎは真剣な表情でわたしを見つめていた。


「どうしてもなりたいのなら、色んな方法、試してみるべきじゃないの? 自分の描きたいもので、求められているものを描く努力。きなこさんは頑張ってきたのかもしれないけど、苦しんできたのかもしれないけど……それでも、逃げてると思う。否定されてるのを拒絶して、自分の願望にしがみついて――いつか、認められると信じるフリをして、認められるための努力を放棄している」

「――何で」


 あんたにそんなこと言われなきゃならないの。言いかけて、わたしは唇を噛んだ。

 胸を貫く痛みがある。それは図星を言い当てられた証拠だった。

 本当は、とっくに気づいていた。でもはっきりさせるのが嫌で、自分で自分をごまかしていた。

 譲れない信念があるフリをして、自分は精一杯やってると言い訳して――〝全部〟を曝け出すことから逃げていた。

 だって、もしそれでダメだったら……本当に、わたしには何もなくなってしまうから。


「……そんなこと、わかるの?」


 顔を伏せて、わたしは低い声でつぶやいた。


「わかるよ、きなこさん。わたしと同じだから」


 よもぎの声は穏やかだった。わたしは震える指を押さえ、強く目を瞑る。


「ままならない現実ってさ、認めたくないよね。わたしも目を背けてた。信じたくなかった。……でも、そろそろちゃんと向き合わなきゃ」


 立ち上がる気配があった。わたしはまだ動けない。


「ごめんね、言いたいこと言って。でもわたし応援してるよ。いつかきなこさんの漫画、読んでみたい」


 よもぎはわたしを見つめているようだったが、反応しないわたしに諦めたのか、やがて歩き出した。

 スリッパが床を擦る音が耳に届く。


「話聞けて良かった。――またね」


 ドアが開き、そして閉じた。


「………………っ」


 そこで気づく。よもぎはわたしの隣のベッドではなかったのか。なら、何で病室を出て行った?

