第3話 きなこと新人さん
一人でいることに、孤独を感じることはあまりなかった。
幼い頃、弟が産まれるまで両親は共働きで、わたしは家にいることが多かったが、漫画を読んだり絵を描いたりで毎日を過ごし、それで充分満ち足りていた。
小、中、高と多少の友達はいたけれど、それだって学校以外で遊ぶことは少なかった。わたしが優先するのは漫画であり――大学に入ってからは特に――日常生活は〝漫画を描くこと〟を中心に回っていた。
夢中で、孤独であることなど考えもしなかった。描くためのアイデアは溢れ、悩む必要もなかった。
……でも、最近ふと、頭をよぎる。
周りにはたくさんの人がいて、その人たちはわたしに何の関心も示さない。
わたしはここにいるのに誰の目にも止まらず、誰の目にも映らない。
誰もいない孤独ではなく、誰もがいる中での孤独。
漫画を描けなくなり、夢から覚めて、その孤独がわたしを蝕んだ時――わたしははたして、〝まとも〟でいられるのだろうか、と――。
※
社辞
下記のように命ずる。
相模原店 青果(野菜)部門 マネージャー 三木純一 → 小田原店 グロッサリー部門 サブマネージャー
朝、着替えを終えて作業場へ向かう途中、掲示板に張り出された辞令を見てわたしは目を丸くした。
三木さん、異動するのか……。
現在、青果部門担当マネージャー(部門の中でのリーダー的な役割だ)、荒田さんと入れ替りで入ってきてちょうど三年目になる。
相模原店の青果社員の中ではコミュニケーションを大事にするタイプの人で、ちょっと抜けてるトコロはあるが、何かと気が回りクセの強いパートの人たちともうまく付き合っている。あの好戦的な田畑さんとも――軽く口喧嘩をすることはあるが、だいたい笑って済ませられるレベルで――良好な関係を保っていた。
こりゃ新しい人が来て、落ち着くまでにしばらくかかるかな……と憂鬱な気分に浸っていると、下に
今井広重 青果(フルーツ) → 青果(野菜 兼 フルーツ)
とあるのに気づいた。
今井さんは現在フルーツ担当だが、過去に野菜を担当していたこともある。兼ってことは、他店から他の人が来るワケじゃなくて、今井さんが両方を兼ねるという意味か。
……これってつまり、人員削減?
そういえば一昨日の朝礼で売り上げのマイナス具合に店長が軽く触れていた。
特に野菜は原価が低くなっていることで売ってもなかなか予算に追いつかず(野菜の予算枠は店全体で一割以上、全部門中もっとも高い)、達成率は、部門別でも下位の方になっていた。
「……せちがらいなぁ」
印刷された素っ気ない紙面をまじまじと見つめて、わたしはため息交じりにつぶやいた。
これで青果は古林さん(野菜)、今井さん(野菜兼フルーツ)、武田さん(フルーツ)となり、うち(野菜)も辛いがフルーツは新たに入ったパートさんが戦力になるまで、さらに不足していた人員を削られたことになる。
当然、その責任の比重は、フルーツのみ担当の武田さんに重くのしかかってくるのだろう。
「……試練が続くなぁ」
同情しつつも他人事感は拭えず、わたしはしみじみと、もう一度つぶやいた。
朝の売り場の品出しを終え、水洗いにかかる。
遅くても開店後の九時から十時の間ぐらいには売り場を整えておかねばならないので、この時間の作業場は鉄火場のようにヒリついている。
田畑さんも御手洗さんも内海さんも、黙々と手を動かし、包丁の切る音、テープを止める音、袋の擦れる音などが室内に響く。
「とんとん、失礼しまーす」
そんな中、張り詰めた空気を破るように高い声が響き、釣り目の女性が入ってきた。ポニーテールに黒のフォーマルな制服、事務所担当社員の三井さんだ。
背後に、わたしたちと同じ店員制服を着た初老の女性を連れている。
「こちら、今日から青果に入っていただく樋野さんでーす」
武田さんに目配せして、三井さんは樋野さんに前へ出るよう促した。
「あ、樋野です、よろしくお願いしますっ」
厚い眼鏡をかけて、心許なそうに両掌を膝の前で組んだ樋野さんは、しかし意外に大きな声で挨拶した。
