第5話 きなこと同僚


 樋野さんが辞めた。

 本人が心から望んだ退職ではないようだったが、武田さんや周りに迷惑をかけ続け、これ以上はいられないと思ったようだった。


「店長、挨拶に来た樋野さんの顔ロクに見もしませんでしたよ」

「ああ、あの人いかにも昭和のサラリーマン代表って感じだからねぇ」


 直後に、八重樫さんと武田さんがそんな会話をしているのを耳に挟んだ。

 その武田さんも、三ヵ月間怒りっぱなしだったストレスと人手不足の激務で帯状疱疹を発症して入院。精密検査で二週間は出勤して来れないとのことだった。

 さすがに本社の人事も――ウチの店に元々人手が少ないこともあって――急遽もう一人、新しい社員を回してきた。

 三木さんと入れ替わるようにやってきたその社員――篠原さんは、青果にはめずらしい女性社員で、歳はわたしの一つ上。性格はやや控えめで穏やか。八重樫さんが、「いい人そうでよかったね」と評していた。

 担当は野菜。これによって今井さんがフルーツ(フルーツ専科の人がいなくなったため)、古林さんがフルーツ兼野菜となって、またイロイロ修正しなければならない事が増えたようだった。

 どうもフルーツ専科の人は他店を見てもあまりあまってはいないらしい。

 この変化に、田畑さんは特にコメントせず、御手洗さんは中庸的な笑み浮かべ、唐澤さんはクールなままで、内海さんは「歳近いんだから、篠原さん守ってやらないとダメよ」と、わたしに発破をかけた。

 言葉の裏には田畑さんの存在があるようで、わたしは苦笑を返すに留めたが。


 ……ともあれ。人の頭数だけは最低限揃えて、新体制がスタートした。うまく機能するには、まだしばらく時間がかかりそうだが。


                  ※


「――で、樋野さん辞めたあと包丁を習いに料理教室通うことにしたらしくて。うまくなったらまた戻ってきますって、意気込んでましたよ」


 日曜日、作業場はわたしと緒方ちゃんの二人だ。

 もうすぐ上がりという時間になって、緒方ちゃんは小さな箒とチリ取りで床を掃きつつ、時間を潰すように話しかけてきた。


「……なんて―か、アレだけ怒られてまだそう言えるガッツは凄いね」


 ネギを切りながら、わたしは応える。


「恐ろしいですよ、あのメンタル。アイルビーバックって、ターミネーターじゃん。樋野さん、武田さん仕留めに未来から送られてきたんじゃないですか?」

「やり方が湾曲すぎるでしょ」


 相手を怒らせて肉体に異常が出るまで追い詰めてくとか。タチが悪く効率も悪い。

 咳払いして、わたしは緒方ちゃんの方を見る。


「武田さんだって、ホントは怒りたくなかったと思うよ。だいぶ年配の人だし。だから余計にメンタルに負荷かけちゃったんじゃない?」

「でしょうねぇ。これでフルーツも古林さんが仕事覚えるまでまたガタガタだし。今井さんは、フルーツ一本に戻れてほっとしてたケド」

「篠原さん、野菜だったからね」


 野菜も社員の数は半人分減ったがフルーツの情勢は一層厳しくなった。青果全体で社員マイナ1、樋野さんが辞めたから、新たなパートも絶賛募集中だ。


「今度はまともな人が入って来てくれるといいけどなぁ~」


 ぼやきながら腕時計に目をやると、緒方ちゃんはチリ取りに溜まった野菜カスや埃をゴミ箱に捨てた。

 

                  ※


 午後三時五三分。売り場を回り冷蔵棚の温度チェック表に記入をし、漏れがないことを確かめてバックヤードに戻る。

 今日は午後五時まで残る田畑さんが休みで、他のパートさんは三時半までに上がっている。遅番は篠原さんだ。


「お疲れ、山田さん」

「あ、お疲れさまです」


 作業場の入り口でカートを押した今井さんと擦れ違う。間もなくわたしも上がるのでその挨拶だ。軽く頭を下げて中に入る。

 今日仕上げた野菜の在庫を数え、水洗い場のあるべき場所にタワシや包丁、まな板などが置かれていることを確認する。不備がないことに満足し、時間まで軽く掃き掃除をやっていると、ファイルを手に持った篠原さんが作業場に入ってきた。