 衝動に突き動かされ、わたしはベッドを降りて部屋を出た。暗い病院の廊下。よもぎの姿はない。わたしは当てもなく走る。

 視界に白い人影が横切った。


「……よもぎちゃん?」


 角を曲がる。窓から射した月の光が廊下を照らす。先に人の姿はない。


「………」


 数歩歩き、途方に暮れたところで息苦しくなり、近くの病室のドアに体重を預けた。

 まだ身体の感覚がおかしい。大丈夫だ。深く呼吸を繰り返して、しばらくじっとしていた。

 落ち着いたところで顔を上げると、病室のネームプレートが目に入る。個室だ。


「……っ!」


〝海江田よもぎ〟。心臓を掴まれたような気分になって、ドアに手をかける。開かない。ドアには窓があり、中を覗くことができた。


「…………」


 病室内には巨大な医療機具が並び、ベッドの周りを取り囲んでいた。心音を計測する緑色の光が、時折部屋の中を走る。

 ベッドの上には幾本もの管を挿された人が横たわっていた。背後から月明りが射し、その顔が目に映る。


「……あ」


 おかっぱ頭、前で切り揃えた髪。クリクリとした瞳は閉じられていたが――それは間違いようもなく、さっきまでわたしが話していた少女だった。


                 ※


「ありがとうございました」


 蕾の膨らんだ桜並木が両沿いに立つ、病院玄関前。付き添いにやってきた母と一緒に頭を下げると、水橋女医は表情を緩めた。


「順調に回復してよかったわ。でも無理は禁物よ。お薬も、一ヵ月は飲み続けてね」

「はい」

「脂っこい食事やお酒もほどほどに。胃の調子が悪い時は繊維質のものも控えて」


 ハイボールが好き、ということは診察の時に雑談がてら話している。やんわりと釘を刺され、わたしは苦笑した。


「本当にお世話になりまして」


 もう一度、母が頭を下げる。わたしもそれに倣った。


「次来る時はお見舞いで。……本当は、退院してくれていた方が嬉しいけど」


 顔を上げ、わたしが言った言葉に水橋女医は目を丸くし、それから小さく頷き、微笑を浮かべた。


「ええ、お願い。あの娘もきっと喜ぶから」


 母は、そんなわたしたちを不思議そうに眺めていた。


 入院当日の夜以来、よもぎが訪ねてくることはなかった。わたしの隣のベッドは空いていて、彼女が来た翌日、一時帰宅をしていたという年配の女性が入ってきた。

 検診の際、わたしはそれとなく水橋女医によもぎのことを訊いてみた。


「海江田さん? うん、事故で入院してて、うちの病院に来てからずっと眠ったままなの。……親族の方は、よくいらっしゃるみたいだけど」


 歯切れ悪く言って、水橋女医は表情に翳を落とした。

 確証はなかったが、彼女の反応からよもぎの状態が良いものではないことは何となくわかった。

 ずっと眠ったまま。よもぎは自分の病気を頭の病気だと言っていた。


「でも、どうして彼女のことを?」

「……いえ、ちょっと気になって」


 水橋女医は興味深そうにわたしを見つめたが、それ以上訊いてはこなかった。

 よもぎがわたしの前に現れたことを知っているワケもないだろうが、察しのいい彼女は何かに気付いたのかもしれない。


「よかったら顔見に行ってあげて。人と話すことが好きだったらしいから、きっと喜ぶわ」


 翌日からわたしはよもぎの病室を訪ねた。といっても部屋に入るのは親族の了承が必要なので、病室のドアの窓から眠る彼女を眺めていただけだが。

 よもぎはいつ行っても変わらず、ただ目を閉じたまま静かに呼吸し、心音を刻み、点滴から栄養を補給していた。

 植物状態、というものなのか。治る見込みがあるのかは聞かなかった。他人であるわたしがそれを知るのはのは憚られたし、知るのが怖くもあった。

 ……もし、仮に目を覚ます可能性がないのなら、なぜ彼女は生き続けているのだろう。ずっと眠り続るとしても、それでも彼女は生を望むのだろうか。


〝ままならない現実ってさ、認めたくないよね。わたしも目を背けてた。信じたくなかった。……でも、そろそろちゃんと向き合わなきゃ――〟


 わたしの前に現れた彼女は、どういうつもりでそんなことを言ったのだろう。


「ねぇ、あなたは何で、わたしの前に現れたの?」


 窓越し、よもぎに話しかける。例え意識があってもここからじゃ聞こえるハズはない。

 ――でも、よもぎにわたしの声は届いている。確かに聞いている。

 あの時、わたしの枕元でわたしの話を聞いていたように、呼びかけるわたしの声に耳を澄ましている。


「前に進むって……あなたにとって前に進むって、どういうことなの?」


 返事はない。わたしはよもぎを見つめる。静脈が浮き出た首元。白んだ顔。蒲団越し、微かに上下する胸。


「よもぎはさ、わたしとよもぎが同じだって言ったよね。それはあなたも、逃げてるってことなの?」


 何から? 何で? 


 夢に逃げて現実から目を逸らしていたわたし。戦っているフリをして、戦うことを放棄していたわたし。

 よもぎ。あなたも戦おうとしなかったの?

 それは、何と?


 退院前の最終日も、わたしはよもぎの病室に来た。

 親族が見舞う時間は何度か来ているうちに把握できたので、重ならないよう調整してある。今の時間ならまだ大丈夫。

 ドアの前に立ち、窓からよもぎの顔を覗く。今日もいつも通り、楽そうでも辛そうでもない無表情。それがわたしを安心させ、一方で絶望させる。

 ――それでも、じっと目を向けて、わたしは彼女に語りかけた。


 ……ねぇ、よもぎ。わたし、明日退院するよ。仕事に戻って、また野菜加工して、パートさんたちとやり合って――漫画、描いてくよ。

 いつまで続けられるかなんてわからないし、先のこと考えるとすごく怖い。……だけどね、わたしがやれる生き方って、きっとこの道しかないんだ。もし他に何か別の道があったとしても、わたしは結局、この道に戻ってくると思う。