皆口々に、お願いしまーす、とおざなりな返事を返す。
「樋野さんはフルーツで仕事してもらうので。皆さん、わからないことあったら教えてあげてください」
三井さんのあとを受け、出てきた武田さんが簡単に紹介する。三井さんは、じゃよろしく、と事務員らしい業務的な笑みを浮かべ、作業場から出ていった。
「それじゃあ……まずはパック詰めからやってもらおうか。緒方さん、任せていい?」
「はーい」
イチゴの選別していた緒方ちゃんが振り向いて頷く。彼女の横に来て、樋野さんは説明を受け始めた。
「まずは一個一個よく見て、形の悪いヤツや痛んでるのは、お値下げか廃棄で」
「はい、はい……」
ちらり、とその様子を一瞥して、わたしは自分の仕事に戻った。
はっきりとはわからないが、ずいぶんお年を召された方のようだ。
視界の端で一瞬、田畑さんの不愉快そうな顔が見えた気がしたが、それは気づかなかったことにした。
何か、悪い兆候の前触れ――いや変な想像はよくない。
今日もいつも通り、神坂SMは平和に回っているのだ。気になったことから不安を掻き立てても、ストレスになるだけだ。
「――すみません」
作り上げたセロリの株を売り場に置いている最中、身なりのいい婦人が声をかけてきた。
何度か見かけたことがある。わたしはあまり話し込んだことはないが常連さんだ。
「はい何でしょう?」
すぐさま振り向き応える。女性は薄茶のサングラス越しにわたしを見つめ、いかにも高そうな白のツイードジャケットの襟を正した。
「セルバチコ、おありになる?」
「――はい?」
聞き覚えのない単語に、わたしは思わず上擦った声を出してしまった。
しまった。こーいうわからない物を聞かれた時は平静を装い、一度裏に戻り社員に訊くのが鉄則だ。
しかし、わたしも青果勤務歴五年。野菜の異名変名にも、それなり詳しいつもりだが……。
「おありにならないの、セルバチコ」
婦人はさも意外というように頬に手をやった。〝ご存じあの!〟とでも言いたげなニュアンスだったが、生憎わたしの記憶にそのような名前の野菜はない――が、ないと断定するのは、危うい。
「あー、少々お待ち下さいっ」
一泊遅れて返事をし、わたしは軽く頭を下げてその場を辞した。戸惑っていても仕方がない。わからなければ社員に聞くしかないのだ。
売り場の通路を戻っていると、ちょうどバックヤードへ通じるスィングドアを開けて、出てくる三木さんを見つけた。今日は遅番のハズだがもう来たのか。
わたしは小走りで近づく。
「おはようございます、三木さん。――あのお客様で、セルバチコって野菜置いてあるかって」
「あー、ないなぁ……」
顔をしかめた三木さんの言葉に、わたしはありがとうございますと礼を告げて、お客さんのところへ舞い戻った。
婦人は
「ふーん、ないの」
と、やや不満げな顔を見せたが、特に文句を言うこともなく肉屋の方へ歩いて行った。
息をつき、わたしはセロリを入れたバッドを回収してバックヤードに戻る。それにしても当然のように言ってたけどセルバチコってなんだよ、と考えながら。
訊かれて咄嗟に頭に浮かんだのは、何故かすり鉢でセル画を擦る映像だった。
「ワイルド・ルッコラ。風味が強くて、普通のルッコラより葉も茎も固いんだ」
作業場、水洗いのシンク前から訊ねたわたしに、三木さんは笑って答えた。
午前中の山を越え、一服ついた昼休憩開け。部屋中央の作業机にいるのは田畑さんだけだ。他の二人は後半の休憩に入っている。
「うちじゃ扱わないんですか」
「そうだね~。代官山店じゃあった気がするけど」
自分が以前いた店を引き合いに出して、三木さんは顎を指で挟んで言う。
主要な商品はともかく、めずらしい商品はその土地の住民の傾向や発注者の考えによって置くものが変わる。取り寄せもできるが、鮮度の劣化が早い野菜だと売れるモノは限られてくる。
「ワイルド・ルッコラって言われればわかりましたけど。初めて聞きましたよ、セルバチコって」
「あんまり他所じゃ扱ってないもんなぁ」