「お疲れさま、山田さん。もう上がりだよね?」

「あ、はい。」

「水洗いの在庫どう?」

「サニーレタスとセロリの束がないです。暖かくなると売れてきますねぇ。わりに質もいいですし」

「そっかー。セロリは四ケースにしてもいいかな。サニーは、売り場あるけど三ケースぐらい?」

「そうですね」


 垂れ目がちな瞳を向けて、篠原さんは微笑んだ。

 この時間なので疲れは見えるが、パートさんからの重圧に参っている様子はまだない。ポニーテールの結び目に手をやり、それから作業机にファイルを置いて、思い出したように何か書き込む。

 午後三時五七分。集めた屑ゴミをゴミ箱に捨て、わたしは箒とチリ取りを戻した。


「どうです、馴れました?」

「……ん? ああ、そうね。色々間違うことも多いけど、何とかやっていけそう」


 穏やかな口調で篠原さんは答える。新しく来た社員なら避けて通れない、田畑さんとの衝突もまだ経験していないようだ。わたしも様子を窺っているが、皮肉のない彼女の性格に田畑さんも多少毒気を抜かれているのかもしれない。

 ……それでも、ずっと平和なままでいられるとは思わないが。


「そうですか。よかったです」


 思うところを覆い隠した笑みを浮かべわたしは言う。一パートである以上、余計なことは言わない。それが自分の身を守ることでもある。


「うん。山田さんにも色々迷惑かけるかもだけど、よろしくお願いします」

「いえいえ、こちらこそ」


 一礼したところでチャイムが鳴った。終業時間。

 わたしはお疲れ様です、ともう一度頭を下げて作業場を出た。


 電車に揺られながらふと考える。わたしよりも一つ歳上のあの人は、どんな人生を送ってきたのだろうか。

 何か叶えたい夢はあったのだろうか。そんなものはなくて、普通に就職して今に至るのだろうか。

 子供連れの婦人。固く目を閉じたサラリーマン。友人と雑談を交わす女子高生。ウォークマンを聞く青年――電車の中には様々な人がいて、みんながみんな、各々の自分の人生を歩んでいる。

 その中の何人が夢を追おうとするのだろうか。何人が、夢を叶えられるのだろうか……。

 目を掌に落とす。送った漫画の入選発表は来週だった。描き上げた時の手応えに比べ、コピーを改めて見返すと粗さが目立った。


 ……それでも、今のわたしには精一杯の出来。


 つまらなくはない。ちゃんと読めば、面白いと信じたい。

 期待と、それ以上に膨らむ不安。落ち着かない気分を抱えて、わたしは向かいの窓から覗く陽の傾いた空を見上げた。


                  ※


 ちょっとした油断。それが隙となりミスに繋がり、大きなクレームに発展することがある。

 バーコードの貼り間違い一つで、お客さま次第ではお詫びに訪問することになったり手痛いお叱りを受けたりする。武田さんがあれほど口うるさく樋野さんを怒ったのも、それを防ぐためなのだ。

 そしてそれは新人でなくても――慣れてるゆえに、慢心から誤りを起こしてしまう場合もある。

 どれだけのベテランであってもミスがない人はいない。失敗する時は、気をつけていても失敗するのだ。


 そのミスがわかったのは翌日の午後。篠原さんが、両手に白菜をめいいっぱい詰めたカゴを持って、作業場に飛び込んで来たのだ。


「――ちょっと、大変ですっ」


 言葉を選びながらも焦りつつ、篠原さんはカゴを作業机の空いてるスペースに置いた。視線を向けると、田畑さんと御手洗さんはちょうど蕪の葉のカットと袋詰めを分担してやっているところだった。