 だからね、やれることは全部やってみるよ。よもぎに言われたみたいに、求められてるものと描きたいもの、重なる部分を探して出して、一作完成させてみせる。

 面白いかはわからない。イメージしたものを描けるかもわからない。でもさ、一作は絶対描き切ってみせるから。だからよもぎ、それ読んでよ。

 あの時みたいに夜でもいい。夢の中でも何でもいい。わたしあなたともう一度会って、あなたの感想が聞きたいんだ。

 あなたの言葉のおかげで、まだ自分を信じられそうだから――。


 ……そろそろ、よもぎの親族が来る時間だ。

 目元に浮かんだ雫を拭い、わたしは笑顔を浮かべ、手を振った。


「またね。……それから、ありがとう」


 きっと気のせいだったのだろう。

 それでも一瞬、よもぎが微かに笑った気がした。


                  ※


 一週間ぶり、店裏の従業員入り口は少し他人行儀な感じがした。だが制服に着替えて歩いて行くうち、徐々に空気に馴染んでいく。

 大丈夫。何も変わっていない。わたしには加工していく野菜があり、こなすべき仕事がある。


「おはようございます!」

「あーっ、きなこちゃん! お帰り~」


 作業机の前で手を動かしていた御手洗さんが、わたしに気づき高い声をあげる。

 隣の内海さん、向かいの田畑さんも顔をこちらへ向け、フルーツの人たちも笑顔を向けてくる。


「少し痩せたんじゃない。大丈夫?」

「ええ。すみません、ご心配おかけして」

「労基の申請はしたの?」


 渋い表情で田畑さんが訊いてくる。


「はい、一応」

「そ。無理はするんじゃないよ。また倒れられちゃあ、人手不足でたまんないんだから」

「えへへ、はい」


 ぶっきらぼうに言う田畑さんを、内海さんがまったく、という目で睨む。御手洗さんは交互に二人へ視線を走らせ、困ったような笑みを浮かべている。


 ……うん、いつも通りだ。


「あ、山田さん、おはよう!」


 作業場に入って来た篠原さんが嬉しそうに挨拶してきた。わたしも頭を下げる。


「おはようございます!」

「もう大丈夫?」

「はい。しっかり休んだので」

「そう。でも無理はしないでね。仕事の替えは利いても、身体は替えられないんだから」

「はい」


 言葉は田畑さんと対照的だが、そこに込められた意味は同じだった。ニヤリとした内海さんに、田畑さんはバツが悪そうに視線を逸らす。


「ああ、それと今日からグロッサリーから移ってきた人がいて。大滝さんの代わりになってくれるらしいからあとで水洗い教えてあげてくれる? 今、店出ししてもらってるから」

「了解です!」


 応えると、わたしはスウィングドアを開けて店へ出た。

 開店前の売り場はカゴ車やダンボールがあちこちに散乱している。早急に商品を棚に並べ、散らかったそれらを片づけなければならない。一日でもっとも忙しい時間帯だ。

 他部門の人に挨拶しながら野菜売り場の区画まで早足で行く。日本食の冷蔵ケースの隣、パック野菜のコーナーで、ビニール袋詰めのもやしを並べている男性がいた。

 わたしは声をかける。


「おはようございます!」

「……っ、あ、おはようっす」


 やや半開きの目を向け、男性は一礼した。確かグロッサリーで元々遅番だった人だ。早朝のこの時間にはまだ慣れていないのだろう。


「山田きなこです。水洗い担当しているので、のちほど教えますね」

「ああ、お願いします。水洗いっすね。……俺、橘京介っす」


 橘さんは、薄く笑って頷いた。

 歳はわたしとそう変わらないだろう。ダルそうな顔は元々のものか。でも声は出てるし、不真面目そうでもない。

 ――ふと、わたしは考える。この人も何かしらのストーリーを経てここにいるのだ。偶然とか必然とか、見えない糸に引っ張られたりして、この人なりの人生を歩んでここにいる。