「ワイルドなんですか?」
「そりゃもう、ワイルドなんだよ」
「オシャンティですねぇ」
「モード入ってるよねぇ」
「――三木くん、グロッサリーだって?」
だんっ! と勢いよく長包丁でカボチャを切り分け、わたしたちの生温い会話に田畑さんが割って入った。
「そうなんですよ。小田原店リニューアルするらしくって。来週からもう見に行かないと」
「野菜は飽きちゃったんだぁ」
ちょっと意地悪く、田畑さんは口元を歪めて言う。
「いやいや俺が決めたワケじゃなく人事ですし」
「せやねぇ。なら仕方ないねぇ」
「何すか、その言い方」
絡むような田畑さんの言葉に、三木さんは唇を尖らせる。その間も彼女の手は無駄なく動き、四等分に分断されたカボチャをラップにキレイに包んでいく。
さすが二〇年以上のプレイヤー。喋りながらも質、速さ共に無駄がない。
首を回して盗み見しつつ、わたしはほれぼれと感心する。
「古林さんが発注やってくれますから」
「どうだかねぇ、まあ別にいいんだけど。……あの人、入荷日付あんまり見ないし、たまにバーコード確認しないで持ってくから。レジから言われんの、面倒でしょ」
「うん……まあ。そういうことも、あるかなぁ~。忙しいと」
苦笑の苦みを濃くし、三木さんはつぶやくように言った。
よく言えば無駄口を叩かない、悪く言えば周りに無関心な古林さんと、好戦的な田畑さんの仲は良好とは言えない。今までは三木さんが間に入っていたが、今井さんにその代わりはできないだろう。
まあ……それでも時間が経てば、なるようにはなる、とは思う。
人が変わり現場が荒れても、体制の秩序が保たれる限り、最低限の機能は働き続ける。忙しく慌ただしい日々も、続けばいつしか〝普通〟となり、日常と化してしまうのだ。
背中越し、三木さんが最近行った町田の猿カフェのことに話題を移すのを聞きながら、わたしはサラダ菜を袋詰めする作業に戻った。
※
「……ふう」
下書きを終えて、小さく息をつく。時刻は午後一一時半。
明日が休みなので少し無理をして描き終えた。机の上には消しゴムのカスが散らばっている。
ストーリー。圧政を敷く機構(システム)。世界を管理する者の道具として、特殊な力を植えつけられて産まれた少年たちは反旗を翻す。仲間を失いながらも、少年たちは自分たちの街を機構から解放させる。
――僕たちが得たのは、ほんの小さな勝利に過ぎない。この世界を司る巨大な力の前に、いずれ滅ぼされる運命なのかもしれない。それでも――
街の中心にある巨大な廃塔の上へ登り、少年たちが見下ろす場面で漫画は終わる。
この最後のシーンは気に入っている。勝利しても、果ての見えない戦いに臨む彼らの目に映る世界はわたしが見つめる世界と同じだ。鉛筆を握る手にも力が入り、何度も描き直した。
「……うん」
今日は、ここまででいい。机の上を片づけて道具をしまい、お風呂に入ることにする。
メガネを外し、服を脱ぎ、前髪を括っていたゴムバンドを取ってユニットバスへ。湯は溜めていないのでシャワーだけだ。
熱い飛沫を頭から浴びながら、下書きのシーンを思い返す。
抗いのようのない強制に縛られて統治され、定まった人生を生きていく人々。悲しみもなく、喜びもなく、満足もなく、不満もない。それが幸せとされる世界。
そんな世界でこの街を維持するための道具として産み出された少年たちは、街の保安を担当する男の言葉に心を動かされる。
――すべてにおいて正しいというのは、すべてにおいて間違っているのと同じことだ。この世界に生きる人々は画一的で平等だ――
――決まった生活、決まったものを食べ、決まった仕事をして、決まった時間に眠る。安定していて一切の歪みはない――
――でもな、俺にはそんな秩序が何のためにあるのかわからないんだよ。変化がなく同一したものしかない世界なんて、存在する価値がない――
男はやがて世界を害する危険因子として機構によって処分される。だが、そのことによって少年たちの衝動には拍車がかかり〝革命〟という選択を選ぶことになる。