 作業が中断され、田畑さんの表情が若干苛立つ。


「値段違い、白菜二分の一のパックに四分の一のバーコードがついてて、二分の一に四分の一のが……」

「――わたしがやったのだ」


 言いにくそうに篠原さんが告げる中、田畑さんは一瞬目を見開き、それから低い声でつぶやいた。

 御手洗さんが、えっ、と驚いた表情を浮かべる。


「ごめんなさい」


 顔を伏せ、小声で謝罪した田畑さんを見て、篠原さんは言葉を探すように視線を泳がす。


「あ、いや……とりあえず回収してきて、まだ結構残ってたから」

「でも追加分あったし。朝からだよ、それ」


 沈んだ声で、田畑さんは淡々と言った。


「ああ……それじゃあずいぶん売れちゃったかな……」


 ラップ止めした白菜を手に取り、田畑さんは確かめるように目を細めた。それからもう一度、ごめんなさい、とはっきり言って、バーコードのシールを剥がし始めた。


「あ、大丈夫です。とりあえずわたし、売っちゃった数確認して、お客様に返金できるよう準備するから……」

『篠原さん、内線三番をお取りください』


 励ますように篠原さんが早口で喋っていると、店長の声が館内放送で流れた。


「……っと。じゃあこれ頼みますっ」


 篠原さんは作業場の奥にある受話器を取り、ニ、三言交わして出ていった。


「……ミスったなぁ」


 小さくつぶやいて、田畑さんは白菜のバーコードを慎重に剥がしていく。手伝おうとした御手洗さんに「いいから、蕪やって」と告げて、新たなバーコードを作りに発行機の前へ行く。

 メンバーの中で勤務歴最長、そしてそのアクの強い性格からか、この作業場の中心となるのは良くも悪くも田畑さんだ。

 彼女がいない日にはいない日なりの雰囲気があるが、その影響力を感じさせることは多い。

 彼女の機嫌が悪ければピリピリとした空気になり、良ければ比較的穏やかな空気になる。――そして沈んでいれば、作業場全体が重苦しい空気に覆われる。

 仕事は早く機転も利き、ミスをすることは滅多にない。その自負があるからこそ、田畑さんは他人にも強く当たれるのだ。


 ……だけれども、その分しくじった時のショックと自己嫌悪は小さくない。


 返金する相手が店でポイントカードを作っていれば電話番号を控えてあるが、そうでなければ向こうから連絡が来るのを待つしかない。そして、それは大きなクレームに繋がる可能性がある。

 その場合、責任を取ることになるのは今日の担当社員である篠原さんだ。

 無言で手を進める田畑さんの胸中にあるのは自身への落胆か、篠原さんに借りを作ったことへの屈辱か。

 ともあれわたしにできるのは、ミスを連鎖せぬよう自分の仕事に集中することだけだ。

 対面でやりづらそうにする御手洗さんから視線を切り、わたしはブロッコリーの枝切りを再開した。


                  ※


 翌日。作業机で仕事する田畑さんの顔には、眼鏡が掛けられていた。


「老眼鏡だよ。これで見間違いはしないだろっ」


 思わずじっと見つめてしまったわたしに、田畑さんはしかめっ面で、威嚇するように言い放った。

 二〇年以上、青果野菜で中心となり、仕事を続けてきた田畑さんのプライドは高い。能力に自信があるからこそ意見を曲げず、言葉の端々には己の老いをも否定したいフシが見えた。