 それは他にない、この人だけの物語なのだ――と。


「……あの」


 じっ、と見つめるわたしにやや怪訝な表情を浮かべ、橘さんはつぶやいた。


「――それじゃ、もやし出したらこっちへ来てくださいね」


 微笑して、わたしは葉菜の出ている棚の方へ足を向けた。

 求められて、そしてわたしが描きたいモノ。

 その形の欠片が、朧気ながらに見えてきた気がしていた。


                  ※


「――そんじゃ、きなこの退院祝いとあたしの婚約祝いにっ、かんぱーい!」

「「かんぱーい!!」」


 桜木町、野毛。みとみらいとは駅を挟んで反対側にある、昭和の匂い香る呑み屋街。

 その界隈、入り口近くにある立ち呑み屋で、左から凛子、あゆ実、わたしと並んだ三人は本日最初のビールに口をつけた。


「あ~、これでやっと仕事辞められるわぁ~!」

「辞めるの、あんた?」


 一口で半分を干し、心から嬉しそうに叫んだ凛子にあゆ実が訊く。意外そうな顔だ。


「うん。夫婦そろって同じ職場って、ちょっと鬱陶しいじゃない。それにうちの職場って離婚率高いのよ。一人身多い中で結婚相手がいるとか、居づらそうでしょ?」

「旦那さんを想ってってこと? あんたが楽になりたいだけじゃないの」


 揶揄するようにあゆ実は言ったが、凛子の表情は余裕である。


「まね。実際、副社長の息子だからそうそう絡まれることもないだろうし」

「うまいことやったわねぇ」

「純愛よ、純愛。たまたま相手が玉の輿だったってだけ」


 カワイ子ぶるようウィンクした凛子に、あゆ実はへっ、と鼻を鳴らした。


「まあでも専業主婦ってのも退屈そうだしぃ、しばらくしたらきなこのところででもパートで雇ってもらおうかな~?」

「歓迎するよ、いつでも人不足だから」


 本心からわたしは言った。

 篠原さん、最近目の下のクマがまた濃くなってたし。まあ本当に必要なのは正社員なのだろうが。


「その時はよろしくっ。あ~、それにしても式場の手配とか招待状とか色々メンド―よねぇ。親戚関係にも、あたしほとんど連絡取ってないから」


 愚痴りつつも凛子の表情は浮いている。わかりやすい性格だ。

 あゆ実はうんざりした目で見ていたが、気を取り直すようビールを呑んで、わたしの方へ顔を向けた。


「きなこは? 身体、もう平気なの?」

「うん。もともとストレスって話だったし。そうじゃなきゃお酒呑まないよ」

「あんた呑兵衛だからねぇ」

「そう。だから呑まないと余計にストレスたまっちゃうの」

「ほどほどにしなさいよ」

「すいまーせん、ハイボールと串盛り! 塩で!」


 あゆ実の忠告を聞き終える前に、一杯目を呑み終えたわたしは追加注文する。カウンターに立つ店員が、はいよっ! と威勢よく応えた。


「塩でいいよね?」

「あたしはいいわよぉ~」

「まったく……でも、大丈夫そうね」


 やれやれと肩をすくめ、しかし安堵したようにあゆ実はつぶやく。えへへ、とごまかすよう笑って、わたしは呑み屋のカウンター内を覗いた。

 チューハイ用のなのか、焼酎を三分の一ほど入れたコップが九つ並び、その横には割モノのドリンクが出るサーバーがある。この店は注文した品が来ると同時に会計を済ますシステムなので、酒類を置いた棚の近くにお釣り用の小銭が入った仕切りボックスが置かれている。


「あゆ実、昔ここでバイトしてたんだよね」

「そうね。高校生だったから、土日だけだったけど」


 懐かしむよう目を細め、あゆ実はビールに口をつける。


「駅前のビルの上で馬券買えるからさ。そこで勝ったり負けたりした人が来て、自慢したり、愚痴ったりしながらお酒呑んで……イロイロな話聞けて面白かったよ」


 そういえばあゆ実の描く漫画には酒屋を舞台にしたものが多かった。屋台とかでごちゃごちゃした小物が多く、妙にリアリティがあり、何てことない日常会話を描いた話だ。

 女子大生にしては渋い内容だったが、それはここで働いた経験によるものか。


「あゆ実って、その頃にはもう接客業志望だったの?」


 お通しの鮭とほうれん草の焼き物に箸をつけながら、凛子が訊く。


「全然。あの頃はただバイトがしたくて、帰り道がこの通りだったから募集してる張り紙見つけて応募したの。そしたら受かって。だから、業種は何でもよかったんだ。……でもまあ、ここで働いている内に人を相手に一喜一憂する仕事は面白いなぁ、って思ったかも」