――僕たちは〝変化〟を望んでいる。この世界にとってそれは悪だ。しかし悪も正義も〝ない〟この世界で、それは必要なものなんだ――
……理屈っぽい語りが多い。絵より言葉で説明している。編集者が読んだら、そう指摘されるかもしれない。
頭を洗い、身体の石鹸を洗い流してバスルームから出る。冷える前にバスタオルで水気を拭き取り、保湿クリームを全身に塗って、下着とパジャマを着て髪を乾かす。
それから丁寧に歯を磨き、寝床のロフトの上へ昇る。
毛布に包まり布団をかけ、真っ暗な天井を見つめた。
何と言われようと構わない。わたしには、こういう形でしか戦うことができない。
受け入れられる日が来るか――或いは、わたしが描けなくなる瞬間まで、あがいてもがいて、描きまくるしかない。
〝革命か滅びか〟――その二択に乗った、少年たちと同じように。
※
「あーダメですってっ! そんなにギュウギュウにしたらイチゴ潰れちゃうからっ!」
日曜日。樋野さんと一緒にイチゴのプラスチックケース詰めをしていた緒方ちゃんが高い声を上げた。
「それと種類ごっちゃにしちゃダメ。産地変わるから、同じ生産地のモノでひとまとめにしないとっ」
「じゃあ、産地を二つ書けば……」
「余ったらそういう手もあるけど、ある程度整理しとかないと前口のとも一緒になっちゃうことあるから。できるだけ分けてやった方がいいですっ。基本としてっ」
「はい、すみません……」
責めるような口調ではないが、緒方ちゃんの声にはうんざりした響きが滲んでいる。今朝から似たようなミスで度々注意しているが、樋野さんに改善されている様子はない。
「バーコードの時も、同じ果物でも産地表示変わることあるから気をつけて。――イチゴは結構余裕持って詰めた方が痛みづらいです」
「はい、わかりました」
すみません、わかりました、と、幾度繰り返したかわからない返答をする樋野さん。
そっと振り向き二人の方を見ると、胡乱な目を樋野さんに向ける緒方ちゃんの横顔が映った。樋野さんは手元を見つめ黙々と作業を続けている。
不意に緒方ちゃんと目が合い、わたしは苦笑を送った。首を捻る仕草をしつつ、緒方ちゃんはため息を吐く。
「――あ、ほら。これは痛みあるから除けてください。値下げの方で売るんで。悪いの混ぜちゃうと中で腐ってきますから」
「……はい」
確か、先週も同じような会話をしてた気がする。
わたしは丸まった樋野さんの背中をもう一度見見つめ、それから自分の作業に戻った。田畑さんの、勢いよく包丁を薙ぐ音が響く。
これはいくらか苛立っている時の音だった。
「はぁ~まいっちゃうなぁ~」
樋野さんが休憩に行き、わたしと二人きりになったのを見計らって緒方ちゃんはぼやき始めた。
「厳しそう?」
「だって、先週も同じこと言ったんですよ? あの人、わたしより多く入ってるハズだし、武田さんからも注意受けたと思うんだけど」
その光景は、わたしの記憶の中にもあった。
「ああ、言われてたね。痛んだの一緒にしないでくれって。クレームの元だから」
「やっぱりっ! 覚えてないんだぁ~。樋野さんカット・フルーツもやるんですよね? 不器用そうだけど大丈夫かなぁ……」
「人手がないからねぇ。社員の異動もあるし」
「あ、そういえばもう一人パート入るらしいですよ、フルーツ。男の人」
「へぇ。いくつぐらい?」
ロメインレタスを詰めたバッドを水切りし、冷蔵庫に納めてから、わたしは緒方ちゃんの前へ来て訊いた。
「定年迎えたあとらしいから、樋野さんとそんなに変わんないじゃないかな。前職はデザイナーですって。外国にも行ってたとか」
どこかワクワクしたような顔で緒方ちゃんは言う。そういえばこの娘、文学部で国際言語の学科だったな。海外に憧れがあるんだろうか。
「そんな人が、よく八百屋に来たね」
「料理好きで包丁は使えるって。三井さんが言ってました」
「また盗み聞き?」
「やだなぁ、聞こえちゃっただけですよぉ。人聞きの悪い」
悪戯っぽく笑い、緒方ちゃんは口元を指で隠す。