 それを妥協して老眼鏡を掛けたことは、彼女を知る者にとってはちょっとした驚きであり……正直言って、わたしは軽い感動すら覚えていた。


「篠原さん、今日来た大根とキャベツ奥の方にしまわないっ! 在庫とごっちゃになって古いのわかんなくなるでしょ!? ちゃんと日付も書いてっ!!」

「! はいっ、すみませんっ!!」


 キャリーに乗せた段ボールを冷蔵庫へ運び入れようとする篠原さんに、田畑さんは威勢よく怒鳴る。いつも通りだ。


「ねぇねぇ、きなこちゃん」


 その様子を横目で窺っていたわたしへ、おもむろに御手洗さんが手をこまねきながら話しかけてきた。


「昨日、カボチャがずいぶん売れたんだよねぇ。冬至でもないのに」

「……そうなんですか?」


 御手洗さんは、一拍間を取ると、


「――カボチャ日和だったのかな?」


 と、ちょっと得意そうに言った。

〝御手洗さんって俵万智に似てますよね、髪形が〟。そう言えば何かの会話でそんなことを口にした記憶がある。言える機会を待っていたのだろうか。

 しかしなぜ今……と思いつつも、わたしは半笑いで頷く。


「ええ、そうだったのかもしれないですね」 

「御手洗っ、次レタス一ケース!」

「あ、はい! ごめんなさいっ!!」


 荒声の田畑さんの指示で、御手洗さんは慌ててレタスが詰めてある段ボール箱を開き、皮を剥いで根元を切る作業を始める。


「……たくっ」


 ふんっ、と鼻息を吐いた田畑さんの牙がこちらへ向く前に、わたしは水洗いのシンクへ視線を戻した。

 浮かぶサラダ菜の群れ。ゆらゆらと蠢く様子はさながら緑色のクラゲのようだ。包装袋入れの小カゴから専用のビニール袋を取り出し、詰めていく。

 やはり田畑さんは強い。それは他人からの評価はどうあれ、自分が正しいと思うことを自分にとって苦痛であっても貫ける意思があるからだ。

 自身の心のルールに則って起こす行動は信念に裏打ちされている。それを打ち負かし倒れ伏さすことは、理屈論だけでは難しい。

 大抵の人は自分に対してどこかで甘くなったり、妥協に目を瞑ったりするものだ。

 だから、その人を好きかどうかはともかく、自分の意志を貫ける人をわたしは尊敬する。

 田畑さんとは違う形になるだろうが、わたしもいつか、そういう人間になりたいと思う。


 ――孤高の女帝、か。


 口元が綻ぶ。どうして笑いそうになったのかは、自分でもよくわからなかった。

 

                  ※


 その日の夜に選考結果が出た。一次は通っていたものの、各賞が選ばれる二次で落選。

 一次選考通過者のみにつく総評があり〝まとまりがよくキャラクターも悪くはないが、読者を惹きつける魅力に欠ける〟とのことだった。

 大賞作品に選ばれた漫画の作者は、わたしよりも五つ下の学生だった。

〝荒いタッチで絵に課題が残るが、コマ割りの巧みさ、話しの勢いで今後が期待できる〟。

 落選したあとの数日間は、毎度ひどく落ち込み灰色の日々を過ごす。そこから抜け出せるのは、ストックしたネタなどから次に描けそうな作品の種を見つけた時だ。

 今回もご多分漏れなくヘコんだが、それでも、ある部分ではいつもより気にしていないところもあった。

 何度も何度もストーリーを考える内に、それをうまく起承転結に当て込んで、話を作るクセができていた。

 自分なりのパターンというやつだ。それに沿って描けば、違和感を感じさせることなくスムーズに進む物語ができる。読者が理解しやすく、読みやすく感じるような。

 ――ただ、それだと読む者を裏切るような漫画は描けない。なまじ型ができてしまっているからこそ、順序とパターンから逸脱するようなことはできなくなる。

〝型を壊す〟と簡単に言うけれど、それができるのは皆に認められる型を作れる人だけだ。凡庸な者が自分の型から外れるようなものを描けば、支離滅裂で理解しがたい作品が生まれるだけだ。