 今はそんな余裕ないけどね。付け加えてあゆ実は苦笑した。


「大学入ってシャレオツなカフェにしたのは、彼氏目当てですか?」

「ま、それもあるケド? でも頼りないのばっかだったからなぁ。わたしがバイトリーダーやってたし」

「たくましいですからなぁ、あゆ美さんはぁ」


 茶化す凛子に、あゆ実はふっと流し目を寄越す。


「あんたと違って、媚びないからね」

「そうそう、あたしぃナヨいから媚びないと生きていけないのぉ~」


 大袈裟に身をくねらせ、凛子は両頬を掌で押さえる。


「今日のあんたは無敵ね……」

「まぁねぇ。幸せってぇ、やっぱサイキョーだよねぇ?」


 浮かれる凛子。あゆ美は眉間を指で挟み、疲れたようにため息をつく。


「そうね……あんた見てると、何が正しいのかわかんなくなるわ」


 ポツリとつぶやいて、あゆ実はグレープフルーツ・サワーを頼んだ。


「あ、あたしもビールお代り!」

「あいよっ!」


 凛子の注文に大将が応じ、串盛りの塩を差し出してくる。会計はあゆ実が払った。細かい清算はあとでいい。それぐらいの仲だ。


「あんまり呑み過ぎないでね。ここ、まだスタート地点なんだから」

「わかってるって。野毛はあゆ実さんのシマなんでしょ? 今日はナビ、期待してるゼ!」

「してるゼ!」


 揃って告げるわたしと凛子に、あゆ実はふっ、と笑みを返した。


 一件目は立ち呑み屋。二件目は海鮮鍋屋。そして三件目は、落ち着いた風情の純和風居酒屋。

 個室に入るとそれぞれが好みの日本酒(青森の酒が多い店だ)とおすすめの焼き魚を人数分頼み、わたしたちはくつろいだ。


「いあーいいっすねぇ、こーいう感じもぉっ!」


 凛子はすっかり出来上がっている。張り上げた声の大きさを窘めるように、あゆ実は口元に指を立てた。


「学生じゃないんだから、アホみたいな大声出すのやめなさい」

「あははっ、それもそうねっ!」


 変わらぬ声量で凛子はケタケタと笑う。

 眉間に皺を寄せ、それからあゆ実は首のうしろを軽く撫でた。


「肩こり?」

「ん。ここんとこ、ちょっと張っててね」

「あんた隠れ巨乳だからねぇ。乳の重量で引っ張られるのよぅ」


 おっさんみたいなセクハラを言いつつ、凛子は座敷上のテーブルに頬杖を着く。


「そのせいでもないわよ、最近からだし」

「やっぱり、仕事?」


 店員が持ってきた日本酒を舐め、わたしは訊いた。


「うん……そうかもね」


 ちょっと疲れてるのかな、と、あゆ実は苦笑を浮かべた。


「社員になって、異動して、目の前のことを夢中で片づけてきて……それでも次から次に問題は起こるし、やらなきゃいけないことは増えてく。どうやっていけばいいのか、どうすればよかったのかって……最近、ちょっと考えるよ」

「暗いわねぇ。そんなの結婚でもして、辞めちゃえばいいじゃないっ」


 あっけらかんと言う凛子を、あゆ実はむすっとした表情で睨んだ。


「相手いないっつーの。それに、あんたみたいに短絡的な問題じゃないのよ。わたしの場合」

「なぁんかひどいこと言われてる気がするなぁ~」

「それ正解よ」


 軽口を叩くもあゆ実の声には今ひとつ元気がない。凛子もおや、と首を傾げた。


「……まあ、結婚が一つのゴールってのはありかもね。それで人生落ち着くワケじゃないし、むしろ忙しくなったりするかもしれないけど……一人じゃないって、心強いし」


 あゆ実らしくない言葉だった。わたしと凛子はじっと視線を送る。


「……ああ、ごめん。ちょっと言ってみただけ」


 首を振って、凛子は日本酒に口をつけた。


「煮詰まってるのかな、少し。でも、わたしは仕事辞めたいワケじゃないから」

「わかるかも、それ」


 店員が焼き魚を持ってくる。各々の前に置いて去るのを待って、わたしは続けた。


「わたしもさ、漫画家目指してるっていっても、続けてきたことがそのまま実力になっているかはわかんないし……絵は描くほどに上手くなるっていうけど、それも本当にうまい人と比べたら萎えちゃうし。ネタやストーリーは時代遅れになってくし、新しい発想も出なくなってくる」


 わたしの心を不安で覆い、身体まで病ませた原因。それは見える恐怖ではなく、見えないからこそ湧いてくる恐怖。霧の中を進むような日々に、怯えていたからだろう。

 それは今も変らない。立ち直っても、心の隅からは絶えず灰色のガスが噴き出している。

 わたしが自分を信じられなくなれば、このガスは再びわたしを蝕むだろう。


「先が見えない毎日ってさ、どこまで続くのかって考えだすと怖くなるし、わかりやすい目印が欲しくなるよね。学校の入学式や卒業式みたいに。……でも、もうわたしたちにそういう共通イベントがあるとしたら、結婚ぐらいしかないんだよね」