「樋野さんが慣れるまでは時間かかりそうだし、その人ができる人だといいけどね」
「どこの職場でもやっぱり即戦力が求められますよねぇ~。大学生活、ムダにできないわぁ」
「その意識は立派だね。経験上、覚悟しててもムダになるとは思うけど」
「説得力ありますねぇ」
「うるさいよ」
しみじみと言う緒方ちゃんをひと睨みし、わたしはシンクの前に戻る。
――慣れる前に、辞めないといいけどね。
胸の内に浮かんだ言葉は、言ったら本当になりそうな気がしたので黙っておいた。
※
三日後。フルーツに新人パート、八重樫さんが入ってきた。
定年後だというがやや癖がかった髪はほとんど黒く――肌も松崎しげるのように黒く――見た目的には五〇台にしか見えない、お洒落な感じのおじさんだ。
女性ばかりの職場にはやや戸惑った様子だったが、包丁の扱いは前評通りうまく、仕事を覚えるのも早くて、すぐに馴染んでいった。
「カットフルーツあたしよりもうまい」
と、あまり人のことを言わない三船さんが褒めていたから、実力は折り紙付きだ。
この調子ならフルーツの人手不足もようやく落ち着く。と、皆が思っていたのだが……。
「――何回言わせるんですかっ、樋野さんっ!!」
武田さんの怒声が作業場に響く。もはや聞き慣れてしまった感もあり、誰も注意を向けない。
「バーコードの貼り間違い、産地表示、これ下手すれば産地偽装になるんですからねっ! 前にも言いましたよねっ、いい加減覚えてくださいよっ!!」
敬語ではあるが、武田さんの声には強い憤りと苛立ちが込められている。この話題で叱られるのは何度目だろうか。
「覚えられないならメモ取って、確認しながらやってくださいっ! 遅くても間違うよりはいいですっ!! あとカット、スカスカで間空き過ぎですよっ!! これじゃあ売れないですっ!!」
ついセロリの根を削ぐ手を止めて顔を向けると、樋野さんは武田さんの叱りを横に、俯きながら作業をしていた。
「説教してるんだから、こっち見て話聞いてくださいっ!!」
声量を一段上げて、武田さんが怒鳴った。樋野さんは身体を向けて、「はい、すみません……」と謝る。
「八重樫さんにも教えてもらってるんでしょ? あの人、あなたのあとに入ってきた人なんですよっ! 包丁の扱いはともかく、基本的なところは樋野さんの方が知ってなきゃおかしいんですよっ!! わかってますかっ!?」
「はい……」
パートの面々は叱り叱られる二人を見ないように仕事を続けている。田畑さんだけがちらりと目を向け、ふっ、と鼻で笑った。
「僕だって叱りたくないし、何度も言いたいわけじゃないんですからっ! お願いしますよ、本当にっ!!」
武田さんが言い終えたところで、八重樫さんが作業場に戻ってきた。
「下、掃除終わりました」
「……ああ、お疲れ様です。じゃあ次、みかんを――」
声のトーンを切り替え、武田さんは指示を出す。樋野さんはイチゴを手に取りしげしげと見つめている。
何とも痛々しい……怒られる方もそうだが、怒る方もあれじゃあ消耗ヤバそうだ。
仕上げたセロリの株を水に浸し、洗って、袋に詰め始める。
入ったばかりの時はわたしも注意されることはあったが、あそこまで派手に叱られれることはなかった。恐らく、今まですぐに辞めた人も含めて一番叱られているだろう。
武田さんは短気だがそれなりに気は使うし、そうしなければパートとの良好な関係は築けない。それがわかっていてあそこまで叱るということは……よっぽど覚え悪いんだろうなぁ、樋野さん。
残念ながら、そう考えざるおえない。
「できたら声かけて。見ますから」
厳しい口調で告げた武田さんに、樋野さんは小さな声で、はい、と応えた。
※
「――募集誌に写真載ってたよね」
翌日、昼休憩開け。田畑さんが売り場を見に行ったのを見計らい、八重樫さんが話しかけてきた。
「はい? ……ああ、タウンワークですね。フルーツ、人いなかったから」