 型を壊せるのは、天才的な型を作れる者にしかできない。凡人にできるのは、自分なりの器量で少しでも見栄えのいい型を作る努力をすることだ。

 自分が作り上げた型の中で人を惹きつける作品を作る。これがわたしのような凡人の歩む道で、これ以外の道はない。本当に、数十年に一人と言われるような天才を除けば。

 それで結果が出ないのなら、それはその型か本人の力量がプロ未満のもので、商業漫画として価値がないということ。


 ……そう。ただ、それだけのことなのだ。


                  ※


「キャベツのカット、それとブロッコリー一ケースも早目でお願いしますっ」

「あい」


 焦った篠原さんの声に、内海さんが淡泊な返事をする。

 チラシの入った金曜日、さらに給料日後ということもあって店は賑わっている。午前中でレジも全開、それでも行列ができるほどだ。


「おはよーございます」

「――あ、おはよーございますっ」


 遅番の大滝さんが作業場に入って来たのを見て、篠原さんがほっとした顔を向ける。


「わたしレジ入らないといけないから、大滝さん、店出しお願いしますっ」

「はい」


 返事を待たず、篠原さんは作業場を飛び出ていった。店長にせっつかれていたのかもしれない。


「混んでるねぇ」

「そうですねぇ」


 手押しカートに野菜の入った段ボールを重ねながら、大滝さんは水洗いをするわたしに話しかける。

 葉菜はサニーレタス、セロリが売れてて他のはまずまず。今日はネギもなくなるのが早い。

 忙しいが、この忙しさが今のわたしには楽だった。絶え間なく手を動かしていれば凹んだ気持ちからも目を逸らせる。

 視線を切ったが、背後にいる大滝さんは内海さんたちの作るキャベツとブロッコリーを待っているようで、動かずにいる気配があった。

 それからふと思い出したように、彼女はわたしに近づき――


「……そういえばわたし、今月でここ辞めるから」


 ――と。声を潜め、さりげない風につぶやいた。


「……え?」


 手を止め、わたしは間の抜けた顔で振り返る。

 大滝さんは微笑んで、細めた目でわたしを見つめていた。


「――結婚退職かぁ~。……でもぉ、パートなら続けてもいいんじゃないんですか?」

「彼氏さん、仕事で転勤になるからそれに付いて行くそうよ」


 午後、大滝さんの休憩中。作業場内では机を挟んだ内海さんと御手洗さん、その斜めうしろの机で作業する緒方ちゃんの三人が姦しく大滝さんの結婚の話題で盛り上がっていた。


「いいことよ。タッキー容姿は整ってるんだから、ボクシングなんかで怪我したらもったいないでしょ」

「ボクシングっていうか、総合格闘技……」

「何でもいいけど、女の子が殴り合いなんかするもんじゃないの。家庭に入って子供でも作れば、そういうのも落ち着くでしょ」


 思わず口を挟んだわたしに分別臭く内海さんが言う。

 青果でのパート歴は田畑さんに次いで長い内海さん。まだ五〇台だがお孫さんもおられるそうで、今の時代にはめずらしい、一歩引いた昭和の女という生き方をしている。

 仕事の早さでは田畑さんに引けを取らないがやや乱雑。その代わり田畑さんほど社員の指示に口を挟まないので煙たがられることもない。


「その方が幸せよ、きっと」

「はあ……」


 生返事をしたら背中に内海さんの強い視線を感じたが、気付かないフリをした。


「結婚かぁ~。わたしは二〇代前半で決めたいなぁ~」

「早いねぇ、相手はもういるの?」

「いないいないっ。でもぉ、社会人になって週五日で働くのってツラそーだし、専業主婦って憧れません?」


 興味津々という顔で訊いた御手洗さんに、緒方ちゃんは手を振り否定して、逆に質問を返す。


「わかるけどねー。でも、やってみると退屈だよー、主婦って。お義母さんと同居で性格合わないと家にいるのも辛いし」


 アスパラの端を包丁で切り落としながら、御手洗さんはしみじみと語る。


「今の時代共働きが多いんだから、相手は年収高い人見つけないとね。家事はしっかりしなくちゃダメよ」

「はぁ、それもなかなか難易度高いっすねぇ……」


 内海さんのリアル過ぎるアドバイスを聞き、緒方ちゃんはため息混じりにつぶやく。

 三人の話を聞き流しながら、わたしはどこか上の空でセロリの束を作っていた。

 大滝さんはわたしが勤める前からここにいた一〇年以上の経験者だ。仕事の早さはわたしよりも上でしかも丁寧。当然のように辞めるワケない、ずっと続けるものだと思っていた。

 彼氏さんがいるのは知っていたが、大滝さんが結婚するという発想は浮かばなかった。彼女のイメージが〝奥さん〟というものからかけ離れていたからだ。

 ……でも、一般的に考えてみれば大滝さんの歳ならすでに結婚していてもおかしくはない。子供がいたって不思議じゃないのだ。

 だけども、わたしは彼女が結婚しないと確信していた。それがどうしてかと考えると、大滝さんがわたしと同じタイプの人間だと信じ込んでいたからだ。

 就職や結婚などフツーの生き方を選ばず、夢ややりたいことを人生の中心に置き、他人にどんな目で見られようと、気後れしないで生きていく。

 わたしは彼女にもそうあってほしいと、勝手に願っていたのだろう。


 ……それなのに。


 束を押さえる指に力が入り、セロリの茎が一本、真中で折れた。はっとして、わたしは輪ゴム外し折れたそれの上下をカットしてお値下げ用のまとまりに加える。


 ……バカだなぁ。

 