 凛子がわたしを見つめてきた。笑顔で頷く。彼女を祝う気持ちは本当だ。羨ましいという思いもある。

 でも、それは〝結婚自体〟をではなく、一つの節目を迎えられたことを羨んでいるのだ。


「何か、こーわかりやすく前に進んでるぜっ! っていうイベントが欲しいよねぇ。モチベーション保つためにもさ」


 しんみりした場を和ますように、わたしはチャラけてそんなことを言ってみた。んーと凛子が首を捻る。


「きなこの場合、商業誌デビュー? あゆ実は自分の店を持つこと?」

「まあ、ずいぶん先になるだろうけど……」


 つぶやいて、あゆ実は苦笑を深めた。


「でも、そうだよね。こんなこと誰だって思うよね。……わたしだけじゃ、ないんだよね」

「そうだと思いたいよ。でないとわたし、また病みそう」

「なになにっ!? よくわかんないんだけどっ!!」


 ぐぃ、と前に出してきた凛子の赤ら顔の額を、向かいのあゆ実が指で弾いた。


「幸せなあんたにはわかんないだろうし、わかんない方がいいのよ」

「えー何ソレ!? 疎外感~!!」


 愚図る凛子とあしらうあゆ実。

 何度も見てきた光景を肴に、わたしは日本酒を呷ると、心地よい酔いに浸った。


                  ※


 電車から降り、駅のホームを下る。時刻は午後一〇時半。まばらに散らばる人の群れに混じって、改札口から外に出る。

 湿っぽい夜風に当たりながら橋の上を歩く。駅から一緒に来た人もこの辺でほとんどいなくなる。アパート近くを流れる、境川の上だ。

 足を止め、川の流れに目を向ける。

 ここのところ雨は降っていないので水量も少なく穏やかなものだ。去年の台風のあとは、両端のコンクリートブロック壁から溢れそうなほどに嵩が増していた。梅雨に入ればその時ほどではなくても、水の丈は上がってくるだろう。


「――何考えてるの?」


 背後からの声。振り向かず、わたしはその声音を確かめるように目を瞑る。


「こんな浅い川に飛び込んでも、どうにもなりゃしないよ?」


 聞き覚えのある彼女の声。聞いたハズのない彼女の声。

 わたしは目を開けて、小さく頭を振った。


「そんなこと考えちゃいないよ。大丈夫、わたし、描きたいこと見つけたから」

「そっか」


 静かなトーンで声が応える。わたしは視線を夜空に向けた。

 雲の合間で星が瞬く。東京の星の光は薄い。それでも、見上げれば輝きはある。


「最近ね、落ち込んでたんだ。描きたいって気持ちも前に比べて薄くなって。……どうしてこうなったんだ、どうしてこんなに苦しいんだって、そんなことばっかり考えてさ……やっぱり、わたしは間違えてたんじゃないかって」

 

 父親に言われたこと。気にしてないつもりでいても、どこかで引っかかっていた。

 あの人の言うことは世間の常識で、それに逆らうわたしはどうしようもなく小さく弱い存在だった。

 同時に結果を出せない自分を責めてもいた。もっとできる、まだやれるはずなのに、物言わぬ無力感に屈服される。

 否定され、打ちのめされて――自分の進んでいる道が、信じられなくなっていた。


「そう」


 声が言う。わたしはうっすらと見える北斗七星を指で繋いだ。


「でもね、久しぶりにペン持たなくなって、一週間何もやらずにぼーっとして……わかったんだ。やっぱり、わたしにはこーいう生き方しかできないな、って」


 もし人生がやり直せるとして、子供の頃に戻り、自分のやりたいことを選択していって――それでも辿り着く場所は、漫画家を目指す以外になかっただろう。今の場所しかなかっただろう。

 そうでない生き方など想像もできなかった。


「だから、ね。もう一度頑張ることにした。意地捨てて、なりふり構わず、自分の描ける中で求められる物を見つける。苦手だからってやらないのは逃げだよね。あんたの言う通り、わたしは逃げていたんだ。自分の全部を見せて、それでも否定されてしまうことに怯えてた」


 それでなりたいものになろうなんて、甘えだ。

 わたしには圧倒的な才能はない。だから自分の持てるものすべてを武器に変えて――それでも敵わなかったら、磨き続けて、考え続けて、突破するまでやるしかない。

 それが本当に叶えたい夢なら。


「もうすぐ描き終わる。そしたら持ってくから、読んでよ。あんたぐらいの歳の子が読んで、面白いもんかはわからないけどさ。……でも、他人の人生の話とか好きなんでしょ? だったら楽しめると思うから――」


 言って、わたしは振り向いた。

 川沿いの建物の明りや街灯が照らす橋の上。いるのはわたし一人だ。


「………………」


 何もない空間をしばらく見つめ、それから深呼吸して、わたしは歩きだした。

 もう、声が聞こえてくることはなかった。

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