二ヵ月前、フルーツのパートさんが辞めたあとにアルバイト誌で募集をかけることになった。その時フルーツは人が少なかったので、三井さんの指示で、半ば無理やりわたしも加えられて写真を撮ったのだ。
ただでさえカメラ写りは悪いのに、そうとうぎこちない笑顔だったハズだ。
「勤めて長いんですか?」
リンゴの良し悪しを判別するために叩く指を止め、八重樫さんは顔を向けた。基本的に高い音だと良質で、低いと悪いらしい(種類にもよるが)。
「ええ。大学卒業してからだから、もう五年目かな」
「そうなんですか」
低い声で言って、八重樫さんは頷く。目元の皺は深くて表情は渋い。ダンディズムだ。
「あ、わたし漫画家目指してて、そのための生活費稼ぎって感じで……」
訊かれてもいないのに、つい言い訳じみたことが口から出る。定職で定年までしっかり働いた人に対して、反射的に引け目を感じたのだろうか……。
「そうなんだ。夢かぁ、いいねぇ」
穏やかに微笑んで、八重樫さんは作業に戻った。わたしも視線を切る。
「八重樫さん、もともとはデザイナーだったんですよね?」
背中越しに話を振ってみる。
「うん、建築で。後半はマネージャーみたいな仕事で、設計よりもクライアントとのやり取りがメインだったけど」
「はぁ、何かカッコいいっすねぇ。外国で仕事してたんでしたっけ?」
「そうだね。イギリス、パリ、ドイツ、タイ、ラスベガスにも行ったなぁ。一度外国出ると、戻ってくる時には五キロは痩せてた」
「ハードですねっ!」
思わず声が大きくなる。ワールドワイドだ。関東圏を出たこともないわたしとは比べものにならない。
「……でも、前やってた仕事とはかなり違うジャンルだと思うんですけど、何でスーパーの果物に?」
「包丁使うのは好きだったし、自分が他にどんな仕事をできるか試してみたくて」
「へぇ~アグレッシブですねぇ~」
還暦を過ぎてなお挑戦心が旺盛だ。それが若くある秘訣かもしれない。
「でも、さすがに週五はキツいかなぁ。遊ぶ時間も取りたいし」
ふぅ、と息をつく音が聞こえた。
「……あ。ところで、八重概さんから見て樋野さんってどうですか? 八重樫さんよりも先に入ったけど、かなり苦戦してるみたいで」
「ダメだねぇ。あそこまでできない人は初めて見たよ」
即答、そしてバッサリだ。あとから入ってきた人にここまで言われるって、どんだけツライんだ樋野さん。
「あ~……やっぱそっかぁ~」
「入った時期そんなには違わないけど、私が教えたことも覚えてくれないからねぇ」
普通なら教える立場逆ですよねぇ、とは口に出せず、わたしは苦笑に留めた。
「包丁の扱いも、あんまりうまくなくってねぇ。旦那さんには料理作ってるんでしょ? って訊いたら、結婚してなくて、普段冷凍食品だからあんまり使わないって」
「……へぇ」
うあ。聞きたくない情報を聞いてしまった。
「私もそれ以上何も言えなくてねぇ。まあ何とか、頑張って覚えてくれるといいんだけど」
話しながらも、八重樫さんはせっせとリンゴを指で叩いている。
リンゴの判別、わたしも手伝ったことあるケドよくわからなかったなぁ。
「あはは、武田さんも疲れちゃいますしねぇ」
ごまかすように笑って、わたしは会話を打ち切った。これ以上余計な情報は知りたくないし、今聞いたことも記憶の隅に押し込んでおきたい。
まあ、中々そういうワケにもいかないのだが……。
若干陰鬱な気分に沈みつつ、わたしは樋野さんの事情を教えてくれた八重樫さんを、少し恨んだ。
※
狭い玄関を上り、部屋の内ドアを開けて電気をつける。
外出時は窓前のシャッターを下ろすので、まだ外は明るい時間だが部屋の中は暗い。
「ただいまー……」
疲れた声でポツリと言って、スーパーの袋を冷蔵庫の前に置く。
それから冷やすものと常温の選別。今日はペン入れを終わらす予定なので、夕食はスーパーで買った三〇〇円の焼き鳥弁当だ。
洗面所へ行って手洗いうがい。眼鏡を拭き、五〇〇mlのペットボトルコーヒーを持って机に向かう。
前髪をくくっていると、あくびが出た。
公募賞の締め切りが近いので、ここのところ睡眠時間を削って描いている。疲れはあるが明日は休みだし、今が踏ん張りどころだろう。