 声には出さず、つぶやいた。

 勝手に期待して勝手に失望して勝手に傷ついて――人に何かを求めるのは、報われなかった時の無念を許容する気持ちがあってこそだ。思う通りにいてほしいなんて虫が良すぎる。子供じゃないんだ。

 他人の在り方に口出しするな。自分の生き方だけを守れ。その生き方は他の人にとって正しくなくても、わたしにとっては唯一無二の生き方だから。


 ……だから、うるさいこと言わないでよ。


 今井さんが作業場に入って来たことで三人のお喋りはやみ、室内は袋の擦れる音、包丁を切る音などに支配された。


                  ※


 帰宅後、すぐに机へ向かい、置いてあるネタ帳をめくってみた。

 使える、面白いと思ったいくつかのネタには赤い線が引いてある。読み返し、頭の中で絵となったものをイメージして――それからため息をつく。


「ホントに面白いのか……これ」


 これなら描ける、悪くないと思えたネタが、どれもどこかで読んだような二番煎じに見えてくる。苦労して時間かけてゴミを作って……無駄なことと思われるのも当然だ。今はそれに納得できる。

 ――わたしはドン・キホーテなのだろうか。憧れた〝何か〟になれると勘違いして、無為な努力を続ける道化に過ぎないのだろうか。

 笑わせる者もいない道化。滑稽である価値すらない。いや、笑う者はいた。ふとした瞬間に自分を客観的に見てしまう、わたし自身だ。

 ネタ帳のページを破り取り、ビリビリに引き裂いてごみ箱に捨てる。それから台所へ行ってジョッキを出し、ありったけの氷を入れてウィスキーを半分ほど注ぎ、炭酸水で割って呑む。

 強炭酸の痺れが去ったあとに、熱いものが胸に残る。

 何か食べたい。冷蔵庫を開けてサラミとチーズを見つけると、乱暴に包装を破いて噛りつく。やや乾燥したサラミは歯に引っかかる。ハイボールで呑み下す。

 

 ……ダメ人間だなぁ、まるで。

 

 酔いの回ってきた頭で、また自嘲する。

 努力してきた。努力して夢を追いかけることは、逃げてるワケじゃないと信じていた。

 だけどずっとうしろにいて、ぴったりとついてきた現実はいつしかわたしに並び、ついには飲み込んだ。

 自分の可能性を信じていたわたしに、どうしようもない、抗えようのない事実を突きつけて。


 ……もう、描けないのかな。


 部屋に戻りジョッキを机に置くと、奥棚に立てた資料やスケッチブックをまどろんだ目で眺める。

 描いて、描いて、描き続けて――それでも、わたしには届かないのかもしれない。

 人生は二者択一。続けるか、辞めるか。頑張るか、諦めるか。夢を見続けるか、捨てるか。……生きるか、死ぬか。

 ジョッキの中身を空け、二杯目を作りにかかる。氷。ウィスキーを注いで、炭酸水を入れて――口をつけたところで、瞳から涙が零れ落ちた。

 悲しくて、怖くて。

 悔しくて、辛くて。

 もう描きたくなくて、でも――。


「……っ、あぁぁ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」


 わたしは声をあげて泣いた。どこにも行けず、どこにも届かない声。それでも叫ばずにはいられなかった。

 わたしはここにいるよ、と。

 まだここで続けているよ、と。

 未来を信じた自分へ、そう叫ばずにはいられなかった。


                  ※


 翌日の朝はすこぶる体調が悪く、朝食も摂れなかった。

 朝の品出しを終え、水洗いにかかってからも締めつけるような胸の痛みが時折疼き集中を乱す。


「レタス持ってきますっ!」

「白菜あった? レンコンは?」

「クレソン悪くって――」


 社員やパートの人たちの忙しない声も、少し遠くに聞こえる。

 包丁を持つ指の力が弱まるたびに、握り直す。


「……?」


 一瞬、視界がブレてセロリの株が三つに増えた。それから、吐き気にも似た咳がついて出る。

 咳は止まらず、わたしは包丁を落とした。

 カシャン、という金属音が作業場内に響き、皆の視線が集まる。それでも咳は止まらなかった。


「大丈夫、山田さん?」


 篠原さんが駆け寄ってきた。わたしはどうにか息を整え、顔を上げる。

 大丈夫です、と言おうとした瞬間、口を押さえていた右手が視界に入る。血。花弁のように散りばめられた、赤い染み。

 何だか現実感が希薄で、わたしはただぼんやりとそれを眺めた。


「きなこ」


 篠原さんのうしろから大滝さんが心配そうに顔を覗かす。

 何か言おうとしたが、突然目の前が真っ白になり――そして足元から崩れ落ちた。


「きなこ!」

「山田さん!」


 大滝さんの腕がわたしの身体を抱きとめる。見えなくても、厚みのある感触でわかった。

 真っ白だった視界は、ゆっくりと景色を取り戻す。篠原さん、大滝さんがわたしの顔を見つめている。今井さんの、どうした? という太い声が聞こえる。


「大丈夫? 意識、ある?」

「……はい、大丈夫です」

「救急車、御手洗さん、内線で!」

「あ、はいっ!」

「起きなくていいから、力抜いて」

「何か頭を置けるもの持ってきてっ! 枕代わりになるやつ!!」


 みんなの声が身体の上で飛び交っている。

 そんなに慌てなくていいから、わたしは大丈夫だから。

 言いたいけど、声にはならない。

 胸の奥で、ドス黒い虫が這い回るような感触。そいつはわたしの身体全体に触手を伸ばし、徐々に徐々に侵食していく。


 ……ああ、ダメだ。


 その不気味なイメージを最後に、わたしの意識は闇の中に沈んでいった。


                  ※


 ――水の底から浮かび上がっていく。上から射す光が、少しずつゆっくりとわたしを照らし出していく。

 ずっとここにいられたらいいのに。そうすれば余計なことも考えず、心を乱されることもないのに。

 穏やかに、ただ穏やかにありたい。ずっと昔はできていた気がする。

 あれはいつのことだったのか。いつからそうじゃなくなったのか。

 思い出せない。ただ今は、少しでも長くここに留まりたい――。


                  ※


 ……気がつくとベッドの中だった。

 微かに鼻につく消毒液の匂い。窓際らしく、左から射し込む陽光を頬に感じる。

 眩しさで細めた目をゆっくりと右に動かす。人の姿があった。


「……きなこ、気がついた?」


 手前の丸椅子に母、その奥に父が座っていた。二人とも強張らせた顔でわたしを見下ろし、目覚めたことで少し安堵したようだった。


「お母さん……」

「さっき、倒れたって連絡受けて」


 短く告げる母の言葉を聞き、それから父を見る。

 スーツ姿。いつもきちんと結ばれているネクタイは緩み、ワイシャツにも皺がある。


「お父さん……仕事は?」

「抜けてきた」


 低く押し殺した声で、父は言った。


「お父さんね、わたしよりも早く来てくれたのよ」

「そんなことはいい」


 父は母を押しのけるように身を前へ出し、わたしに近づく。


「苦しくはないか? 痛いところは?」

「……うん、大丈夫」


 わたしの返事を聞いて、父は噛み締めるように何度も頷いた。


「……そうか」

「看護師さん、呼ぶわね」

「ああ、俺もちょっと電話してくる」

「お父さん」


 立ち上がった父の背に、わたしは声をかける。


「何だ?」


 振り返った父に、何とか笑みを向けられた。


「ありがとう」


 父は驚いたように目を見開き、それから歪ませた顔を隠すよう視線を逸らした。


「……ああ」


 掠れた声で言って、病室を出ていく。


「お母さん。ごめんね、心配かけちゃって」

「いいのよ」


 わたしの肩を軽く撫でながら、母は穏やかに言う。


「仕事……途中で抜けてきちゃった。迷惑かけちゃったよね」

「今は気にしなくていいの、そんなこと。それより無理しちゃダメ」

「うん……ごめんなさい」


 子供のように応えて、わたしは目を閉じた。母の手が優しくわたしの額に触れる。

 こんな風に撫でられたのはいつ以来だろう――と、ふと思った。

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