――と、気合を入れてGペンを握ったところで、携帯が鳴った。
舌打ちし、ちゃぶ台に置いたスマホを取るため立ち上がる。
「……お母さん」
スマホの画面に表示された名前を見て、わたしは小さくつぶやいた。しばらく連絡は取っていない。
「……もしもし」
数秒置いて出ると、受話器の向こうで安堵したように息をつく気配があった。
『きなこ、久しぶり。元気にしてる?』
「うん、まあ」
「インフルエンザにはかかってない? この間直樹がかかってね、もう一ヵ月も前だけど」
早口で他愛のない雑談を切り出すのは言いにくいことがある時の母のクセだ。
相槌を打ち、話が終わるまで一通り聞いて、それからわたしは「どうかしたの?」と促した。
『……あのね、土曜日……明日の夜、夕飯食べに来ない?』
「土曜って、お父さんいるでしょ」
「そうだけど……お父さんもきなこの顔見たいって言ってるから……」
家を出てから父と顔を合わせたのは一度だけだ。それ以後は、母が父のいない時を見計らってわたしを呼んでいた。
……最後に父と会ったのは、三年前の正月だ。
母に何度もせがまれて、渋々顔を出しに行ったのだ。
あの時父は「金がなくなってせびりに来たのか」とわたしに言い捨て、喧嘩になった。
その瞬間に確信したのだ。この人は、きっと死ぬまで変わらないと。
「嘘でしょ。顔合わせたら、また嫌味言ってくるに決まってるよ」
『お父さんだって、きなこの心配はしてるのよ。ただ、言い方がいつも不器用なだけで……』
「そう。でも結局、喧嘩することになると思うな。心配してるか知らないけど、お父さんのうまくない言い方流せるほどわたし大人じゃないし」
感じが悪いと思いつつも、母の言っていることを素直に受け取る気にはなれなかった。
五年前、家を出た時にわたしが描いた漫画を侮辱した怒りは、まだ収まっていない。
父が言葉の裏にどんな思いを秘めているのかなんて知らない。他人が理解できるのは、口に出して思いを伝えようとした言葉だけだ。
その努力をしようともせず、ただ上から目線で言いたいことを言ってくるだけのヤツに、何でわたしが気を使わなければならないのだ。
『そう言わないでよ、きなこ……』
母の声に悲哀の音が混じる。さすがに胸が苦しくなるが、それでも譲る気にはなれない。
以前にも同じことを言われた。だから、一度ちゃんと話してみようと思ったのだ。
……だけどあの人は、わたしが家を出た時から何も変わっていなかった。
――ただの自己満足が――お前のようなものが――少しは現実を見ろ――昔の友達と自分を比べて――まともな社会人にもなれないヤツが――
罵りの言葉に耐えられず、うるさい! と怒鳴って飛び出した。
あとからかかってきた母の電話にも出ず、子供の頃遊んだ公園のベンチで、ずっと泣き続けていた。
元旦のその日、近くを通りがかった五、六歳の姉弟が不思議そうにわたしを見つめていたのをよく覚えている。
『お父さんには、変なこと言わないように言ってあるから。もう喧嘩になるようなことは言わないでって……』
嘘だ。母があの人にそんな説得をするはずはない
どうにかしてわたしと父を会わせ、仲直りさせたいのだろう。
母も世間体を気にしているのだろうか。定職にも着かず、結婚もしていない娘が家を飛び出していったままでは、近所で話すこともできないと。
「……わかった」
ムクムクと膨らんできた嫌な想像を押さえつけ、わたしは低い声で答えた。
「行くよ。その代わり、もし今度喧嘩になったら、こっちも言いたいこと徹底的に言うから」
『……大丈夫よ、そんなこと。きなこ……』
わたしが黙っていると、母は小さくため息をつき、「わかったわ」と言った。
通話を切り、机に向かう。
疲労は一層濃くなったが、この胸にわだかまった黒いものを何かにぶつけなければ、気が済まなかった――。
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